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ハイメール通信No. 34 特集「神殿の丘」 ~地震と雪で崩壊の危険さらに増大~

主は彼(ソロモン)に仰せられた。「あなたがわたしの前で願った祈りと願いをわたしは聞いた。わたしは、あなたがわたしの名をとこしえまでもここに置くために建てたこの宮を聖別した。わたしの目とわたしの心はいつもそこにある。」(I列王9:3)



■ 死海地方でM5.3の地震:エルサレム神殿の丘通路、一部崩壊

2月11日、朝10時41分、ネゲブからガリラヤ地方までの広い範囲でマグニチュード5.3を記録する地震がありました。(注:イスラエルの面積は四国ほどなので、全国が揺れたとしても不思議はありません。)イスラエルでは25年ぶり。

地震はヨルダン、シリア、レバノンにまで波及していた模様です。震源地は死海で深さは16kmでした。今回、大きな被害はなく、犠牲者もありませんでした。

*イスラエルでは50~100年に一度の割で大きな地震が来ると言われています。

1927年には、同じく死海地方のエンゲディを中心としてマグニチュード6.3の地震があり、多くのビルが倒壊、400人が死亡しました。

イスラエル政府は、地球物理学研究所(GII)の今年度予算を、35万シェケル削減しています。そのため同研究所では夜勤の職員を確保できなくなりました。夜間には迅速な地震情報が出せなくなっています。また古い建物を補強する経費もないということです。(イスラエルインサイダー、ハアレツ 2月12日)

地震の後、イスラエルは広範囲にわたって雨と雪にみまわれました。ゴラン高原やガリラヤ地方では一時道路が閉鎖。エルサレムでは14日土曜から15日昼ごろまで雪が降り続き、積雪は9cmで日曜日は学校が休みとなりました。(ハアレツ2月15日)


■ 神殿の丘への被害

地震と雪の影響で、14日、神殿の丘への通路の壁の約10m四方が崩壊しました。

この通路は、嘆きの壁広場から神殿の丘へ通じる上り坂の通路で、観光客をはじめ多くの人が利用しています。通路は嘆きの壁の女性セクションと隣接しています。

通路の壁が崩壊したとき、下の壁付近には150人ほどの女性が祈っていました。破片は嘆きの壁側にも飛び散りましたが、奇跡的にも祈っている人々には当たらず、負傷者はありませんでした。

女性セクションは通路が修復されるまで閉鎖され、男性セクションを分けて、女性エリアが設けられることになります。

ヘブライ大学考古学のマツァル博士によると、神殿の丘ではここ2年の間に、ぐらぐらしたり、ひび割がおこっている石があるとの警告が5回もありました。博士は神殿の丘そのものが崩れ落ちる危険性もあると話しています。修理の責任を負うヨルダンのワクフ財団は、2年前より修理に当たっていますが、まだ修復を終えていません。(ハアレツ2月16日)

神殿の南壁崩壊について(以下はJerusalem Center For Public Affair からの記事です。)

今回のような崩壊は今に始まったことではありません。数カ月前にも、西壁近くにある神殿の丘イスラム博物館の内壁が一部崩壊しています。神殿の南側壁がだんだん丸く出っ張ってきており、崩壊する危険が高いことは以前から指摘されていました。

昨年11月に考古学権威によって行われた調査では危険度は「中」程度と出ました。

南壁がこのような事態に陥った背景には、南壁のすぐ上にあるソロモンの厩付近で建設中の巨大モスクが上げられています。

このモスクは、神殿の丘は現状維持という規約を破って、1996年、建設が始められました。

モスクは神殿の丘の内部(地下)に建設されているため、南壁付近の土が大量に運び出されました。これが南壁を脆弱にしている原因の一つとも考えられています。このモスクはイスラエル最大で1.5エーカーもあり、10,000人が一挙に礼拝できます。

1997年には、神殿南側から神殿内部に通じる通路(フルダ・ゲート)が破壊され、そこもモスクに変えられました。

運び出されている土について

貴重な考古学的遺産を含む土の一部はエル・アザリヤとケデロンの谷で発見されています。第一神殿時代の壷、第二神殿時代の装飾品や石碑が残されています。

これらの土は何台ものトラックで運ばれるところを目撃されています。その量は13,000トンにものぼると見られています。土はエルサレム市のごみ収集場所にも捨てられ、そこで一般のごみと一緒になっています。

イスラエルでは新しい建築をする前にはいかなる場合でも、考古学的遺産がないかまず慎重に調査がなされることになっています。イスラエル全土がこのように守られている中で、最も貴重な神殿の丘の遺産はイスラム教徒のなすがまま、の状態です。

神殿の丘はイスラエル領なのに、なぜイスラエル人考古学者に修復の権利がないのですか?

