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あなたは生きた供え物ですか?

BFP編集部 2000年3月

パウロはローマ書の中でこう言っています。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:1-2)。

「生きた供え物となる」とは、どういう意味でしょうか。ヘブル語聖書(旧約聖書)に見られる、「犠牲の形」とは、どんなものだったのでしょうか。世の罪をとり除く神の子羊・イエシュア(イエス)は、なぜ「究極の供え物」なのでしょうか。イエシュアの身体が、ただ一度奉げられただけで、どうして私たちはきよめられたものとなったのでしょうか(ヘブル10:10)。ご一緒に調べてみることにしましょう。

犠牲の子羊

私たちは生きた供え物となるように召されています。しかし、大部分の人が、実際の「供え物」を見たことがありません。イスラエル人はみなこれを熟知しています。古代のイスラエルでは、毎日犠牲となる生き物を持って祭司の所へ行き、祭壇の上でそれを殺しましました。供え物とはどんなものだったのか、自分の目で見たい好奇心に駆られ、最近私はサマリヤ人の過越の儀式を見に出かけました。

それは、早春のことでした。イスラエルの小高い村(ゲリジム山)は、サマリヤ人だけの領域です。娘のアシュレイと私は、幾人かのブリッジス・フォー・ピースのスタッフと共に、犠牲の供え物が奉げられる過程を目撃しました。2500年以上にもわたり、彼らは忠実にこの儀式を守ってきました(ユダヤ人は、紀元70年の神殿崩壊以来、供え物を奉げることを止めましたが、ゲリジム山で礼拝するサマリヤ人は、現在にいたるまで守り続けています)。

確かにそれは、生きた聖書の再現でした。現場を見渡せる低い屋上で、歴史の断片が生き返るのを見ようと、様々な場所からやってきた人々に混じって、私たちは待機していました。

現在、サマリヤ人は世界にわずか650人しかいません。小さなグループではありますが、20年前より300人ほど増えています。何千年もの間育んできたとおり、過ぎ越しの日の夕方、共同体の全員がゲリジム山に集まってきます。彼らにとって、ここは聖なる山です。この山で、ヨシュアが律法を祝福し、イスラエル人は約束の地に入りました。また彼らは,アブラハムがイサクを奉げようとした山、ヤコブが夢を見た山であると、誤って信じています。神は神殿の場所として、エルサレムのモリヤの山を選ばれましたが、サマリヤ人は、ゲリジム山こそ聖なる山であると信じています。サマリヤの女がイエシュア(イエス)に言ったことを思い出してください。「私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」(ヨハネ4:20)。

2000年たった今なお、サマリヤ人はゲリジム山を神の聖なる山だと信じ続け、この山上で来る年も来る年も、過ぎ越しの供え物の儀式を忠実に守ってきました。

まさに太陽の沈む直前、私たちはそこにいました。サマリヤの大祭司が集まり、会衆の前で出エジプト記11-13章が読まれました。しばらくすると、サマリヤ人共同体の人々が、15人ごとに一匹の羊を連れてきます(出エ12:4)。儀式の前、過ぎ越しの羊は、近くの広場で守られています。そこで約1週間、その羊が神に受け入れられる、しみや傷のないものであるかどうかが確認されます。共同体の人々はみな純白の着物を着用し、古代サマリヤ語で読まれる言葉に耳を傾けます。「羊が夕暮れにほふられる」と記された個所(出エ12:6)で、薄刃の小刀を手にした人々が、すばやく一刀のもとに羊の喉をかき切ります。人々が神の前に歓声を上げるとき、血が地面に流されます。その晩、注意深く監視されていた43匹の羊が奉げられるのを見ました。少しの傷があっても、その羊は不適格となり、別なものと取りかえられます。

それから聖書に従って、羊の皮をはぎ、臓物を取り除きます。特別な薪で、強火で燃やされ、主への芳しい香りとして焼き尽くします。私たちの低い屋上には、すぐに熱風が吹いてきて、呼吸ができないほどの刺激臭がただよってきました。燃える脂肪と肉の煙は、もうもうたるもので、とても芳しいかおりとは言えなかったと告白せざるをえません。

