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イエスの例え話 -後編-

TEXT:レベッカ・J・ブリマー(BFP国際会長)

先月に続き、ヘブル的・歴史的背景を通してイエスの例え話を見ていきます。今月はルカ、ヨハネの両福音書から宴席の例え話、羊飼いの例え話を取り上げます。

ガリラヤ湖の夕日 Photo by M. Nagata

食卓の座席の例え - ルカ14章7節〜

この例え話が語られたのは立派なパリサイ人の家でした。ルカ14章1節には「ある安息日に、食事をしようとして、パリサイ派のある指導者の家に入られたとき、みんながじっとイエスを見つめていた」とあります。このパリサイ派の指導者の家は、広々とした上流階級の住まいだったことでしょう。イエスが上客だったかどうかは分かりませんが、誰もがイエスをじっと見つめていました。そしてイエスもまた他の客たちの行動を見つめていたのです。

コの字型に寝そべる食事形式

当時の上流階級の住宅の食堂はトリクリニウム(ローマの正式な食堂形式。長椅子がコの字型に置かれ、椅子に半ば横たわる格好で食事を取る)でした。席順には明確な序列があり、左側が上席で右側が末席でした。左側の最初の三つの座席は主人と特別な招待客、そして主人の親友の席でした。「われこそは」と主人に近い席を争う客の様子を思い浮かべることができます。イエスのアドバイスは、「末席に着きなさい」でした。下座に着いてくださいと頼まれて恥をかくよりも、もっと上席にお進みくださいと言われる方が良いからです。イエスは「なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです(ルカ14:11)」と言われました。

今日、謙遜の美徳はほとんど忘れ去られたかに見えます。現代の私たちはいかにうまく自己PR(宣伝)するかが求められます。多くの著名人は自己PRのために専門家を雇っています。しかし、ヘブライズムの中では謙遜はいつも好ましいものとされてきました。実際モーセは「地上のだれにもまさって非常に謙遜(民数12:3)」でした。

イギリスのチーフ・ラビ、ジョナサン・サックスは謙遜について次のように書きました。「真の謙遜はすべての美徳の中で最も包括的であり、人生を向上させるものである。謙遜とは、自分の価値を低く見積もることではなく、他の人々の価値を認めることである。それは人生の高貴さに心を開くことであり、目にするあらゆる善に対し賛辞を惜しまないことだ。私は亡父から謙遜の意味を学んだ。父は5歳の時に迫害を逃れてポーランドからこの国に来た。貧しかったので、父は14歳で学業をやめ、家族を支えた。父はほとんどの事を独学で学んだが、どのような形や分野のものであれ、卓越したものを愛していた。父はクラッシック音楽と絵画に情熱を持っていた。文学のセンスは申し分のないもので、私をはるかに凌いでいた。父はあらゆる面で熱心だった。父は何事にも称賛を惜しまなかった。自分より偉大なものに対して心を開く能力、これこそ謙遜の大部分を占めるものではないだろうか。自分がつまらないものであるふりをするのは偽の謙遜だ。真の謙遜は偉大な存在の中に立っているという意識である。それゆえ、神の存在を常に明確に感じていた預言者たちの美徳もまた、謙遜と呼ぶにふさわしいのである。」

イエスは「祝宴を催す場合には、むしろ、貧しい者、からだの不自由な者、足のなえた者、盲人たちを招きなさい(ルカ14:13)」と言われました。イエスを招いた宴会の主人はこの言葉を聞いてどう感じたでしょうか。この宴会に来ていたのは(上座に座る資格がありそうな)立派な人たちだったことでしょう。宴会の主人にとってイエスの言葉は痛かったかもしれません。もし貧しい人や病気の人を招くなら、「義人の復活のとき」報いを受けます(ルカ14:14)。こ神はご自分の民が、困窮する人々に愛を示すことを強く願っておられます。

ヤコブ書にはこうあります。「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです(ヤコブ1:27)」「神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。」(ヤコブ2:5)

ラビ・サックスが謙遜とは「他の人々の価値を認めることだ」と言ったことを思い出してください。つまりイエスは、自分の価値の評価は神に委ねなさい、そして、たとえ世間が価値を認めていない人に対しても、その人の価値を認めなさい、と教えているのです。

良い羊飼いの例え - ヨハネ10章

良い羊飼いは、羊のために命を捨てます

聖書でよく使われる比喩の一つに「羊飼い」と「羊」があります。聖書の中で羊飼いの例えが出る時、神、イエスご自身の他、指導者たちを指す場合もあります。羊飼いは羊の生活に責任を持ち、どんな時も羊を守り、必要を満たします。当時、羊飼いは聞き手にとって非常に身近な存在であったため、人々は即座に羊飼いの群れに対する行き届いたケアを思い浮かべることができました。羊飼いは羊を食べ物と水のある所に導き、野生の獣や過酷な気候、そして盗人や強盗から守ったのです。

ヨハネの福音書10章でイエスはご自分を「良い羊飼い」に例えました。ここでイエスは羊と羊飼いの例えで、ご自分についての真理を伝えています。

まず、背景について考えてみましょう。この例えを語られた時、イエスはエルサレムにいました。神殿は高い所にあり、誰もが見ることができました。当時の敬虔なユダヤ人たちは神殿内の腐敗に悩んでいました。イエスの話を聞いていた人々は即座に、この例えに登場する雇われた羊飼いとは、ヘロデに「雇われていた」ユダヤ教指導者だと考えたことでしょう。

同時に人々はエゼキエル34章のみことばを思い浮かべたに違いありません。「……ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。…あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。…まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。」(エゼキエル34:2-13)この預言は、この後どのようにして群れが散らされ、神のしもべ「ダビデ(エゼ34:23)」によって再び集められ、養われるかについて語っています。この「ダビデ」がメシアを指しているのは明白です。イエスが「わたしは良い牧者です」と言う時、イエスは単にご自分の深い愛とケアを示しただけでなく、ご自分がメシアであることを明確に語っているのです。

続いてイエスはご自分の死を預言しました。「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」(ヨハネ10:17-18)

これは非常に大切な箇所です。何世紀もの間、ユダヤ人は「キリストを殺したのろわれた民」と非難されてきました。しかし、前もってイエスはそのことをはっきりと否定しておられます。イエスは羊のために惜しみなく「ご自分から」命を捨てるのだと言っています。腐敗したユダヤ教指導者がローマ人と共謀して自分を殺すことを知っていたイエスは、自分が死ぬことは神のご計画であると明確に宣言していました。キリストは、誰かに殺されたのではなく、ご自分から命を捨てたのです。

この二回の学びは、実は四つの例え話の表面を取り扱ったに過ぎません。私の祈りは、誰もが神のみことばの真理を歴史的背景と、ヘブル的背景というレンズを通して理解したいと願うようになることです。

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