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知恵とは知恵ある行いのことである -前編-

TEXT:シェリル・ハウアー(BFP国際開発部長)

人生のさまざまな場面で私たちは知恵を必要とします。聖書もまた神に知恵を求めるように勧めていますが、それはこの世が語る知恵とは違います。聖書が知恵について何と語っているか、学んでいきましょう。

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知恵―それは、人類の歴史を通して人々の心を奪い、探し求められながら、まだよく分かっていない特質の一つと言えます。ソポクレスは「知恵は富に勝る」と語り、ソクラテスは「知恵を追究することで、人間は何も知らない哀れな集団であることを悟る」と言いました。

アリストテレスは「自己を認識し、理解して初めて知恵を得る」と語りました。ヘロドトスは「人生で直面する唯一の悪は無知であり、知恵に関心を払うことこそ善である」と宣言しました。アインシュタインもこの議論に参加し、「知恵は教室では見つからず、教科書からも得られず、ただ生涯にわたる追究で到達できる」と指摘しました。

私はこの原稿を書くに当たって数々の本や論文、記事を読みました。そのすべてに共通していた見解は、人は神にあって賢くなりたいという願いをもつべきであり、知恵の探究こそが人生を左右するということです。ところが、見つけたものが本当に知恵かどうかを見分ける方法については、ほとんど語られてきませんでした。知恵とはいったい何なのでしょうか。このことに満足のいく答えを出せるのは、イスラエルの神だけです。神は「知恵は何よりも大切である」と語られました。聖書では300回以上にわたって、知恵の本当の意味を教えています。

知恵を定義できるのは誰なのか

古代ではフクロウは知恵の象徴でした。それはフクロウが、どの被造物よりも闇の中ではっきりと目が見えたからです。つまり、古代の理解によれば、知恵とは物事を超越して見る力のことであり、隠された知識と理解を掘り起こし、その積み重ねで結論に至る能力を指しました。

しかし聖書の見解は全く違います。聖書で使われている「知恵」を表すヘブライ語は、主に二つあります。一つは「ハカム」で、これはタナハ(創世記〜マラキ書)に150回近く出てきます。世俗的にも宗教的にも使われた言葉で、世俗的には腕の良い職人を表します。幕屋の聖具をつくる職人は熟練した知恵ある人と考えられていました。偶像づくりや魔術に長けた者でさえ熟練者と認められていたのです。

一方ハカムが宗教的に用いられる場合、欺きやずる賢さ、狡猾(こうかつ)さ、魔術といったものは除外されます。神こそが知恵の源だからです。知恵に至る道は、きよく正しい神の絶対的な命令を理解し、神を恐れ、神が期待しておられることに従って生きることで見つかります。私たちは恐れと従順をもって神に完全に従う時に、本当に知恵ある者となるのです。知恵ある人(ハカム)は、神こそが自分の技術の源であることを認め、神への恐れをもってすべてのことをなします。

知恵を意味する二つ目のヘブライ語は「ホクマー」です。これはヨブ記、箴言、伝道者の書などに登場し、旧約聖書全体では140回以上出てきます。ホクマーとは、ハカム(知恵ある人)が追究している知恵のことです。それは成熟した知恵であり、神に対して真の恐れを抱くことを意味します。自立心やプライドを捨て、みことばに示された神の御姿に倣い、神に従うこと、それがホクマーの最大の願いです。つまり、神と一つになり、神から知識と理解を受けるということです。

ホクマーとは、知識と理解を人生のすべての状況に適用し、適切な時に正しい決断をすることです。単に知恵を蓄えることに価値を置いた、古来の人間的な考え方とは違います。ホクマーは心と思いと精神を尽くして主を愛し、神の臨在を喜びとし、神のみことばとその原則を熱心に学び、心から義の道を守る人の行動と決断の中に見られるものです。主を恐れることこそ知恵の初めであることを、知恵ある人は知っているのです。

