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プロジェクトレポート

「私たちを思ってくれて、ありがとう!」

TEXT.大坪幸子(B.F.P.Japan継続支援プログラム担当)

左から、ケレン・アラド代表、BFPオンブズマン、BFP代表レベッカ・ブリマー、タリ・プロスコフ市長
日本から訪問した大坪幸子さん、岡田佐都美さん、一番右端は、実際に食物を貧しい人に届けているケレン・アラドのスタッフ

現在18のフレンドタウン、1800世帯にタウンサポートプログラムを通して支援が届けられています。このフレンドタウンとは、実際にはどんな町なのでしょうか。今回、私たちは実際にアラドを訪問し、その素顔と支援に対する人々の思いを見てきました。


「皆様こそ、誰も触れてくれない所に手を伸べて触れてくれる人たちです!」アラド市長、タリ・プロスコフ氏は、私たちの顔を見て、真っ先にそう言ってくれました。

アラドは、イスラエル南部の砂漠の真ん中にある、人口2万7千人あまりの小さな町です。BFPのフレンドタウンの一つで、最も初期に支援が始まった町でもあります。今年で10年になりました。その支援を評して、タリ氏は感謝を込めて最上級の賛辞を述べてくれたのです。

アラドの歴史

「イスラエルの将来は、国土の60%以上を占めている砂漠の利用と開発にかかっている」と言ったのは、イスラエルの初代首相ダヴィッド・ベン=グリオン氏。これに賛同し、砂漠に町を築くという夢を抱く人々によって建設されたのがアラドです。1962年のことでした。しかし周囲は見渡す限りの荒野―北はユダの荒野、南はネゲブ砂漠―、文字どおり全くの〝陸の孤島〟。就労機会といえば東に25㎞離れた死海のホテルや死海工場くらいなものでした。80年代に入っても「土ぼこりに覆われ、まるで地の果てのように寂れていた」と当時を知る人は語ります。

アラドの町の食料配給センター

そんなアラドに転機が訪れました。90年代、ソ連崩壊と共に、ロシアやエチオピア、南米から大量の移民の波がイスラエルに押し寄せ、アラドの人口も急速に増えたのです。が、それは同時に社会的・経済的な問題ももたらしました。すべての新移民が新しい地に順応して再出発できるとは限りません。うまく自立できずに貧困に陥る人々が大勢現れました。目立った産業がなく雇用も少なかったアラドは、移民を吸収しきれず、2000年代初頭まで膨らみ続けた人口はその後減少に転じ、以後は住民が逃げ出す町となってしまいました。BFPのタウンサポートが始まったのは、まさにこのころでした。

タリ市長に象徴されるアラド

現在の市長タリ氏は、この90年代の移民の波と一緒に帰還した人です。91年に現モルドバ(旧ソ連)から、夫と二人の子ども、たった二つのスーツケース、所持金は日本円にしてわずか1万円という典型的な新移民でした。心理学修士号を持つ才女ですが、仕事はなかなか見つからず、やっと死海のホテルの客室清掃員になることができました。しかしほどなく、ロシア語とヘブライ語を流暢(りゅうちょう)に操れる彼女に目を留めたホテル側が、彼女をロシア語従業員とヘブライ語経営陣の仲介役に抜擢(ばってき)しました。この昇進を聞いた家族は、「じきにイスラエルの首相になるね」と冗談交じりに言ったのですが、当たらずと言えども遠からず、2010年にタリ氏はアラド初の女性市長になりました。

自身、移民として生活を一から築き直す苦しさを知り、町の趨勢(すうせい)もつぶさに見てきた彼女は、町の発展と市民生活の向上のビジョンと情熱にあふれています。かつて〝地の果て〟と言われたアラドは、今は企業誘致が功を奏して多くの工場が進出し、雇用が生まれています。その労働者の多くは新移民、帰還して5年に満たない人々で、彼らが町に定着して町の発展の一翼を担っています。子ども人口も増え、6〜18歳の人口が4500人と16%を占め、町も若返りました。あちこちで建設が進み、公園や道路が作られ、鉄道の構想も進むなど、町には希望に満ちた空気が漂っています。次は、ティーンエイジャーのための学習センターを作り、中高生が放課後や休日に安心して過ごせるように計画しています。誕生から半世紀を経て、アラドは今、着実に繁栄の道を歩みつつあります。

アラドの町 Photo by Wikimedia

「ありがとう」の言葉に表れた支援の実

その一方で、発展の波に乗れずに、毎日を必死に生き延びようとしている人々がいることも事実です。町では約1700世帯が何らかの公的支援を受けています。その多くが片親家庭や高齢者、ホロコースト生存者です。支援がなければ今日明日にも食べ物がなくなってしまう人たちばかり。最も助けが必要なのに十分にそれを受けられないでいる人たちです。

BFPの支援は、市と地元の福祉団体ケレン・アラドが連携して行っている食料配布を通じて各世帯に届いています。その代表者たちにBFPの支援について尋ねると、彼らは開口一番「TOVAMEOD!!(本当に素晴らしい)」と評してくれました。「皆様の食料は、どれも本当に素晴らしいです」と言葉を続け、「中でも特に感謝したいのは、祭りに合わせた食料も送ってくれることです」と語りました。そして「これは私たちにとって、本当に大きな意味を持つことなのです」と、一語一語噛み締めるように言ってくれました。

ユダヤ人は祭りを大切にしてきた民族です。離散していった先々でも、彼らは聖書の中で命じられている祭りや伝統を守り続けました。それは彼らにとって、神さまとの絆の確認であり、民族の誇りでもあります。欧州ではホロコーストの最中でさえ、人々はゲットーで、そして強制収容所の中で、精一杯できることをして祭りを守り抜きました。

そして今、2千年の時を経て、イスラエルの地で彼らは国を挙げて祭りを祝います。春は種無しパンで過越祭を祝い、秋には新年祭。リンゴにはちみつをつけて食べながら喜びと甘い期待を胸に新年を祝います。続く大贖罪日と仮庵の祭りを迎えて祭りは最高潮に達します。冬のハヌカでは巨大なハヌキア(燭台)が街頭に現れ、点灯式を行い、家々の玄関先や窓辺にもハヌキアが飾られます。祭りのたびに国中が祭り一色に染まり、高揚感が町々を覆います。

そんなとき、貧しさゆえに祭りを祝えない疎外感を味わって欲しくないと、BFPは季節に合わせて支援先すべてに祭り用の食料や品物を送ります。それを、彼らは特別に挙げて感謝してくれたのです。この春にも150世帯が過越の祭りを祝うことができました。そして秋にはまた、皆が新年をお祝いできるのです。

アラドの町に食料配布に赴いた、
日本からのボランティア山本愛先生

「本当に、本当にありがとう!」幾度も繰り返していた彼らの「ありがとう・・・」は、支援を受けているすべての人々の「ありがとう」です。そのあふれんばかりに光り輝く目が、タウンサポートプログラムの結んでいる確かな実を物語ってくれました。

タウンサポートプログラムは、砂漠の小さな町アラドで、そしてすべてのフレンドタウンで、かかわるすべての人の心を喜びと感謝で満たしています。皆様がクリスチャンとユダヤ人の間に、町ぐるみで平和の架け橋を築いているのです。「この奉仕のわざは、聖徒たちの必要を十分に満たすばかりでなく、神への多くの感謝を通して、満ちあふれるようになるのです」(Ⅱコリント9:12)

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