70年に、イスラエルは神殿の丘を失いました。それから500年以上、その地は荒れ果てていました。
638年、イスラム帝国のカリフ・オマルがこの丘を訪れ、モスク建設を計画、688-691年、イスラム・ウマヤド王朝の時代に、現在も残る黄金のドームが建てられました。

1099年からの侵攻でこの地を一時期征服した十字軍は黄金のドームを破壊せず、中に祭壇をすえるだけにとどまりました。200年後、エジプトによって十字軍が破れると、1517年からはオスマン・トルコがイスラエルの地を征服しました。

それ以後神殿の丘は400年間、イスラムの支配下に置かれることとなります。つまり、イスラムは十字軍に占領された200年間を除いて千年以上にわたって神殿の丘を支配し、黄金のドームで礼拝を捧げてきたのです。

1917年、オスマン・トルコが倒れ、イギリス統治を経て1948年、イスラエルが建国します。この時点では神殿の丘は、まだヨルダンのものであり(ただし、ヨルダンによる占領は、国際的には何の正当性もなかった)、イスラムが管理していました。1967年の六日戦争で、神殿の丘を含む東エルサレムが1900年の歳月を経て再びユダヤ人の支配下に置かれました。

イスラエル政府は、このとき長年この丘を管理してきたイスラムを敵に回さない政策をとり、神殿の丘について、次のような法律を定めました。

「聖なる地は、崩壊やいかなる危険からも守られなければならない。また聖なる地は、そこが聖なる場所だと思う人々すべてにとって、自由に行き来できる場所でなければならない。」このように、あらゆる宗教を信じる人々にとって開かれた場所であることが法律で保障されました。

これを受けて、当時の国防相モシェ・ダヤンが、六日戦争までの支配者であったヨルダン王国のワクフ財団に管理の権利を引き渡しました。

1994年、ヨルダンとイスラエルは平和条約を結びました。この条約にも、エルサレムの恒久的地位が決定した後も、神殿の丘を支配するヨルダンの役割を尊重することが盛り込まれました。このころはまだ、イスラエルとヨルダンの考古学者たちは協力して発掘にあたっていました。

1993年、オスロ合意によりパレスチナ自治政府が設立されました。ヨルダンはこのころより、少しずつ神殿の丘の管理者としての役割から退き始めました。2000年に今の紛争が始まるころには、神殿の丘はパレスチナ人が管理するところとなっていました。現在、神殿の丘にはイスラム教徒以外立ち入り禁止となり、イスラエルの考古学者たちも、神殿の丘に入れなくなりました。

<祈り>

  1. 神殿の丘に平和があるように。
    ユダヤ人もアラブ人も共に主の御前で賛美できる日がきますように。
  2. 考古学的遺産は私たちの聖書理解を助けてくれる貴重な資源です。
    それらを主が守ってくださるように。
  3. イスラエルの考古学者たちが神殿の丘に入ることができるように。

■ 国際法廷に関しての近況(ハアレツより)

イスラエルの分離フェンスをめぐって、2月23日、ハーグ国際司法裁判所で裁判が行われる件で、当事者であるイスラエルは国際法廷に代表団を送らないことを決定しました。この問題が本来、政治的なものであり、法的なものではないと考えているからです。アメリカはじめヨーロッパ諸国もイスラエルと同じ見解を示していました。

しかし法廷はイスラエルなしでも開催される見通しで、イスラエルには不利な結果が出されることが予想されています。イスラエル国内ではフェンスのルートを見直す動きも出てきています。イスラエルは、テロの現実を訴えるため、先に起こったエルサレムで爆破されたバスの残骸を法廷に展示する準備をすすめています。(ハアレツ)

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