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ティーチングレター

-12の鍵- イスラエルに対する今日の予言 Part-2

BFP編集部 2000年2月

わたしは、わたしの民イスラエルの捕われ人を帰らせる。彼らは荒れた町々を建て直して住み、ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み、果樹園を作って、その実を食べる。

わたしは彼らを彼らの地に植える。彼らは、わたしが彼らに与えたその土地から、もう、引き抜かれることはない。」とあなたの神、主は、仰せられる。(アモス9:14-15)

1月号のティーチング・レターで、「12の鍵」のうち5つの鍵を学びました。

序文の中で「神は、イスラエルとユダヤ民族を、世界に救いをもたらす『地上の器』としてお選びになりました。ユダヤ民族にはAプラン、異邦人教会にはBプランというような、ふたつの計画を持たれたわけではありません。神にはAプランがあるのみです。教会として、私たちは今なおイスラエルの地に結びついて前進している、贖いの過程にいます。イスラエルの地を、神は『ご自身のもの』と呼んでおられます。悲しいかな、この世と霊的な諸勢力は、歴史をとおして、神のご計画に対抗してきました。」と記述しました。

敵対するこの世の勢力や、度重なる捕囚にもかかわらず、神は決してご自身の民と計画をお忘れにはなりませんでした。民をもう一度連れ戻し、その地を回復し、彼らを一つの民、一つの国家として贖うとおっしゃいました(エゼキエル36章)。

この預言的な過程は、わずか100年前に始まったばかりであり、私たちの目の前で全速力で前進しています。神はまもなくやってこられるメシヤのために、この地と民を整えておられるのです。聖書は、成就しつつある預言的聖句で満ちています。イスラエルの地とその民は、過去の日に用いられ、打ち捨てられた神の器ではありませんでした。神のあわれみは永遠に続くものです。彼らは以前からご計画の一部であったし、今日もそうです。神のご計画を信じる何百万ものクリスチャンが、ユダヤ民族を迫害する代わりに、エルサレムの平和のために祈っており、神の預言的な計画を支持する立場に立っています。

今回のティーチング・レターでは、残りの7つの鍵を調べることにしましょう。

第6の鍵

イスラエルのちりでさえ、民はいとおしむ

詩篇の著者は、シオンの回復についてこう言っています。「あなたは立ち上がり、シオンをあわれんでくださいます。今やいつくしみの時です。定めの時が来たからです。まことに、あなたのしもべはシオンの石を愛し、シオンのちりをいつくしみます。こうして、国々は主の御名を恐れ、地のすべての王はあなたの栄光を恐れましょう。なぜなら、主はシオンを建て、その栄光のうちに現わ、」(詩102:13-16)

19世紀に近代考古学が始まってから、聖書の地イスラエルの探検はかなり力を入れて取り組まれてきました。その努力はユダヤ民族帰還以来最大と言われています。預言者たちは、町々の再建について語っています。今世紀、ユダヤ人考古学者たちは、何千もの聖書的史跡を、歴史的事実として証明しました。それらを発掘する時間と資金が満たされるまで、すべては注意深く保存されてきました。最も重要な聖書の町々が発掘され、近くには古代の史跡と同じ名を持つ現代の町々が建てられています。まさに預言者たちが予告したとおりです。

この国で、工事をしようとする建築業者が、もし覆われた歴史を発見するなら、一つの道路も一つの家屋も築くことはできません。イスラエルの過去を傷つけないように、本堂が外され、新しい建物は移されるのです。

ここでは、「すべてのイスラエル人が考古学者だ」といわれています。専門家というわけではありませんが、大抵の人が考古学についてわきまえており、みな素人の考古学者のようです。彼らはシオンの石を愛し、シオンのちりをいつくしんでいます。どんな発見も、この地における彼らの過去を、さらに明らかにするものだからです。史跡では、貴重な発見物を損なうことがないよう、小さな刷毛を用いながら苦労してちりを取り除きます。

今日、エルサレムの町は考古学の庭です。すべての人がその歴史を楽しみ学べるようにと、発見されたすべての遺跡が保存されています。エルサレムは、歴史上かつてなかったほどに、そのサイズも人々も大きく成長しています。詩篇102篇では、イスラエルの人々がその地の石やちりを愛し、神がシオンを建てる時、主がエルサレムに栄光をもって現れると記されています。その他のすでに成就した預言と共にこの章句を考慮するとき、主ご自身がエルサレムに来られるのを見るのはそう遠くないと言えるでしょう。