その後きれいに洗われ、塩できよめられます(レビ2:13、マルコ9:45)。まるまる焼くために、特別な焼串に刺され、頭とひずめをつけたまま、注意深く取り扱われます(出エ12:9)。堅い岩を切り込んだ大きな窪みは、オリーブの薪で数時間も燃やされ、加熱され、今や羊を焼くばかりに準備が整っています。6匹の羊が丸ごとそれぞれの穴におろされ、枝で覆われ、特別に準備された粘土のふたで焼き穴がふさがれます。何時間か焼き、午後11時半頃炉が開かれます。各家庭が自分の分を取り、家でマッツァ(種無しパン)と苦菜を添えて、大急ぎでそれを食べます。すべては聖書に書いてあるとおりです(出エ12:8、11)。

昔のラビは、「罪のない生き物が、あなたの罪を背負い、命が絶たれるこの儀式を目撃することは、罪の結果に関するメッセージを生々しく伝える。」と言いました。聖書は、「罪の報酬は死である」と言っています(ローマ3:23)。神殿時代、動物の死とその血が、奉げる者の罪を覆いました。もちろん、クリスチャンにとっては、イエシュアが「世の罪を取り除く神の子羊」であり、その死と復活が私たちの罪の代価として、完全に支払われました。もはや、私たちはモリヤ山やゲリジム山の祭壇に、動物を連れて行く必要はありません。「罪の報酬は死である」に続いて、「神の賜物は私たちの主イエス・キリストを通しての永遠の命である」と記されています(ローマ3:23)。

主がなしてくださったみ業を心底感謝するためは、犠牲のしくみを理解する必要がありです。サマリヤでこの儀式を目撃した私たちは、無罪の動物が血を流し、死ぬという現実に、強い衝撃を受けました。私たちの罪のために、義なる神が何を要求されているのかを、深く考えさせられる時となりました。さらに、神の子羊なるイエシュアが、人間のために命を捨ててくださるお姿を、見守っているような気がしました。イスラエル人はエルサレムに、サマリヤ人はゲリジム山に、それぞれ犠牲の供え物を連れて行かなければなりませんでしたが、神は究極の供え物(犠牲)を提供してくださいました。全世界の人々が、この供え物を要求されていましたが、主の犠牲によって、私たちがエルサレムに行かなくてもきよめを受ける道を開いてくださったのです。神はそれほど人類を愛してくださいました。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハ3:16)。神は何という高価な賜物を、人間にお与えくださったのでしょうか。

供え物の制度とは、どのようなものか

供え物とは、礼拝者が所有するある物質(動物、その他)を、神への犠牲として奉げる、宗教的な礼拝行為です。この供え物によって、神との友好関係を回復し、維持するために、一定の方法で奉げられいました。礼拝者の目的は様々です。すなわち、信仰の証明、悔い改めの表明、神を喜ばせその恵みを確保するため等です。供え物は、それを持ってくる人の“心の意図”が極めて重要になります。もしそれが罪のために奉げられるなら、悔い改めが伴わなければ、神はお喜びになりません。感謝の奉げ物も同様です。それが、単なる外見的なものではなく、真の崇拝によるものなら、受け入れられます。

神は、一人ひとりの心をご覧になっています。詩人はこれを簡潔にこう述べています。「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:16-17)。もちろん、異教徒も同じような理由で、自分たちの神々に犠牲を奉げますが、イスラエルの神に犠牲を奉げる人々と同じ結果を得ることはありません。

