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聖書時代の文化・言語・生活習慣を学ぶ利点

TEXT:BFP編集部

今月はヘブライルーツを学ぶ楽しさと重要性を今一度学びます。神のみことばをより正しく知ることのできる時代に生きる私たちはなんと幸いでしょう。

聖書時代の文化・言語・生活習慣を学ぶ利点

聖書を読んでいて、何を意味するのか分からない箇所にぶつかることがありませんか。なぜ聖書の中には、あいまいで意味の分かりにくい箇所があるのでしょうか。実は、それにはいくつかの理由があるのです。

(1)時として聖書の著者は、限られた表現方法の枠を外れた、心の中で想像したイメージを用いて表現しています。(例)「目の見えぬ手引きども。ぶよは、こして除くが、らくだは飲み込んでいます。」(マタイ23:24)

(2)ヘブライ語特有の慣用句的表現が用いられている場合があります。それが他国のことばにそのまま字義どおり訳されると、意味を失ってしまうのです。たとえば、日本語には「道草を食う」とか「耳にタコができる」などの慣用句がありますが、それをそのまま英語に訳しても意味が通じないのと同じです。

(3)単に翻訳が正しくなかったため、本来の意味が消されてしまうということもあります。

福音書は決して難解で謎めいた本として書かれたのではありません。そもそも最初に新約聖書が書かれた時は、みことばは非常に率直で分かりやすい文章でした。問題は、私たちが2000年間の時の隔たりに加えて、新約聖書の地から遠く離れて暮らしていること、聖書が書かれた時代とは言葉も文化もすっかり変わっていることです。しかし労を惜しまずに調べれば、理解するのが難しく感じる箇所でも、本来の意味を見付けることができます。

このことをよく理解していただくために、先ほどのみことばの例を用いて、本当に謎が解明されるのか調べていきましょう。

ぶよは、こして除くが、らくだは飲み込む

「目の見えぬ手引きども。ぶよは、こして除くが、らくだは飲み込んでいます。」(マタイ23:24)。これはイエスのおっしゃったことばです。いったい何を意味するのでしょうか。まず全体を見てみましょう。このみことばはマタイの福音書23章で、イエスが律法学者やパリサイ人に対して彼らの律法の守り方が間違っていると叱り、七つの呪いを告げている場面で語られたものです。

「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中でははるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。目の見えぬ手引きども。ぶよは、こして除くが、らくだは飲み込んでいます。」(マタイ23:23-24)

パリサイ人は、自分たちが律法規定を細かく守っていることを誇りにしていました。事実、あまりにそれを誇りとしていたため、律法の細部にこだわり過ぎて、視野を広げなければ見えない、より大切なことをしばしば見落としていました。ここでイエスは、彼らがはっか、いのんど、クミンなどの、些細なハーブに至るまで10分の1を納めて律法を守っていることを取り上げています。律法にある「什分の一の捧げ物」についてイエスは言われているのですが、果物や野菜、穀物に比べて、ハーブは取るに足りない微々たるものです。事実、ハーブを什分の一に入れるべきか否か議論されたほどです。ですから律法学者やパリサイ人はハーブの什分の一を納めることにより、自分たちがいかに(おそらくは求められている以上に)律法を守っているかを見せびらかしていたのでしょう。

イエスは、ご自身が律法を守られたように、誰に対しても律法を守ることを止めるようにとは勧めていません。イエスは言われました。「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」(マタイ5:17-18)

Photo by freeisraelphotos.com

では、イエスはなぜ彼らを非難したのでしょうか。それは律法学者やパリサイ人の律法の守り方に問題があったからです。彼らが律法をよく知っており、人々に教える立場にありながらそれを正しく守っていないことにイエスは憤慨されたのです。イエスは言われました。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行い、守りなさい。けれども、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。」(マタイ23:2-3)

過ちの一つは、彼らが律法の最も小さな点にまでこだわりながら、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち「正義とあわれみと誠実を」おろそかにしていたことです。彼らは物事を正しいバランスで広く見渡す視野を失っていたのです。イエスは語りたいポイントをさらに強調するために、彼らの行いを「ぶよは、こして除くが、らくだは飲み込んでいます」と表現しました。

