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詩篇103篇の力を解き放つ -前編-

TEXT: シェリル・ハウアー(BFP国際開発部長)

詩篇は、時代を通じて世界中で愛読されてきました。中でも103篇は「クリスチャンが最も読んでいる詩篇だ」と語る学者もいるほど、有名な詩です。その内容を深く味わいながら、神の力を体験してまいりましょう。

聖書は、心の痛みを和らげる慰めや、渇いた心を活気づける喜ばしいことばで満ちています。みことばは私たちの目を天に向けさせ、悩みにとらわれていた心を、王なる神の栄光と威光に再び向けさせるために必要なものです。

詩篇103篇もまた、そのようなみことばの一つです。この詩篇はたましいを、息をのむような高みに引き上げる「詩篇のエベレスト」と呼ばれてきました。ユダヤ教の祈祷(きとう)書にも、103篇のことばや表現がちりばめられており、ラビはこの詩篇を聖書文学の最高傑作と呼んでいます。

ダビデの詩篇

「ダビデの詩篇」と言われる103篇には、最初から最後まで創造主に対するダビデの愛が明示されています。学者たちによると、この詩篇が書かれたのはダビデの人生の後半で、大きな危機を体験した後か、人生の終わりが間近に迫った闘病時と言われています。ダビデは、自らを励ましつつ人生を振り返り、神が常に忠実な友、解放者、守護者であったことを思い起こしています。若い時も、そしてイスラエルの王となった後も、ダビデは数え切れないほどの危険や裏切り、死に直面しました。しかし、神は決してダビデを失望させませんでした。ダビデはそんな神に自分の全存在を委ね、感謝に満たされて賛美を捧げたのです。

詩篇103篇は、実に美しい比喩と優雅さと謙遜に満ちた最高傑作ですが、この賛美の根底にあるメッセージは、実は〝力〟ではないかと私は思います。この詩篇から浮かび上がる神の御姿は、神の子どもたちに代わってご自身の力を惜しみなく行使される姿だけでなく、人々が神に喜ばれる正しい生き方ができるように力をお与えになる姿です。

103篇を詳しく見ていくに当たって、ダビデがしたように記憶力を行使するところから始めましょう。

……を忘れるな

欽定訳聖書には「忘れるな/覚えていなさい」という勧告が200回以上出てきます。人は意識的に覚えておかないと、すぐに忘れてしまうものです。時には、無意識のうちに過去を修正して記憶が混乱してしまうこともあります。

イスラエルの民は、エジプトでの経験をあっという間に忘れてしまいました。奴隷生活に苦しみ、神に助けを叫び求めたからこそ、神はモーセを解放者として遣わされました。にもかかわらず、ほんの数年という短い間に、その苦しい過去は快適な思い出にすり替わってしまったのです。

神は再びモーセを通してイスラエルの民に警告しました。「あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい(申6:12)」。このあがないの旅路はただ神によって成し遂げられました。しかし、放浪が終わり、空腹が満たされた時、民がそれを忘れてしまうことを神は知っておられたのです。

バイン解説辞典によると、ここで「忘れる」と訳されたヘブライ語には「気付かない」「注意不足」という意味があります。イスラエルの民は、意識的に日常生活から神を排除しようとしたわけではありません。ただ、定住して成功し始めた時、神が自分たちのためにしてくださった御業は徐々に色あせ、自分の力でできるという高慢がそれに取って代わっていきました。

イエスは、覚えておくように命じました。
Freedom Studio/shutterstock.com

福音書の中でイエスは、しばしば弟子たちに向かって「覚えておくように」と命じています。イエスの教え、イエスが示された模範や奇跡、そしてアブラハム、イサク、ヤコブの神との契約関係を、弟子たちは覚えておく必要がありました。イエスは、キリスト教の未来が間もなくこの12人の弟子たちの手に握られることを知っていたのです。迫害や離散に直面した時、イエスの教えを思い出すことは、弟子たちにとって重要なことでした。使徒パウロも、自分の弟子たちに「覚えていなさい」といつも言い聞かせています。

