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岩の裂け目の中に -前編-

文:キャシー・ディガクネ(BFPスタッフライター)

国土の50%以上が乾燥地帯であるイスラエルでは、岩場が数多く見られます。聖書でも神を「岩」に例える聖句がたくさん出てきますが、なぜ神は「岩」に例えられるのでしょうか。神を最初に岩に例えた聖句を見ながら、その理由を考えてまいりましょう。

かわききった地にある大きな岩の陰(イザ32:2)bridgesforpeace.com

主は生きておられる。ほむべきかな。わが岩。あがむべきかな。わが救いの神(詩18:46)

ネゲブの荒野は地上で最も見事な景観の一つだと言えるでしょう。堆積岩(たいせきがん)の断崖、巨大な岩、激しい洪水によって固い地面が削られた古い河床からなっています。

そこには美しさと同時に過酷さがあります。夏には、気温は49度にまで達します。ある週末、私たちのグループはうかつにも暑い昼のさなかにハイキングに出掛けました。その時、一人の人が、気温が45度になっていることに気付きました。水を大量に飲まなくては熱中症になる温度です。水筒の水はやかんで沸かしたように熱くなり、私はめまいと吐き気に襲われ、視界が暗くなり始めました。目がくらむほどの日差しから急いで逃れなくてはなりません。私たちは大急ぎで、そびえたつ崖のふもとにある大きな岩場の涼しい陰に逃げ込み、難を逃れることができて本当にほっとしました。

その時私は、イザヤが描写した「かわききった地にある大きな岩の陰(イザ32:2)」がもたらす回復の意味をはっきりと理解したのです。なぜ聖書が主を岩になぞらえているのかが分かりました。神の保護と守りに頼らない時、私たちの歩みは基本的に気ままで不安定なものとなり、ビジョンはぼやけ、焦点がずれていきます。主はご自分を愛する者を救い出し、神の御名に信頼する者を守り、いつも私たちと共にいる(詩91:14-15)と言われました。その日私はわが岩なる主(アドナイ・ツゥリ)を知ったのです。

岩から出た水

タナハ(創世記〜マラキ)の中で最初に神を「私たちの岩」と呼んだのは、申命記32章のモーセの歌です。シナイの荒野をさまよったイスラエルの子らは、3千年後の私たちのグループと同じように耐え難い暑さと、のどの渇きに苦しんだことでしょう。

モーセの耳には、水を必死に求める人々や動物の叫び声が絶え間なく聞こえていました。「私たちに飲む水を下さい。…いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか(出17:2-3)」と民は泣き叫びました。

続いてモーセが主に叫びました。すると神は「さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう(同:6)」と言われました。みことばにはそれ以上の説明はありません。しかし、命を与える水が岩からわき出した時の民の驚きと喜びは想像することができます。彼らはその水を飲みに突進し、水浴びをしながら、皮袋や入れ物すべてに水を満たしたことでしょう。

この力強い奇跡的な体験をしたことで、モーセは「神は岩である」と宣言したのです。ラビ・マイモンは、ヤハウェを指す時に岩と訳される「ツゥル」というヘブライ語は、泉や源、わき水を意味すると指摘しています。荒野で渇きのために死にそうになっていたイスラエルの子らに対し、神はご自分が彼らの養い手であり、命の源そのものであり、枯れることのない泉であることを明確にされたのです。

転がる石

聖書考古学協会の記事によると、荒野には「歩く岩」とか「航行する岩」と呼ばれる神秘的な現象があるそうです。この岩は実際に荒野の砂地をひとりでに滑って移動します。

興味深いことに使徒パウロは、荒野でイスラエルの民に付いてきた「御霊の岩(Ⅰコリ10:4)」について語っています。パウロによると、イスラエルの民は荒野で「彼らについて来た御霊の岩」によって養われました。パウロの説明する「御霊の岩」が、前述の奇妙な転がる岩の現象ではないことはほぼ明らかです。では、岩が付いてきたとはどういう意味でしょうか。