第7の鍵

神は石から肉へと民の心を変えられる

預言者エゼキエルは、エゼキエル36章で、大いなる終わりの日の奇跡について語っています。私はそれを「イスラエル預言の三つのアール(R)」と呼んでいます。第一に、シオンの民の帰還(リターン)です。それについては、第3、4の鍵に記しました。第2に、地の回復(レストレーション)です。これは第5の鍵に記しました。そして最後のアールは、民の心の贖い(リデンプション)です。

神のお言葉を見てみましょう。「わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」(エゼキエル36:24-28)

神はイスラエルの地を、その民のために選ばれました。両者が揃わなければ、この地に繁栄はありません。土地と民の再結合が、両者の物理的・霊的繁栄の鍵であることを、神は明らかにされています。

私たちは自分たちの目で、この繁栄・発展を見ることができます。イスラエルの民は、“完全さ”からはほど遠いのですが、イスラエルを訪れる人々の心は、はっきりと神に引き付けられます。その地のサイクルは聖書的です。国家の祭日も聖書的です。公の建物および公園は、聖句で飾られています。政府の行う公事業では、ほとんどの場合聖書が読まれます。国全体において、聖書が論じられています。聖書は、「この地も民も、神のご計画と目的のゆえに存在している」と述べています。神なくして、世の贖いにおける目的を、十分果たすことはできません。

イスラエルのすべてが、しっかりと聖書に従っているでしょうか。いいえ。しかし、聖書を一度も見たことがなく、神について聞いたこともない旧共産主義国から来た何千何百ものユダヤ人について考えてみてください。今、イスラエルの地で、彼らは聖書を読み、神について聞き、公に神を礼拝しています。多くの人々にとって、これは生涯初めてのことです。神の聖なる地で、彼らは神を見出しつつあります。誠に神はその民をご自身に引き戻しておられるのです。

第8の鍵

神は異邦人を用いてご自身の国と民を祝福される

イスラエルの預言者イザヤは言いました。「まことに、島々はわたしを待ち望み、タルシシュの船は真先に、あなたの子らを遠くから来させ、彼らの金銀もいっしょに、あなたの神、主の名のために、イスラエルの聖なる者のために運んでくる。主があなたを輝かされたからである。外国人もあなたの城壁を建て直し、その王たちもあなたに仕える。実に、わたしは怒って、あなたを打ったが、恵みをもって、あなたをあわれんだ。あなたの門はいつも開かれ、昼も夜も閉じられない。国々の財宝があなたのところに運ばれ、その王たちが導かれて来るためである。」(イザヤ60:9-11)

ローマ書11章17-24節には、異邦人はイスラエルの契約・約束・希望である“オリーブの木”に、接ぎ木されていると教えられています。私たちが木を支えているのではなく、木が私たちを支えているのです。ですから、私たちは神の民イスラエルに向かって誇ることはできません。28節で、「族長たちのゆえに彼らは愛されている」と告げています。ユダヤ民族の忠実さなしには模範がなく、イエシュアの救いはなかったでしょう。それで、聖書はこう結論づけています。「…あなたがた(ユダヤ人)の受けたあわれみによって、今や、彼ら自身(異邦人)もあわれみを受けるためなのです。」(ローマ11:31)

パウロは、私たちクリスチャンに「支払うべき負債がある」ことを教えています。

ローマ書15章27節は、はっきりこう述べています。「彼らは確かに喜んでそれをしたのですが、同時にまた、その人々に対してはその義務があるのです。異邦人は霊的なことでは、その人々からもらいものをしたのですから、物質的な物をもって彼らに奉仕すべきです。」クリスチャンとイスラエルおよびユダヤ民族の関係について、これ以上直接的に語ることができるでしょうか。

第9の鍵

神は約束を守るお方であることを諸国民に示される

同じエゼキエル36章では、神が世界の諸国民に、ご自身の約束とことばを忠実に守ることを示すため、神はこの地と民を回復しつつあると宣言しておられます。「この荒れ果てた地は、通り過ぎるすべての者に荒地とみなされていたが、耕されるようになる。このとき、人々はこう言おう。『荒れ果てていたこの国は、エデンの園のようになった。廃墟となり、荒れ果て、くつがえされていた町々も城壁が築かれ、人が住むようになった。』と。あなたがたの回りに残された諸国の民も、主であるわたしが、くつがえされた所を建て直し、荒れ果てていた所に木を植えたことを知るようになる。主であるわたしがこれを語り、これを行なう。」(エゼ36:34-36)

