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隠れ場 -前編-

シャリーダ・スプリンクル/BFP出版局副編集長

「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。」(詩篇91:1)

詩篇91篇を暗唱し始めたものの、私はいつまでたっても、この出だしの部分を覚えられませんでした。そのような中で思いました。「いと高き方の隠れ場に住む者は、……」――主よ。隠れ場とはいったいどこですか。私に教えてください。ただ訪れるだけでなく、私はそこに住みたいのです。

クリスチャン作家のカレン・キングスベリーの本を、ちょうど読み終えて、思いました。物語にはこのようなことが書かれていました。主人公はハリウッドの映画スターで、彼は「お決まり」のように少女と出会い、恋に落ちました。しかし、二人はパパラッチ(有名人を執拗に追いかける写真家たち)に追い回され、二人きりで過ごす場所を見つけることができません。彼らはパパラッチの裏をかこうと、変装したり、レンタカーを使ったりしましたが、やっと二人きりになれたと思ったとたん、カメラのシャッターのカシャッという音を耳にします。茂みの中や、頭上のヘリコプターの中にまでパパラッチの姿がありました。

私たちの生活には娯楽がいっぱい

幸い、私たちのほとんどは、このような状況にはありません。にもかかわらず、さまざまな仕事や〝しなければならないこと″がパパラッチのような働きをして、私たちを「隠れ場」に行かせないようにします。その原因となるものには、生活に必要な活動だけではなく、気晴らしのための娯楽という誘惑も含まれています。私たちの周りには娯楽があふれ、一人でいるときでさえ、映画を見ようとついテレビに手が伸びてしまいます。

私は最近、新居に引っ越したばかりの友人宅の留守番を引き受けました。そこにはケーブルテレビもなくビデオデッキは梱包されたまま、そしてインターネットの接続もしていなかったので、Eメールのチェックをすることも手紙を書くこともできませんでした。読書をするための本さえなかったのです。

そのとき、賛美を聞き聖書を読むこともできたのですが、それよりも娯楽を欲している自分自身に気付きました。「パパラッチ」が去ってしまったとき、私はどのように生活したらよいか分からなかったのです。何と悲しいことでしょう!おお神よ。これは主と私のために取っていてくださったプライベートな奥の間(雅歌1:4)、私の心を「隠れ場」に引き寄せるためのものだったのですね!  詩篇91篇はそのような場所を理解するのに、とてもよい聖句です。

詩篇91篇

91篇の詩篇の著者については、意見が分かれています。ダビデが書いたという説もありますが、ユダヤの伝承ではモーセが書いたと言われています。この中に「疫病」という単語が使われていることから、エジプトでの災いを思い起こさせるという理由で、91篇はしばしば「災いの歌」と呼ばれています。また、モーセが書いた申命記32章(38節)の言葉と非常によく似ています。ここで使われているヘブライ語の「隠れ場」は、「セテル」という言葉です。それは隠れること、山の中に潜むこと、ベールを掛けること、包み隠すこと、保護すること、防御すること、プライベート、秘密の場所などを意味します。これは、隠す、隠れている、秘密にしておく、秘密を守る、といった動詞からきています。

聖書の多くの箇所で、この言葉が用いられていますが、いつも「隠れ場」と訳されているわけではありません。「御翼の陰に、身を避け」(詩篇61:4)「のがれて来る者の隠れ家」(イザヤ16:4)などがあります。

「隠れ場」は昼夜問わず、敵の攻撃から逃れる場所であると91篇は語っています。5節、6節「恐怖」「矢」「疫病」「滅び」は、悪魔のことであると考えられ、91篇には霊的領域の敵も含んでいると思われます。隠れ場がある私たちは、何も恐れる必要がないのです。

ヤド・バシェム(ホロコースト記念館)
www.israelimages.com/Garo Nalbandian

しかしながら、恐るべき迫害の下に生きたクリスチャンを思うとき、必ずしも神がご自身を信じる人々を危害から守られた訳ではないこ とが分かります。神の守りについて、この詩篇をどのように理解すればよいのでしょう。

敵から守り解き放ってくださるように叫ぶことを、神はいつも私たちに求めておられます。最終的には、隠れ場とは心の奥深くにある場所のことです。クリスチャンが殉教するとき、その人たちは誰の手も届かない隠れ場にいるのだと私は信じています。多くの場合、私たちは単なる肉体的な守りに注目し過ぎてきました。そこで一見、神の守りがないように思えるとき、信仰がぐらつくことがあります。だからこそ、決して妨害も侵入もされない隠れ場に注目する必要があるのです。

隠れ場とはどのようなものか

聖書には、その隠れ場が何であるかを知っている多くの人物の実例があります。彼らを通して、隠れ場の中で生活するとはどういうことなのか、そして、隠れ場の外で生活するとどうなってしまうのかを、神は教えておられます。