供え物の「起源」が議論されています。問題は、人間の生まれながらの宗教的本能から出たものか、神の教えに由来するものなのかということです。

創世記には、カインによる最初の供え物について書かれていますが、その観念の起源については何も記されていません。創世記4章4節とヘブル書11章4節には、共にアベルの信仰が、神に受け入れられる供え物となったと書かれています。ある人は、アベルの行為を、神に明示され、命令されて始めたと言います。神のご命令がなければ、彼の供え物は、単なる迷信に過ぎなかったということになります。この習慣は、神によって承認され、モーセの律法によって採用されました。その後、大変複雑ないけにえの方法が発展してきました。供え物は一つの方法で奉げられたわけではなく、その動機や必要の程度に応じて異なる方法が取られました。しかし、神の尊厳を認め、従順を表明し、神の愛顧を受けたいという真摯な願いによって奉げられたときだけ、神にとって価値あるものとなりました。

聖書には、多くの種類の供え物があり、モーセの律法には、それが詳細に記述されています。こうした犠牲は、今の私たちに要求されていないので、供え物を奉げる動機について、きちんと学ぶ時間を取っていません。しかし、供え物の意味について正しく理解するなら、イスラエル人と同じ失敗を犯したとき、神がなにを期待しておられるかを知ることができます。罪を犯したなら、悔い改めを持って、また感謝を持って神に近づく必要があります。昔の複雑な供え物を例示するのに、以下の要約が注目されています。

  1. 全会衆のための供え物は、個人のためににもなされたものである。
  2. 「動物の供え物」は、罪のため、咎のため、また平和のために奉げられ、雄牛、やぎ、はとだけが認められた。野生の獣や魚は奉げることができなかった。さらに、しみや傷の無い物だけが主に受け入れられた。
  3. 「植物の供え物」は、畑の初物から奉げられた。特にぶどう酒・油・穀物(穂、もしくは食物の形で。大麦か小麦の製粉から作られた練り粉・菓子・ウエハース、パンなど)。食物の奉げ物は、しばしば動物の犠牲に添えられた。
  4. 祭壇や奉げ物に注がれたぶどう酒は、平和祭などに添えられたが、罪や咎の供え物には添えられなかった。これは、「香りの奉げ物」でもあった。
  5. 破られることのない関係を祝って奉げられる供え物。神をたたえ、神との平和な関係を促進する賛美、祈願、自発の奉げ物と呼ばれる「平和の供え物」。
  6. 神との破れた関係(罪・咎など)を回復する供え物。「罪を贖うための供え物」は、罪を覆うために血を流し、命が絶ち切られなければならなかった。これは、罪が犯されるたび、何度でも繰り返し奉げられた。血は、祭壇の上に注ぎかけられるか、祭壇の角になすり付けられた。これは意図されなかった罪、もしくは無知によって犯してしまった罪のためのものであり、意識的、故意の律法違反には、贖いは不可能であった。大罪すなわち安息日違反(民15:32)、姦淫(申22:22、23)、殺人(出エ1:12)、冒涜(ヨシ7:15)は、死をもって罰せられた。また人身の犠牲は禁じられた(レビ20:2-5、申12:31)。
  7. 「祭司による供え物」。あるものは祭司無しになされた。またあるものは祭司と一般人の両者によってなされた。
  8. 「全てを神に奉献する供え物」。一部が神に奉げられ、祭司と礼拝者が共に、あるいはどちらかが残りを食べる。過ぎ越しの奉げ物は後者に属する。

古い契約の供え物とイエシュア

ヘブル人への手紙は、大祭司であり、罪の犠牲としてご自身を奉げた、イエシュアの役割りを知る情報の宝庫です(時間をかけてこの書を読んでください。特に5-10章)。旧約におけるレビ人の祭司は、人々の中から選出され、民族を代表して神に関わるよう任命されました。そして民のために、罪の供え物と犠牲をささげました。しかし、彼ら自身にも罪があるために、一般の人々と同様、自分たちのためにも犠牲を奉げなければなりませんでした(ヘブル5:1-3)。これらの犠牲は、人々の罪を覆うため(ヘブル7:11、10:11)日ごとに繰り返されました(ヘブル7:27)。罪の払う代価は、“死”だったからです(ローマ3:23)。それで、染みや傷のない無傷の動物がいけにえとされ、それらの血が祭壇のまわりに注がれました。神がそれをお求めになったのです。「それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」(ヘブル9:22)

