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ヘブライ語で学ぶ詩篇~詩篇73篇 -前編-

TEXT:東京キリスト伝道館 加藤和明先生

今月はBFPホームページで好評連載中「ヘブライ語で学ぶ詩篇」より、詩篇73篇をお届けします。悪者が栄え、正しい者が苦しむのはなぜか-。誰もが通るこの疑問に、詩篇73篇の記者アサフが真剣に取り組んだ過程を学びます。

詩篇73篇は、神と歩もうとするすべての人が、必ずどこかで体験する葛藤を正直に描いています。この詩篇を書いたとされるアサフは、イスラエル屈指の賛美指導者でした(Ⅰ歴6:39、Ⅱ歴29:30、ネヘ12:46)。彼は楽器を巧みに演奏し、ダビデの詩篇に音楽を付けた優れた作曲家でした。詩篇73篇は、「なぜ神に従おうとする人には苦しみが付きまとうのに、神を恐れていない人たちには苦しみがないのであろうか」という疑問を中心に書かれています。神に従うことに本当の価値があるのだろうか。神を無視して生きたほうが楽なのではないか。誰もが一度は考える疑問にアサフは真剣に取り組むのです。

今も昔も、神に仕える人は特別な信仰を与えられていると思われがちです。しかしこの詩篇は、そうではないと言います。アサフのようにイスラエルの賛美を導く優れた指導者であっても、時には神のことばを疑い、時に信仰が揺れ動くという現実を教えてくれます。この箇所を通して、神に従い信仰を持つということがどういうことなのか、ご一緒に学んでまいりましょう。

詩篇73篇

まことに神は、イスラエルに、心のきよい人たちに、いつくしみ深い。(1節)

「まことに」という言葉は、疑う余地のない確かな事実を表す時に使われる言葉です。アサフは、聖書に書かれている疑う必要のない事実を出発点として、彼の考えを整理しようとします。ここで「いつくしみ深い」(原語トーヴ)と訳されている言葉は、「正しく」、または「善を持って」接することを意味します。アサフは、天地を創造されたまことの神が、その民に最善を望まれていることは、疑う余地のない事実であると告白します。しかし、同時にその確信と現実の世界が一致していないように感じ、彼の歩みが不安定になっていることを告白しています。

しかし、私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。それは、私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見たからである。(2-3節)

アサフは神のことばと自分の見ている世界にギャップを感じました。聖書の真理と感情のギャップを感じることは、当時に限らず、現代のクリスチャンにもよくあることです。アサフの確信は揺らぎました。神は悪者を裁き、義人を祝福されるはずなのに、前者が栄え、後者が乏しく生活しているからです。彼は、神のことばよりも目で見た世界を現実として受け入れようとしていたのです。当時の文化では、「足」と「歩み」という言葉は、人の生き方(「道」)と関係していました。足は心が向いた方向に進みます。足を前に出す力強さは、心の確信の強さと比例します。アサフが「足がたわみそう」だった、と言っているのは、彼の信仰がつまずく寸前だったことを示します。「歩み」は、生活のことを指します。「私の歩みはすべるばかりであった」とは、比喩表現で、「私の信仰生活はもう少しで押し流されるところでした」という意味です。

大切なレッスン

この詩篇を通して学ぶ大切な教えの一つは、「神を信じ、神に仕える立場にいる人でも信仰を疑い、心の中で悩み苦しむことがある」ということです。

アサフの抱えていた問題は、正しい知識を知らなかったということではありません。彼は、イスラエル史上、名だたる礼拝リーダーだったのです。彼の問題は、知識ではなく、彼の感情でした。彼がこの世を観察して感じたことが聖書の約束と矛盾するように感じたのです。

神を信じ続ける人は、自分の信仰の対象を常に疑い続ける人でもあります。神のことばが信じられないと感じ、疑いの大波に揺さぶられることもあるかもしれません。しかし、その大波の中で溺れそうになっていたとしても、神はすでにその波の中にいてくださっているのです。そして、そのような体験を通されなければ、得られない成長と救いが訪れることを神は計画されているのです。