(1) 啓示(隠されていることを明らかに示すこと・驚くべき発見)と親密さの場所

ユダヤの伝承では、「隠れ場」を、シナイ山の頂きで、モーセが入って行った雲と同一視しています(出エジ24:18)。そしてそれは、モーセが詩篇91篇の著者であると考えられているもう一つの理由です。おそらくモーセほど、全能の神との親密な関係を経験した人物はいなかったでしょう。

神は“隠れ場”でモーセに語られた

この隠れ場は、神が話され、私たちが聞く場所です。神はモーセに語られました。「見よ。わたしは濃い雲の中で、あなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞き、……」(出エジ19:9)。そこは、私たちが神を見、神と交わりをもつ場所です。ある時点で神は、モーセとアロン、その息子ナダブとアビブ、それにイスラエルの長老70人に、山に登っていくように命じました。そこで、「彼らは神を見、しかも飲み食いをした」(出エジ24:11)と書かれています。

しかしこの後、神はモーセに一人で上って来るように命じられました(12節)。「モーセが山に登ると、雲が山をおおった。主の栄光はシナイ山の上にとどまり、雲は六日間、山をおおっていた。七日目に主は雲の中からモーセを呼ばれた。主の栄光は、イスラエル人の目には、山の頂で燃え上がる火のように見えた。モーセは雲の中にはいって行き、山に登った。」(出エジ24:15-18a)

隠れ場はまた、とりなしの場です。金の子牛事件の後、モーセは人々の罪の赦しをとりなすために、神の下に戻りました(出エジ32:30)。そして神は、「人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた」(出エジ33:11)のです。それは親密さを表す場所です。しかしモーセはそのことに甘んじることなく、勇気をもって嘆願しました。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」(出エジ33:18)。それはまた、礼拝の場でもあります(出エジ34:8)。モーセが二度目に神と40日間を過ごして山から降りてきたとき、モーセの顔は光を放っていました(出エジ34:30)。そこは神のご臨在の中であり、神の栄光を経験できる場所なのです。

この偉大なるモーセも、隠れ場の外側で自分の力に頼って行動したとき、大きな過ちを犯しました。民数記20章において、神はモーセに、岩から水を出すために言葉で命じるように告げておられます。しかしモーセは、言葉を発する代わりに、怒りを込めて岩を二度打ってしまいました。それによってモーセは、神のあわれみ深いご性質を民に示すことができませんでした。時に私たちも隠れ場の外側に出て、自分の力で他の人々に神を伝えようとするとき、失敗してしまうことがあるのではないでしょうか。

(2 )恐れがない勝利の場所

少年時代のダビデはほとんどの時間、
羊飼いをして “隠れ場”に過ごした
(イスラエル観光局提供)

羊飼いの少年として、ダビデは羊とハープと共に、静かな丘でほとんどの時間を独りで過ごしていました。夜空に輝く満天の星の下、ダビデは神との交わりをゆったりと楽しんでいたことでしょう。ダビデの詩篇から、「隠れ場」における神との親密さを想像することができます。若者であったダビデは、その隠れ場でのみ生きていたので、まるで他の場所を知らないかのようです。

第一サムエル記17章で、ダビデがどのようにゴリヤテを倒したのかを読み直してみましょう。ここでダビデには、恐れのかけらもありませんでした。自信にあふれ、言いました。「このペリシテ人を打って、イスラエルのそしりをすすぐ者には、どうされるのですか。この割礼を受けていないペリシテ人は何者ですか。生ける神の陣をなぶるとは。」(Ⅰサムエル17:26)

ゴリヤテに立ち向かう少年ダビデ

ダビデはゴリヤテの大きさに少しもひるみませんでした。しかし、ゴリヤテの不遜な態度に憤慨します。不敵にも神をあざけるとは!ダビデはサウルに語りました。「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」(Ⅰサムエル17:32)

このような状況に置かれたら、私たちのほとんどは怯えてしまうことでしょう。双方の軍隊が見守る中で、しかも目の前に巨人が立ちはだかるようなとき、私だったら膝はがくがく、心臓はどきどき、恐れおののいてしまうことでしょう。しかしダビデは違いました。何千人もの人々が見守る中、まるでこんな経験が何度もあったかのように巨人の前に立ち、勝利を信じて疑いませんでした。この戦いは神に敵対する者との戦いだった

ダビデは嘲弄(ちょうろう)も、自分だけに向けられたものだとは受け取りませんでした。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私 に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」(Ⅰサムエル17:45-47)

神に対するこのような信頼と勇敢さは、神と共に過ごす、あの静かな場所においてのみ成長させることができるものなのです。

次号でも引き続き、神が私たちを招いておられる隠れ場が、どのように特別な場所なのか、その性質について深く学んでまいりましょう。

〈参考図書〉

  • International Standard Bible Encyclopaedia; 1996
  • Stephens, William H. Elijah; 1976
  • Yerushalmi, Shmuel. The Torah Anthology: The Book of Tehillim IV;1991

すべての聖書は新改訳聖書から引用、そうでない場合は明記しました。

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