ジョン・バイロン氏は聖書考古学協会誌の「パウロ、イエス、転がる石」と題する記事の中で、水の源が「付いてくる」という考えを表明したのはパウロだけではないと言っています。

「『聖書古代誌』として知られる紀元1世紀の旧約聖書偽典には、『神はご自身の民を荒野に導かれ、彼らのために40年にわたって天からパンを降らせ、海からウズラを来させ、井戸の水について来させた(10:7)』と書かれている」

40年にわたって何百万ものイスラエル人と家畜が荒野をさまよっていた時、彼らを潤し続けたのは岩から出た水だったと、パウロも聖書古代誌も考えています。ミドラッシュ(古代ユダヤの聖書注解書)の中の民数記の注解にも、岩/生ける水(よどんでいるのではなく流れている水)の井戸が荒野で民に付いてきたと書かれています。

荒野の砂地をひとりでに滑って移動する石
Bill45/shutterstock.com

コリント人への手紙第一10章4節でパウロは、イエスを「」と呼んでいます。エペソ人への手紙(2:20)では、イエスは「礎石」と呼ばれ、使徒ペテロは「家を建てる者たちが捨てた石」と呼びました。多くのキリスト教学者は、イエスが実際に移動する「岩」としてイスラエルの民の中にいて、欠かすことのできない貴重な水を与え、厳しい環境の中を旅していた民を養ったと信じています。

岩の裂け目の中に

神が岩であるというモーセの考えは、出エジプト記の後半でさらに強固なものとなりました。出エジプト記33章18節でモーセは「あなたの栄光を私に見せてください」と神に嘆願します。モーセは、神の臨在がイスラエルの民と共に約束の地に行くことを再確認したかったのです。しかし、神の御顔を見るなら死んでしまいます。ですから神は「見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう(出33:21-22)」とおっしゃったのです。

岩の裂け目に隠されたモーセ
artmig/shutterstock.com

これは「あわれみ」と「力」という神の本性(ほんせい)の二つの側面を見事に描写しています。神はモーセをご自分の御手で覆い、岩の裂け目に隠してご自分の臨在の力から守られました。

モーセが新しく2枚の石の板を切り取って再びシナイ山に登った後、主はモーセの前を通り過ぎ、次のように宣言されました。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に(出34:6-7)

聖書に出てくる名前は単に人を識別するだけでなく、その人の性質そのもの、ひいては、その人の行く末を示していることさえあります。神はただモーセにご自分の御名を宣言されたのではありません。ご自分の本性の真理、美しさ、栄光を宣言されたのです。この神のことばを聞いたモーセは地にひざまずき、礼拝しました(出34:8)。私たちもモーセと同じように応答する必要があります。神は、私たちが神を知るようになり、その知識の上に信仰を建て上げることを願っておられます。こうして私たちが神への崇敬の念で満たされ、私たちを愛しておられる神に対し、ますます畏敬(いけい)の念を抱くことを望んでおられるのです。

ハンナの岩

最も美しい讃美と感謝の極みに満ちた祈りがみことばの中にあります。ハンナが歌ったこの賛美は、しばしばメシア来臨の預言と見なされてきました。彼女は待望の息子を主から与えられた後にこの歌を歌いましたが、そこにはモーセの歌の響きがあります。

子どものいなかったハンナは何年間も子どもを求めて泣き、祈ってきました。その嘆願に対し天の窓は閉ざされているかのように見えましたが、神がいつの日か願いを聞いてくださるというハンナの信仰は揺らぎませんでした。神は忠実なお方です。時が来てハンナは息子を産み、サムエルと名付けました。

かつては子どものいなかったこの女性に対して、神は忠実でした。この岩に信頼を置くことでハンナは大きな喜びを体験したのです。モーセが神の忠実さに応答したように、ハンナも次のように歌って神を礼拝しました。「主のように聖なる方はありません。あなたに並ぶ者はないからです。私たちの神のような岩はありません(Ⅰサム2:2)

後編では、さらに石や岩の特徴から、神の本性を学んでまいります。

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