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ヘブライ語で学ぶ詩篇~詩篇73篇 -後編-

TEXT:東京キリスト伝道館 加藤和明先生

悪者が栄え、正しい者が苦しむのはなぜか-。後半ではアサフが正しい現実に引き戻される過程を学びます。

カルメル山からの眺望 PhotobyGraceandRichardKnelsen

詩篇73篇の著者アサフは、まことの神を主と認めない人たちの成功を見て、信仰が揺らぎました。詩篇73篇の後半には、アサフの疑いが、彼の感情と体験を神の視点から見直すことによって、正しい現実に引き戻される過程が描かれます。私たちもアサフの心情を追体験しながら、疑いや迷いから解放されることを期待できます。

むなしさと挫折感

確かに私は、むなしく心をきよめ、手を洗って、きよくしたのだ。私は一日中打たれどおしで、朝ごとに責められた。(詩73:13-14節)

ここでアサフは、彼の主に捧げた生活のすべてが無駄であったように感じています。「心」と訳されている言葉は、人間の思いと動機をつかさどる器官として使われる言葉です。そして、「手」とはその思いを行動に移す手段です。つまり、アサフは内面も外面もすべて主の栄光のために捧げたが、むなしかった、と感じているのです。「きよめる」、また「洗う」というのは、神に仕える祭司たちが神の前に立つ時に必要とされた儀式のことですが、ここではアサフの道徳的な生き方のことを指しています。14節ではアサフが被害妄想に陥っていることが分かります。自分のことしか考えられなくなった彼は、常に自分が責められ、辛い生活を強いられているように感じていました。自分だけが辛い思いをしていると感じ、朝ごとに挫折感を味わっていたのです。

もしも私が、「このままを述べよう」と言ったなら、確かに私は、あなたの子らの世代の者を裏切ったことだろう。(15節)

15節は、もしアサフが感じていたことをそのまま公に告白したら、彼を礼拝の指導者として敬っていたイスラエルの民全体がつまずくぐらいのスキャンダルになるだろうという意味です。それらのことをどう整理すればよいのか…。考えても、あまりにも複雑であるために、苦役であったと続く16節では述べています。しかし、17節から彼の心の思いは大きく変わり、神の現実の世界に立ち返ることができるようになりました。彼は、大切なことを悟ったのです。

真の現実

私は、神の聖所に入り、ついに、彼らの最後を悟った。(17節)

彼は、「神の聖所」に入ったと書かれています。これは、ただ霊的に神の御前に立ったというだけではありません。「聖所」が複数形で書かれていることから、実際に、幕屋、あるいは神殿の境内に入ったということが分かります。そして、そこで祭司たちが聖書から罪人のたどり着く滅びについて語っているのを耳にして(詩篇1、11、12、37、112など)、彼らの最後を悟ったのではないかと考えられます。

まことに、あなたは彼らをすべりやすい所に置き、彼らを滅びに突き落とされます。まことに、彼らは、またたくまに滅ぼされ、突然の恐怖で滅ぼし尽くされましょう。目ざめの夢のように、主よ、あなたは、奮い立つとき、彼らの姿をさげすまれましょう。(18-20節)

アサフの心が変わったのは、自分の内面を見つめて悟りを開いたからではありません。自分の中にはない、神のことばを聞いたことによって真理を悟ったのです。この18-20節のポイントは、神を無視して生きる人たちの成功は一時的でしかないということです。神を否定し、侮る人は「すべりやすい所」に立たされます。彼らの成功はほんのひとときにしか過ぎず、少し目を離したら足を滑らせ、底のない暗闇に転落するのです。神の目から見れば、それはまるで夢のように、実質がないと書かれています。20節で彼らの「姿」と訳されている言葉は、詩篇39章6節においては「幻」と訳されています。偶像礼拝者は成功の度合いが自分の偉大さの度合いであると考えます。しかし神は、彼らの成功は夢と同じほどのはかなさしかないと教えます。

しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。(23節)

アサフは理性を放棄して、神のことばではなく自分の見た印象に信仰を置いてしまいました。そして「まことの神が約束に誠実ではない」という空想の世界観を描いていました。それでも、神はアサフから離れず、彼の手をしっかりと捕まえられていたのです。偶像礼拝者の足が滑りやすい場所に置かれるのと対照的に、神の家族とされた者との運命の違いが表現されています。