今日の心理学者たちも、この事実を裏付けています。すなわち、人間とは忘れやすいものであり、つらい過去に対処するため頭の中で事実を調整したり、偽の記憶をつくり出したりするということです。さらに悪いことに、「ほとんどの人は悪いことを記憶し、良いことは忘れる傾向がある」と心理学者は言います。神が、事実をありのまま覚えておく重要性を民に一生懸命たたき込もうとされたのは、当然のことです。イスラエルの民の物語が、神に見捨てられ、なすすべもなく荒野をさまよった話に早変わりし、民を優しく導き世話をした神の存在は、あっという間に忘れ去られる可能性は十分ありました。

「自分はイスラエルの民と同じ失敗などしない」と思わないように、自分がいかに神を忘れやすく、神がしてくださったことを自分で成し遂げたと思ってしまうか考えてみましょう。私たちは、どれほど簡単に、仕事や給料、保険、老後の計画や医療などに頼ってしまうことでしょうか。

一方、ダビデは記憶の力を理解していました。ダビデは自分のたましいに向かって、「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな(詩103:2)」と言い聞かせています。死からの救い、奇跡的な介入、癒やし、超自然的な神の導きを思い出すたびに、ダビデの信仰は強められました。こうした記憶によって、ダビデは未来に直面する力を得たのです。過去に神がしてくださったことを思い出すことで、前進する勇気と力が与えられました。感謝の心と唇の賛美は、こうした記憶の力によって与えられるものなのです。

赦しの力

「主が、すべての罪を赦してくださったことを忘れるな」とダビデは自分の心に語っています。ダビデの人生は、ささいな失敗から、不純な欲望のゆえに仲間のイスラエル人を死に追いやった悪の極みに至るまで、数々の失敗で満ちていました。しかしダビデは、真の悔い改めと赦しをしのぐ罪はないことを思い起こしています。新約聖書にも「神は…すべての悪から私たちをきよめてくださ(る)(Ⅰヨハ1:9)」とあります。

私たちのかせは神によって打ち砕かれました。
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完全に義なるお方である神が、私たちの不純で罪に満ちた心を受け入れ、洗い、雪のように白くしてくださるとは、何と素晴らしいことでしょう!赦しが私たちのものになったのは、ただ神のおかげです。神は、私たちが地のちりからつくられたもので、神がいなければ消え去る運命にあることを覚えておられます。だからダビデは言いました。神は「私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない(詩103:10)」と。東が西から遠く離れているように、神は私たちのそむきの罪を遠く離してくださいます。つまり、神が私たちの罪を赦されるなら、それは消えてしまって二度と現れることはないのです。預言者ミカは、神は「私たちの咎を…海の深みに投げ入れ(る)(ミカ7:19)」と言いました。

103篇で「赦し」と訳されているヘブライ語の語根には、「軽く見る」「ぽいと投げ捨てる」という意味があります。すなわち、取り除くとか赦免するという意味です。こんな映画を見たことがあるでしょうか。ある男性が、無実にもかかわらず、間もなく処刑されようとしています。しかし、ぎりぎりのところで無実の証明がなされ、男性は赦免されます。起訴は取り下げられ、死刑の執行は停止され、死の刑罰から解放されるのです。

赦免には、「なだめる」「和解する」「罪滅ぼしをする」「あがないをする」「無効にする」「消す」という意味もあります。ダビデは「かせを打ち砕かれた(詩107:14)」と歌いましたが、これは「自由にされた!」という叫びにも聞こえます。この自由は、目覚ましい力をもたらします。その力によって罪に立ち向かう権威が与えられ、義の道に歩み、神と同じように自分もあわれみ深い者となり、神が赦されたように人を赦す権威が解き放たれるのです。

後編では、詩篇103篇に秘められた、さらなる力を探ってまいります。

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