アサフの葛藤

アサフは、自分に与えられているものと、神を信じない人たちに与えられているものを比べ始めました。そして、神に仕える生き方が最終的に無駄であるように感じ始めたのです。4〜16節には、そのようなアサフの心の混乱と葛藤が正直に書かれています。そして、優れた礼拝者であったとしても、どれほど簡単に神から心が離れやすいかを表現しています。

彼らの死には、苦痛がなく、彼らのからだは、あぶらぎっているからだ。人々が苦労するとき、彼らはそうではなく、ほかの人のようには打たれない。(4-5節)

アサフはまことの神を主と認めない人々を観察しました。彼らは、生活の苦しみを知らず、健康も守られ、ついには神がいなくても人生に何の影響もないと断言できるほどすべてが整えられているように見えました。

冷蔵庫もなく、食料調達が困難だった当時、脂肪は富を持つ象徴でした。偶像礼拝者は、神の基準によって生活をしません。そのため、安息日や食物規定を守らず、弱者から搾取するなど、律法に逆らうことで楽をしていたのかもしれません。神に背いている人たちが何も苦労をしないで、神の祝福の約束を与えられているはずのイスラエルの民より楽な生活をしているのではないか。アサフがそのように感じていたことが分かります。

それゆえ、高慢が彼らの首飾りとなり、暴虐の着物が彼らをおおっている。(6節)

アサフが彼らを観察した時にまず目撃したのは、彼らの高慢な心です。人のファッションセンスが身に付ける衣装に反映されるように、人間の心にあるものは、その人の態度に現れます。首飾りとは、自分を飾る誇りです。また、着物とは他者がその人を見た時、まず初めに目に付くその人の自己表示です。偶像礼拝者の第一印象(着物)は暴虐であるということです。

こうして彼らは言う。「どうして神が知ろうか。いと高き方に知識があろうか。」見よ。悪者とは、このようなものだ。彼らはいつまでも安らかで、富を増している。(11-12節)

アサフの観察はさらに続きます。神を無視してそれなりの成功を収めると、偶像礼拝者は神が必要ないという錯覚に陥ります。ここでの偶像礼拝者は、無神論者ではありません。神の存在は否定しなくても、その神が私たちの世界に関与することがなく、私たちの生活には無関係であると誇っているのです。アサフは、このように神の律法を無視しても裁かれず、かえって神の民より成功を収めているように見える彼らを眺め、うらやましがるようになり、神の約束に対する誠実さを疑うようになったのです。

信仰生活においてのヒント

クリスチャンの中には、罪に敏感な人が多くいます。しかし時として、自分の心の罪ではなく、他人の罪に敏感である場合があります。アサフもそのような人間でした。彼は、偶像礼拝者のように罪を犯し、神をあざけることはしませんでした。しかし、神を無視した人の成功を見て、彼らを裁かない神に不信感を抱き、彼らの生活をねたむようになったのです。偶像礼拝者は、まことの神に仕える人の心に嫉妬心を引き起こす力を持っています。彼らが神を無視しながら楽しんでいる姿を見て、時に義人の心が揺れ動かされるのです。

ねたみは、教会の中で比較的大きな問題にされない罪です。殺人や姦淫は大きな罪とされますが、聖書によれば他人の生活をねたむ、またはうらやましがることも同じだけの罪です。人を殺してはいけない、姦淫してはいけないと書かれているモーセの十戒には次の命令も含まれていることを忘れてはいけません。「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」(出エジ20:17)

クリスチャンが嫉妬する時、その人の心は、キリストとキリストの内にある諸々の祝福だけでは物足りないという状態になっています。または、父なる神から自分に委ねられたものを不十分だとし、「神よりも自分のほうが自分に何がふさわしいか知っている」という心の高慢が表れているのです。

嫉妬への対処法は、他の罪への対処法と同じです。それは、信仰によって、神の知恵と愛を受け入れ、自分に与えられているものが神の視点から見て最善であることに確信を持つことです。報いは、成功や所有物の量によるのではなく、自分に与えられているものをどのように治め、いかに神の栄光のためにそれらを投資したかに応じて神から与えられるのです。

詩篇73篇の最後では、アサフの心があるべき状態に回復します。しかし、そこにたどり着くまで、アサフは自分の心の罪を認め、自分の弱さを公に告白する必要があったのです。来月はその過程を学びます。

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