知恵ある人か愚か者か

知恵ある人 Ollyy/shutterstock.com
愚か者 Ollyy/shutterstock.com

聖書の至るところで、知恵ある人の人生は平和と喜びの人生だと語られています。長寿を享受し、あわれみと真理と信仰を豊かに与えられる人生です。頑固、怠惰、プライド、怒りをもつ愚かな人の人生と、知恵ある人の人生とが、よく対比されています。知恵の追究、これは、とりもなおさず神ご自身を追究することです。神を探究し続けるなら、祝福と恩恵を受けます。しかし、それ以外の決断をするなら愚か者になってしまうのです。

このことを確信していた古代のラビは、しばしば愚か者について著述し、語りました。古代の賢者によると、聖書にはさまざまなタイプの愚か者が載っており、どのタイプにも道徳心と自制心が欠けています。以下が愚か者の分類です。

  1. 単純な愚か者。未熟で衝動が抑え切れず、簡単に誘惑され堕落してしまいます。このタイプは、安易な選択には結果が伴うことを知りません。
  2. 物分かりの悪い人。自説を曲げない頑固者で、1番目の単純な愚か者のように無邪気ではありません。また、自分の行動がもたらす結果をなかなか理解できません。
  3. 横柄で、無礼で、人をあざけり、罪という考え方さえ小馬鹿にします。また、自分の選択が引き起こし得る悪い結果には関心がありません。残念ながら一番よく見掛けるタイプです。
  4. 日常的に口汚い言葉を語り、がさつで恥知らずの人。このタイプは罪を小馬鹿にするだけでなく、そもそも神の存在を信じていません。
  5. 冷笑的な人。皮肉な考え方にどっぷり漬かり、すべてを否定的にとらえ、世界中のすべてをあざけります。箴言には、冷笑する人の最後は滅びだと書かれています。

箴言には、知恵ある人と愚かな人について明確に説明した箇所が数多くあります。「知恵のある者は誉れを受け継ぎ、愚かな者は恥を得る(3:35)」「知恵のある子は父を喜ばせ、愚かな子は母の悲しみである(10:1)」「愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる(12:15)

愚かな者は怒りをぶちまける。しかし知恵のある者はそれを内におさめる(29:11)」「愚かな者には悪事が楽しみ。英知のある者には知恵が楽しみ(10:23)」「知恵のある者はこれを聞いて理解を深め、悟りのある者は指導を得る(1:5)」。知恵ある人は自分の行動に結果が伴うことを知っており、注意深く正しい決断をします。一方愚か者は惑わされ、罪をあざけり、自分自身に裁きをもたらします。

『ピルケイ・アボット(父祖の倫理学、ユダヤ人の知恵の書)』の著者たちは、かなりの時間を割いて知恵について議論し、知恵ある人の最大の特徴は自制心ではないかと述べました。愚か者は自分を制御できないので、自分の感情や邪悪な欲望にいつも屈してしまいます。愚か者は自分の行いの結果を知らないか、知っていたとしても気に留めません。「良いと思うならやればいい」がモットーなのです。

しかし、真の知恵は、自制心があり、誘惑に立ち向かう霊的力がある人を通して表されます。人は常に、正しい道から遠ざけようとする悪の力や邪悪な欲望と闘っています。この闘いはどんな現実的な戦争よりも危険だと、『ピルケイ・アボット』は語ります。目の前の敵は一度倒せばそれで終わりですが、邪悪な欲望は何度も何度も舞い戻ってくるからです。現実の戦争は安全と安心を脅かしますが、誘惑や邪悪な欲望との闘いには永遠の命が懸かっているのです。目に見える軍隊には気付くことができても、霊的な敵は多くの場合、分かりづらく、狡猾で人の目を欺きます。ですから、目に見えるどんな敵よりも手ごわいのです。

後編では、聖書時代の知恵ある人たちが果たした重要な役割について学んでいきます。

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