天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。(24節)

24〜28節には、アサフの不信仰や疑問が、かけらも見当たりません。すべての問題が解決していない状態で、アサフは悩みから解放されたのです。偶像礼拝者たちのこの世の成功はそのまま続いています。しかし、アサフの目は神だけに釘付けになり、神の近くにいる、そしてそのことによって与えられる本当の安心感と安全感の中で心を休めることを見出したのです。しかし、この結論にたどり着くまで、著者の心は苦しみ、疑いと奮闘しなければならなかったのです。アサフが美しい賛美を捧げることができたのは、彼の生活のすべてが順調にいっていたからではありません。その美しさの背後にある自分の罪の自覚、神のことばの確かさ、そしてそれをそのまま受け入れる信仰が、すべてアサフの心の中で交差したことによって生まれたのです。

詩篇73篇を現代人に生かす

この詩篇を読んで、現代人として考えさせられることが多くあります。中でも、大切なことを三つ挙げてみたいと思います。

1.社会・経済的成功についての認識

クリスチャンとして成長すればするほど、健康や経済的な祝福に恵まれると信じている方がいますが、そのようなことは聖書には約束されていません。アサフは、神の民の霊的指導者でした。にもかかわらず、彼は「一日中打たれどおしで、朝ごとに責められた」という精神状況に陥りました。時に聖書が自己啓発や成功の秘訣の教科書のように利用されることがあります。しかし、聖書は、この世の富や快適さを放棄した人たちの視点から書かれています。キリストに倣う者として、クリスチャンは、貧しい人たちや社会的に追い込まれた人たちと共に歩みます。そして、この世での賞賛と成功のためにイエスを告白するのではなく、イエスを通して神の近くにいることのできる幸せと、私たちが罪を犯しても私たちの手を離さない主の恵みを知り、イエスを救い主として告白するのです。

2.クリスチャンとしての心の態度

二つ目に大切なのは、他人の罪を批判することや、人の成功をうらやむことに時間を使うのではなく、自分の罪に敏感になり、主の目から見て成功した人になることを目指すということです。アサフは他人の罪には敏感でしたが、自分の罪に鈍感でした。人は個性や環境の差によって、異なる種類の罪を犯します。他人が自分と異なる種類の罪を犯すからといって、その人たちを裁くのではなく、その人のために祈り、自分自身も悔い改める。そして、他人の成功をうらやましがるのではなく、主が自分の近くにいてくださる幸せが何よりも優れていることを、聖書のみことばから学び続けることが大切です。

3.神のことばを通して諭される

三つ目は、神のことばがなければ、私たちは何が現実で、真理なのかを理解することができないということです。ギリシャ語で「真理」と訳される言葉は、同時に「現実」という意味を持っています。つまり、聖書がなければ私たちは何が現実であるのかを知ることさえできないのです。アサフは自分の感性や常識でものごとを解釈しました。その出発点が間違っていたので、間違った結論しか生み出すことができなかったのです。彼が信仰を捨てようとまで考えた状態から、喜びと希望にあふれた礼拝者に変えられたのは、神のことばによります。アサフは、恐らく新しいことを学んだのではなく、神殿に行って、忘れていたことを思い起こさせられたのでしょう。私たちは常に新しいことを学ぶ必要はありません。私たちは、すでに知っていることを常に思い起こさせられる必要があります。キリストの十字架、福音の目的、神の家族に属しているアイデンティティ、その中で隣人を愛する生活など、頭で理解していることを、日々の生活の中で聖書から諭される必要があるのです。

PhotobyGraceandRichardKnelsen

アサフは、私たちのよい見本です。みことばから離れると、アサフのように間違った世界観と現実感の中で苦しむことになります。この詩篇73篇は、忘れてしまいがちな大切なことを思い起こさせてくれる詩篇です。神の前で、神に仕えることは決して無駄になりません。そして、たとえ私たちの信仰が揺さぶられたとしても、常に私たちの手を離さない主がおられるのです。

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