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共同体に生きる -後編-

TEXT:アビガイル・ウッド(BFPスタッフライター)

今月は聖書の中の共同体概念から、さらに、キリストの体としての共同体の役割を学びます。

共同の罪と悔い改め

トーラー(創世記〜申命記)には「父親が子どものために殺されてはならない。子どもが父親のために殺されてはならない(申24:16)」とはっきり書かれています。しかし、神はトーラーの中で何度も数世代にわたる処罰についても警告しています。特に出エジプト記20章5節で、十戒の第二戒を宣言された時、主はご自分をねたむ神であると言われ「わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼ(す)」と宣言しておられます。

タナハ(旧約聖書)には神に対する罪が世代を超えて影響を及ぼした例がいくつもあります。その一つはダビデがバテ・シェバと犯した有名な罪です。その結果、息子が死んでしまいました。またそれ以前の例で全家族に罰が下ったものとしては、荒野でコラと共にモーセやアロンに反逆したダタンとアビラムの例が民数記16章にあります。

「集団の罪と悔い改め」という考え方は、ユダヤ的価値観の中心です。毎年順守する大贖罪(だいしょくざい)日(ヨム・キプール)は特に、個人としてだけでなく、共同で神の赦しを求める日として聖別されています。大贖罪の間、共同体は仕事をやめて主の前に悔い改めの断食をし、シナゴーグで特別な礼拝を捧げます。

キリストの体

ヘブライ語の「エハド(一つである)」という考え方は、言うまでもなく、ユダヤ教のみならずキリスト教の中にもあります。共同体に強く勧められている一致は、使徒たちの記した新約聖書の中で何度も使われています。パウロは、「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです(ローマ12:4-5)」と書いています。

古代エルサレム神殿における贖いの儀式

これは、等しく神を分かち合っていることによって、自分たちは一つであるという考え方です。ユダヤ教も同じように考えますが、クリスチャンとの決定的な違いは、私たちを結び合わせている頭がイエスであるという部分です。「また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。」(コロサイ1:18)

パウロはまた、コリント人への手紙第一12章13節「ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人もなく、一つのからだとなるようにみなバプテスマを受けた」と書いています。このようにキリストの体となるバプテスマを受けた結果、自分自身に対するのと同じように、互いに対しても行動する召しを受けたのです。もし、体の一部が機能しなくなれば、共同体全部が苦しみます。これは一人の人がボートで自分の座席の下に穴を開けるなら、船全体が沈むのと同じです(前編参照)。パウロは体の分裂について強硬に語り、互いにいたわり合うように信者に熱心に勧めています。「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」(Ⅰコリ12:26)

キリストの体の内部の戦いは、自分自身の体を攻撃する自己免疫疾患のようなものです。それによって体は衰弱し、本来の機能を果たせなくなってしまいます。私たちはクリスチャンとして、より大きな共同体を視野に入れ、自分の周りの人々に仕えたり敬意を払ったりすることによって、神に栄光を捧げたいと思います。キリストの体なる教会でも、内輪で口論したり、うわさ話をしたりして、からだ全体(つまり自分自身)を攻撃してしまうことがあります。うわさ話は特に真の共同体のあるべき姿を汚すものです。真の共同体の中で、人々が自分の周りの人に興味を持って気遣いをするのは健全です。しかし、その興味がうわさ話になる時、それは体全体への攻撃となります。ですから、キリストの体が分裂せずスムーズに機能するよう、体の中の病に気を配らなくてはなりません。

キリストの体(共同体)が、キリストを通して内輪もめを克服する強さを持つことはとても大切です。クリスチャンは神の前に一致して、キリストの体の内にいる人々に仕えるという召命があるだけではなく、貧しく困窮している人々の世話をし、孤児に慰めを与える召しがあります。

それはイザヤが次のように言った通りです。「飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。」(イザヤ58:10)また、新約聖書も同様に次のように言って、信者に惜しみなく自分を差し出すよう熱心に勧めています。「このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」(使徒20:35)

あわれみ

親密な共同体では、慈善とあわれみに対する考え方が変わってきます。ユダヤ人の伝統的な見解によると、慈善とは単にあわれむことではなく、「共通の失敗の調整役」です。慈善を意味するヘブライ語の一つに「ツェダカー」という言葉があります。この言葉には「貧しい者を助ける」という意味だけではなく、「義」という意味もあります。これは共同体としての慈善が、現実的に共同体の一部を贖い、共同体の失われた尊厳を回復するという考え方です。

「あわれみ」を意味する「ラハム」というヘブライ語は、「子宮」を意味する「レヘム」にとてもよく似ています。「あわれみ」は、子どもが苦しめば同じように苦しむ「母の愛」のようなものです。母親は単に自分の子どもの痛みに同情するだけでなく、彼女自身もその痛みを共感し、子どものためにすべてのものを犠牲にします。メリアム・ウェブスター辞典によると、同情は「他人の問題や悲しみ、不運に対して、気遣ったり気の毒に思ったりする気持ち」と定義されています。これは確かに立派なことです。しかし「共感」は、それらに対してさらに深く配慮することです。共感するとは「他の人の感情を共有する能力」なのです。つまり共感するとは、単に誰かを気の毒に思うということではなく、他の人の感じている痛みを自分の痛みとして感じることなのです。

これがあわれみという母の愛なのです。母親は自分の子どもと痛みを共にし、自分のものとしてそれを受け取ります。飢えた人に食べさせたり、孤児の世話をしたりするという行いがあわれみなのではありません。それは愛情です。これはあわれみに必ず伴うものですが、あわれみそのものではないのです。あわれみとは母親が自分の子どもと痛みを共にするように他人と痛みを共にすることなのです。この、あわれみがあって初めて、愛情はそこで理解した痛みを和らげるという本来の役割を十分果たすことができるのです。

真の霊的共同体という光のもとにおいて、あわれみの心は大切です。もし私たちが神によって一つであるなら、自分の周りの人の痛みを自分の痛みのように敏感に感じるはずです。私たちの責務は、自分が慰めを受けるだけでなく、自分の同胞をあわれみという母の愛をもって気を配り、神の心によって動かされて、人々の痛みを自分自身の痛みとして受け取れるようになることなのです。

あわれみとは「母の愛」のようなもの

ゼカリヤ書7章9節「正しいさばきを行ない、互いに誠実を尽くし、あわれみ合え」と強く勧めています。ゼカリヤ書には、「耳をふさいで聞き入れ(ず)…心を金剛石のようにし(ゼカリヤ7:11,12)」たために、イスラエルの民から正義と誠実とあわれみがなくなったとあります。民からあわれみがなくなってしまったのは、単に主の律法を受け入れようとしなかったからだけではなく、耳を塞ぎ、心を頑なにしたためだったのです。

心を頑なにし、耳を塞いでいる時、他の人の悲しみや痛みを共にするあわれみは、生まれません。箴言28章27節は、困っている人から目を背けることと、あわれみや愛情の欠如には関係があることを裏付けています。「貧しい者に施す者は不足することがない。しかし目をそむける者は多くののろいを受ける。」

ですから、私たちは目を背けることをやめたいと思います。私たちはキリストの体という共同体として、召命と賜物が与えられているのです。

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