神は偽ることのできないお方です。また、エレミヤが「あなたの真実は力強い。」と述べているお方です(哀3:23)。ひとたび神が語られるなら、そのことばは成就します。これこそ、今日、神の地と民を連れ戻すために、天と地を動かしておられる理由です。エゼキエルが告げたとおり、現代のイスラエルをとおして、聖書と神を無視するこの世に、ご自身の忠実さを示しておられます。諸国民は、神の預言的御言葉が成就しつつある現場を見ています。興味深いことに、多くの人が神の真実を見ることにより、主に触れました。イスラエル国家の建国以来、教会、そしてユダヤ民族すらも刷新し成長してきました。実現された預言の事実が、神を単なる哲学の領域から、日常の現実へと導き出しました。神は、人とかかわりを持つことを選び取られるお方です。聖書の日々と同じく、再び物理的な方法で、ご自身の民イスラエルとかかわりを持っておられます。証明される必要はないとはいえ、神の成されることを「見る」という事実は、多くの人々を信仰に導き入れています。

第10の鍵

エルサレムは異邦諸国の手から移り、エルサレムの町で神への礼拝が回復する

ルカ21章20-24節は、紀元70年にスタートし、紀元1135年にユダヤ民族を消失に至らしめた「エルサレム崩壊とユダヤ民族の捕囚」を預言しています。それ以降、ユダヤ人によるエルサレム統治はただの夢物語でしかありませんでした。だれが再びユダヤ人の主権の回復を考え得たでしょう。

しかし、ヘブル語聖書(旧約聖書)の多くの預言者が、回復を信じていました。ルカも同様です。24節にルカはこう書いています。「人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。」興味深いことに、アブラハムへの約束が成就されるとき、神の贖いのお言葉が、異邦人を神への信仰に導く役割を成しました。しかし、これは“異邦人の時”が終わるまでのしばらくの間だけです。それが終われば、神は再びその目をイスラエルの地、そしてその町エルサレムに向けられます。

1967年、ルカが書いたイエシュアの預言が実現しました。紀元135年から1967年まで、異邦人の手の中にあったエルサレムが、ついにユダヤ民族の手に戻りました。1967年6月、有名な六日戦争をとおして、古都エルサレムは、もう一度イスラエルの手に落ちました。捕囚後ほぼ1900年後のことでした。西の壁で祈るイスラエル兵士の写真が、生涯におけるこの瞬間の神聖さを証明しています。古代聖都が、再び彼らのものになったのです。

神はこの聖なる都を再びイスラエルから切り離し、回教徒世界にお与えになるでしょうか。興味深いことに、新約聖書のどこにも“パレスチナ”は記述されていません。ただイスラエルとエルサレムがあるだけです。“エルダト”と呼ばれる回教の町にではなく、エルサレムにイエシュアが戻って来られるという聖書の記述に注目しましょう。

エルサレムを巡り闘争が起こるでしょうが、その戦いの源は霊的なものです。神はシオンにその御座を再確立するために働いておられます。神の敵はそれを好みません。しかし最終的に神が圧勝され、諸国民はエルサレムで唯一の神を礼拝するでしょう。

信仰を持った異邦人が従うべき律法を確立するために、エルサレム会議が招集されました(使徒15章)。そのとき、ヤコブはアモス書9章11-12節を引用しました。そこには、メシヤが来られたときに持たれる、ユダヤ人と異邦人による礼拝と、エルサレムの回復が記されています。「この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。」(使徒15:16-17)

興味深いことに、イスラエルの主なる神が礼拝されていたエルサレム内の議会でさえ、アモスの預言を理解していたのです。それには、異教徒の神々ではなく、聖書の神を礼拝する聖なる町へと回復するためには、何がユダヤ民族の補囚と帰還に必要であるかを述べています。

ゼカリヤは、「主の足が、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ」ときを見ました(ゼカ14:4)。諸国民(異邦人)は、エルサレムで神を礼拝する民の中に加わるでしょう。16節は言います。「エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。」

依然として完全な規模には達しませんが、聖なる町エルサレムにおける礼拝は、この栄光ある日に向かって動いています。その時、もう一度エルサレムに神の平和と臨在があふれ、唯一の神だけがその宮で礼拝されるでしょう。

第11の鍵

神は諸国民を裁くために、イスラエルを世界の焦点とする

預言者ゼカリヤは、終わりの日にエルサレムが用いられることについて、大胆に語っています。「見よ。わたしはエルサレムを、その回りのすべての国々の民をよろめかす杯とする。ユダについてもそうなる。エルサレムの包囲されるときに。その日、わたしはエルサレムを、すべての国々の民にとって重い石とする。すべてそれをかつぐ者は、ひどく傷を受ける。地のすべての国々は、それに向かって集まって来よう。その日、わたしは、エルサレムに攻めて来るすべての国々を捜して滅ぼそう。」(ゼカ12:2-3、9)