イエシュアは大祭司でしたが、レビ的な祭司の秩序にはおられませんでした。彼はより高い、メルキゼデクの秩序におられたのです(詩篇10:4、ヘブル6:7-16)。メルキゼデクやアブラハムのような族長たちが持っていた神との関係を、レビ的な祭司たちは持っていませんでした。偉大な族長アブラハムは、什一の奉げ物を、自分よりも偉大なメルキゼデクに持っていきました(ヘブル7:5-7)。

レビ人の祭司には、罪を消し去ることはできません。ただ罪を覆うために、来る日も来る日も雄牛ややぎを奉げることしかできませんでした(ヘブル10:3)。イスラエルの人々が罪を悔い改める贖罪の日に、どんなに素晴らしい犠牲を奉げても、それは毎年繰り返される必要がありました。「もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、奉げ物をすることは、やんだはずです。ところがかえって、これらの奉げ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。」(ヘブル10:2-3)

しかし、完全で罪のないイエシュアが、ご自分の体と血を奉げられたのです(ヘブル9:12)。イエシュアはただ罪を覆っただけではなく、罪を全く取り除いてくださいました。この神のみ心に従って、イエス・キリストの体が、ただ一度だけ奉げられたことにより、私たちは聖なるものとされたのです。キリストは聖なるものとされる人々を、一つの奉げ物によって、永遠に全うされたのです(ヘブル10:10、14)。私たちは毎日イエシュアのもとに来て、赦しを求めなければいけないかもしれませんが、新しい犠牲が奉げられる必要は全くないのです。

古い契約における罪と犠牲の制度は、メシアの到来とともにすたれました(ヘブル8:7-13)。なぜならメシアが完全への必要条件を満たしてくださったからです。しかしこれが意味するものは、決して古い契約がすたれたとか、効力が無くなったということではありません。レビの祭司的犠牲の役割はもう必要無くなったものの、旧約聖書に書かれている神の約束、契約、教訓は今でも機能しているのです。

イエシュアの完全な犠牲における特権

イエシュアの犠牲とその流された血は、赦しを与え、私たちの人生から罪を除いてくださっただけでなく、古い契約の下では決して与えられることのできなかった、他の特権を与えてくださいました。られていました。

永遠のいのち:赦しと同時に、神の臨在における永遠のいのちの保証が与えられています。「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。」(ヘブル9:15)。さらにヨハネは「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)と言っています。

罪責感からの解放:古い契約の下では、人は良心の呵責や罪責感から完全に解放されることはできませんでした。実際、汚れのない動物の命が、人々の罪のために奪われたことから、おそらく罪責感は増していったことでしょう。罪を「覆う」ということは、「罪を除く」ということと同じではありません。罪を完全に除くことは、新しい契約による、イエシュアの流された血において可能になるのです(ヘブル9:14、10:22)。良心のとがめを取り去り、罪責感を除く唯一の方法は、神の霊が人の中に入り、神の愛によって心の中に癒しをもたらすことです。しかし、聖霊は古い契約の下にある人の中に住むことはできません。この方法は、最高の代価が実際に罪を取り除くために支払われ、人に神との個人的な関係をもたらしたときにのみ、有効となるのです。イエシュアの完全な犠牲においてのみ、罪は全く消し去られ、神の霊が私たち一人ひとりの中に住んでくださるようになるのです。パウロもコリント人たちに言っています。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか」(第1コリント3:16)。これは、動物の表面的な犠牲では不可能なのです。

イエシュアにあって、私たちが悔い改めと赦しを受け入れるとき、そこに罪責感は全くありません。パウロは言っています。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです」(ローマ8:1-3)

神との直接的な交流:救われる以前、人の霊は神と離れていました。動物の犠牲が成し得たことは、罪を覆い、人が神によって滅ぼされないようにすることだけでした。しかし、イエシュアによって罪が取り除かれたことにより、私たちは神の霊と直接交流することができるようになったのです。ですから、もはや神との交わりに、祭司などの仲介者は必要ありません。唯一の仲介者、イエシュアをとおして、私たちは直接神に行くことができるのです(ヘブル6:9-16)。テモテ書も言っています。「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(第1テモテ2:5)。一人ひとり、神と直接語り合うことができるようになりました。