イスラエルの民は、特定の「汚れた食物」を食べることを神から禁止されていました。ブヨは不浄な生物の中では最も小さなものの一つです。また、神はイスラエル人に対して、もし水などの飲料目的の液体が入った瓶やつぼの中に死んだものが入ってしまった場合、それは汚れたものとなり、その器は砕かれなければならないと言われています(レビ11:33)。ですから、ぶどうの実を潰した汁を瓶に集めるときには、瓶の口に布をかぶせてこします。そうすれば種やカスだけでなく、すべてを台無しにするブヨなどの虫を防げるからです。イスラエル人は誤って汚れた飲料を飲み、主の律法に逆らうことがないように、文字どおりブヨをこし取っていました。

逆に、食べてはいけない最も大きな動物の一つはラクダでした(レビ11:4)。律法を守っている人で、ラクダを食べようと考える人は一人もいませんでした。イエスは、律法学者やパリサイ人が律法を正しく守っていないことを指して、不浄な中でも一番ちっぽけなブヨはこし取りながら、同時に汚れたラクダを飲み込んで(食べて)いるとおっしゃったのです。

この表現は要点を鋭く突くために用いられたものです。ブヨを食べないように気を付けていても、ラクダを食べていたなら律法全部を犯していることになるのは誰でも知っています。律法はすべてを守らなければ意味がないからです。一つのことを守っても、他を破ることですべてが無駄になってしまうのです。

パリサイ人と同じ罪

ラクダの肉は古来から食用にも使われる
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ここで注意していただきたいことは、「ブヨはこしてラクダは飲み込む」罪を負っているのはパリサイ人や律法学者だけではないことです。すべてのクリスチャンが、御霊の実を豊かに実らせる生活から外れ、過ちを犯すことがあります。私たちは、それぞれいつも主の御前に自分の行ないを吟味し、必要なら調整していかなければなりません。自分は何もかもうまくいっているとうぬぼれる前に、他のクリスチャンを指差して批判したり、つまらないことで他人のあら探しをしていないか考えてみてください。ある人はわざわざ出て行って、ひどい時には公の場で他者の過ちを正そうとします。そして、しばしばそのことで人々をひどく傷つけます。そうしたクリスチャンが「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22-23)の御霊の実を結んでいることはごくまれです。これはパリサイ人の犯した罪と同じものであり、主イエスが、兄弟の目のちりを気にするより、まず自分の目の梁をどけなさいとおっしゃったことと同じです(マタイ7:3-5)。

イエスはパリサイ派のある人々を「目の見えぬ手引き」と言われました。彼らには自分自身の過ちが見えませんでした。傲慢と自己正当化の生き方が、思いやりに欠けた律法主義的な行為を生み出し、それが貧しい人々を真の義人に導くどころか、逆に遠ざけてしまったのです。

言語、文化、生活習慣

この例からも分かる通り、みことばの言語、その背景にある著者の持つ文化や生活習慣などを深く掘り下げて探求することは大きな意味を持ちます。この場合、言語はヘブライ語を背景としたギリシャ語、文化および生活習慣は聖書的ユダヤ教です。詩篇51篇7節「……私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。」とあります。皆さんには何の困難もなくこの比喩が理解できるでしょう。しかしアマゾンに住む人がこれを翻訳する場合はどうでしょうか。翻訳者が一度も雪を見たことがなく、聞いたこともなければ……。

新約聖書は、その原典の中ではなんら矛盾せず、一つ一つのことばが互いに高め合い、私たちがより良い主の弟子となるべく書かれています。ここで私が取り上げた問題点は聖書の誤りではなく、貧しい翻訳や、聖書が書かれた時代の文化や言語に関する知識が欠如していたために生み出された問題です。皆さんがほんの少し学ぶ努力をすることによって、難しく感じる箇所も本来の意味を取り戻し、主との距離を縮めてくれることを保証します。

もちろん聖書のほとんどの部分は、とりたてて言語や文化、習慣を学ぶことなしに、現在与えられている訳から正しく読み取ることが可能だと言えます。福音の真髄は明らかにすべての人が理解できるようになっています。言語を深く掘り下げたとしても、確実にこれが正解である、と言える答えの無い箇所も存在します。また学ぶことが制限される環境もあります。インターネットで世界とつながり、自由に情報を得ることのできない場合もあるでしょう。ですから、一部の不可解に見えるみことばの意味を知ったからと言って、高慢になって批判したり、教師や牧師を軽んじることは、あってはなりません。しかし、こうした些細な表現に隠された意味を探求することで、さらに神を知ることができるチャンスがあるのであれば、その学びは無駄にはなりません。神ご自身であるみことばをさらに深く知ることは大きな祝福だからです。

神のみことばは真実です。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(Ⅱテモテ3:16-17)

「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。」(Ⅱテモテ2:15)

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