“その日”、神はエルサレムを「世の国々を裁く基準」として用いるとおっしゃっています。ちょうど、神がご自身の栄光を諸国民に示すため、イスラエルの地と民を用いられたように、それは再び成されています。個人レベルにおいて、私たちと神の関係は、私たちの救いの体験と主に立ち返ることに基づいています。しかし、国家的には、イスラエルに対する態度によって、神は各国の動向を試されます。これは神のリトマス試験紙と言えるでしょう。「あなたは、私がまもなくやって来る準備をしていることがわかりますか。また、この地に対する贖いの計画を理解し、エルサレムを回復する私の意志を支持しますか。それとも、それに抵抗して戦いますか。」と、主は問われています。

それに対抗して戦う人々には、神ご自身の怒りが下されます。この破滅は、エルサレムに対する神のご計画に反して立ち上がる諸国家の上に起こるでしょう。

今日の私たちに対する質問はこうです。「メシヤ来臨を準備するため、神がイスラエルを回復しつつあります。ユダヤ人のメシヤは、分割された回教徒の町に来られるでしょうか。それとも、神への礼拝が行われている、ユダヤ人の町に来られるでしょうか。」エルサレムをもう一度分割しようと求める諸国家は、イスラエルとユダヤに対抗して立ち上がるでしょう。近年、世界の国々が、誤りを犯した国々(すなわちイラク、ハイチ、ソマリヤ、セルビヤ等)を、一団となって攻撃しました。無政府状態の国々に対するこうした処置は、ある意味では必要だったかもしれません。しかし同じように、エルサレムやユダヤ民族に対しても、イスラエルを無政府状態とみなし、国々が立ち上がる時がくるだろうと私は思います。これは神のご計画を無視した行為です。"なぜ"とあなたはお尋ねになりますか。パレスチナの首都として、エルサレムを分割することを、ユダヤ人が拒絶するからです。町を再分割する上で、イスラエル側の非妥協的態度は、世界秩序と和平交渉の障害となります。

この議論のどちらの側にあなたの国はつくでしょう。エルサレム分割に味方しますか。反対しますか。イスラエルを愛して祈ることや、あなたの政府指導者に語りかけることにより、エルサレムからユダヤ主権を奪おうとする者たちに加わることから守られます。

第12の鍵

神の民は帰還を続け、再たび捕囚としてこの地から連れ去られることはない

あるイスラエル批評家は、ここに記述されている預言は、今日のイスラエルに当てはまらないと言います。彼らは、これらの預言はみな、ユダヤ民族がバビロン捕囚から紀元前6世紀に帰還した時成就したと言います。

しかし、私たちの日に、これらの章句が成就していることが、以下の節ではっきりしますし、歴史上他のいかなる時代にも、これほどの規模で帰還が起こったことはありませんでした。バビロンからの帰還は、来るべきより大きな成就の小さな絵にすぎません。

アモス書9章14-15節を見るとき、バビロン捕囚は、明らかに彼が語っているものでないということがわかります。「『わたしは、わたしの民イスラエルの捕われ人を帰らせる。彼らは荒れた町々を建て直して住み、ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み、果樹園を作って、その実を食べる。わたしは彼らを彼らの地に植える。彼らは、わたしが彼らに与えたその土地から、もう、引き抜かれることはない。』とあなたの神、主は、仰せられる。」“私が与えた地から再び彼らが引き抜かれることは決してない”という最後の節に留意してください。バビロンから帰還後、ユダヤ人たちは再び引き抜かれました。ここだけでも、アモスが別な捕囚と帰還について語ったことは明らかであり、それはローマ捕囚と今日の帰還で成就していると私は信じます。

これは私たちにとって何を意味するか

先月、そして今月のティーチング・レターは、水晶玉を使った将来の占いをしようと試みたものではありません。むしろ、聖書の多くの預言的章句が、私たちの生涯にどれだけ成就してきたかを示すために、「これがそれです」式の解釈を用いてきました。私にとっても、そして他の多くの人々にとっても、神が今日働いておられるのを見ることは、信仰の促進力になります。

私たちの信仰を、単なる哲学や宗教的な義務から、イスラエルの生ける神との躍動的な歩みに移しましょう。神はご自身の民イスラエルのために奇跡を成就するだけでなく、教会のためにもそうしてくださいます。クリスチャンもユダヤ人も、共にメシヤ来臨の時が近いことをわきまえる必要があります。それゆえ私たちは、神の真理を求め、大きな霊的必要に直面しているこの傷ついた世界に、神の聖書的贖いのメッセージをもたらすために、懸命に働かねばなりません。

エルサレムからシャローム

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