あなたは生ける供え物ですか

はじめに見たローマ書のことばに戻りましょう。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」(ローマ12:1-2)

しかしながら、彼はコリント人にはこう告げました。「新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。」(第1コリント5:7)

これは矛盾ではありません。私たちは、自分自身の努力や犠牲によっては救われません(エペ2:8-9)。門に羊の血が塗ってあった家を、御使いが過ぎ越したように、イエシュアの血がいのちの門に塗られたことにより、死の使いが私たちのいのちを過ぎ越すのです。

十字架によって成し遂げられた救いを受け入れつつも、信仰、謙遜、悔い改めによって神の許に行く心の態度こそ、罪の赦しをもたらすものです。すべての供え物は、悔い改めが伴なってこそ受け入れられ、知らないで犯した罪も赦されるのです。罪を犯し続ける生活を送り、その中に生き続けるなら、何物によっても、その故意の罪、罪のパターンが取り去られることはありません。律法が人間に与えられるのは、「罪のゆえに、だれも律法を守ることができないことを示すためである」と教えています。神の恵みと救いによってのみ、罪が取り除かれます(ローマ5:12-21)。「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」(ローマ6:1-2)。私たちは分かりうるすべての罪(過ち)を告白し、悔いる心を持たなければなりません。また、犯したということを知らない罪(過ち)についても、それを悔い改めねばなりません。

これこそ聖なる、神に喜ばれる「生ける供え物」です。私たちは、しみも傷もない、無垢な子羊のようになる必要があります。私たちは、罪のために犠牲となることはありません。それは十字架上で成し遂げられました。しかし同時に、パウロは「この世の道から自分自身を犠牲として、告白と悔い改めの態度のうちに聖別された聖い生活を送るように」と警告しています。悔い改めは「すみません」と言うこと以上のものです。それは、罪から身をひるがえすことです。たとえ再び失敗したとしても、赦しを求めて神に立ち帰り、聖い生活を送るよう努力することです。そうするとき、神のあわれみと恵みによって私たちの罪は除去され、神の臨在に留るでしょう。これは“業”ではありません。神との交わりにおいて必要不可欠な心の態度であり、神への礼拝の一部です。罪のうわべを飾り、「悪事を善、善事を悪」と呼ぶ世にあって、これは理解しておくべき大切な概念です。今日のクリスチャンの中にも、神は恵み深いお方だから、いくら罪を犯しも、とにかく赦してくださるという間違った態度が見られます。神は恵み深いお方ではありますが、私たちの思いが神に向いているのか、世に向いているのか、心の内を見ておられます。今こそ、ある人々にとっては自己吟味と悔い改めの時かもしれません。

ローマ書の聖句が、生ける供え物としてのありかたを示しています。「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」この世の道を避け、悔い改めつつ聖別された生活を送るようになれば、あなたの思いはメシヤに似たものと変えられるでしょう。これこそ、かくも多くのことをしてくださった神のために、私たちができる最小限のことです。

何をなすべきか、どのようにして知れば良いのか:神はトーラー(律法)を石の板に書かれましたが、今、新しい契約によって、みことばを人の心に書いておられます(エレミヤ1:33、ヘブル10:16)。また聖霊よって罪を示し、私たちを矯正してくださいます。良心に働きかけて、悔い改めに導き、神に立ち帰らせてくださるのです。これは動物を殺すことより、大きく勝った契約です。今や私たち以外の何物も死ぬ必要はありません。私たちの肉には罪がありますから、自分と古い人に死ぬ必要があります。これは、聖霊によって罪を知り、自分自身を聖別するときにのみ起こり得ることです。神が罪の問題を解決し、悔い改めをとおして赦してくださるという、神の広大な愛を考えてみてください。この愛によって、私たちは神との交わりを持つことができるのです。神は、交わりを求めて人間を造られました。

私たちは完全にはなり得ません。しかし、私たちのうちにおられるメシヤは完全です。真の悔い改めをもって神に近づき、メシヤによるきよめを受けるなら、もはや罪に定められることはありません。一瞬一瞬赦されるように、神が道を作ってくださいましたから、もはや罪の中にいる理由はありません。イスラエルの罪のために、毎年祭司が聖所に入っていきました。しかし、イエシュアは、ただ一度だけでそれを永遠に成し遂げられました。「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブル9:12、25-27)

悔い改めは選択肢ではない:神が期待しておられるのは、私たちの義ではありません。それは不可能だからです。ダビデのことを考えてみてください。道徳を守らなければならない立場にありながら、彼は失敗しました。しかし、人間の道徳的失敗を超えて、神との霊的な関係を保ちました。神は人の道徳的失敗を理解されます。もしそれを告白し、神の許に行くなら、これを赦すことができるお方です。そのために、神は備えをしてくださいました。

神は人の霊的な失敗の方を重視されます。神と切り離れ、己を死に導く霊的な姦淫のことです。イスラエルが神を激怒させたのは、霊的な姦淫でした。霊的妥協者となり、神との関係を凍結し、無感覚となった彼らの心を、神は悲しまれました。これこそ、生活で一番警戒しなければならないことです。神はあわれみのうちにイスラエルを求め続けられました。同じように、私たちが罪の中にいる時も、私たちを追い求めておられます。神の求愛と、「立ち帰るように」というあわれみの呼びかけを拒絶することこそ、神を悲しませることです。告白された罪は、メシヤの血によって赦され、もはやどこにも存在しません。告白され赦された罪は、神との関係における障害とはなりません。神を悲しませるのは、霊的に神から切り離れ、関係を破壊し、霊的な姦淫を繰り返すライフスタイルです。神の愛を知りながら、肉を満足させるために、あらぬ所でほとんどの時間を費やしているとは、何と悲しいことでしょう。

神は赦しえる人類の失敗だけでなく、神を拒絶する霊的な失敗をもご覧になっています。もし霊的に正しい状態にあるなら、道徳的に欠陥のある性格であったとしても、神はその魂をお救いになるでしょう。一方的な恵によって赦しを提供してくださいます。これこそ、究極的な恵みです。この根本的、霊的真理こそ、私たちが主と歩む上で最も大切なことです。

道徳性は霊的な成長と共に仕上がり、生活に反映します。しかし、道徳性が私たちを霊的にすると考えて、行いによって成そうとするなら、まだ業による律法の下にあると言えます。他方、霊的なものが成熟し発展するなら、それは徳性の向上をもたらします。

神はどのような犠牲を私たちに求めておられるのか

  • 神は私たちの従順を求めておられる:「するとサムエルは言った。『主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。』」(第1サム15:22)
  • 神は砕かれた心を求めておられる:「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:16-17)
  • 神は公義を求めておられる:「正義と公義を行なうことは、いけにえにまさって主に喜ばれる。」(箴言21:3)
  • 神のあわれみと、ご自身を理解することを求めておられる:「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。」(ホセア6:6)
  • 神は公義とあわれみ、謙遜を求めておられる:「私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」(ミカ6:6-8)
  • 神は、最も大きな戒めを守って生きることを求めておられる:「また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する。』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」(マルコ12:33)
  • *神は賛美のいけにえと、善なることを求めておられる:「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。善を行なうことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。」(へブル13:15-16)

結論として、私たちの罪を無きものとし、交わりを持ち、永遠の命を与えるべく、大いなる備えをしてくださった主を喜びましょう。「生きた供え物」となることにより、これを崇めましょう。形骸化してしまったキリスト教の考え方を一新するために、よく引用される、ジョン・F・ケネディの文を書き直してみます。「神があなたのためにできることを求めるな。あなたが神のためにできることを求めよ。」大いなる祝福に伴って、責任がやってきます。

エルサレムからシャローム

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