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優しさ…人の霊性を計る基準 -前編-

ロン・ロス BFP国際本部 エルサレム・モザイク放送主任

「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」(ミカ6:8)

神のいつくしみ(優しさ)

ヘブライ語の「ヘセド」は、
「親切・いつくしみ・あわれみ」を表す言葉

誰かに優しくした、あるいはしてもらったことは、鮮明に記憶に残ります。優しさは積極的な行動であり、人の心を温めます。優しさは“いつくしみ”“あわれみ”とも言い換えることができます。ヘブライ語の「ヘセッド」という言葉がこれに当てはまりますが、“無条件のあわれみと恵み”を意味し、特定の人だけでなく、すべての人に示されるものです。

人間は、神の御姿に似せて造られています。神は、肉体をとられない、霊的存在です。ですから、ご自身が御業をされるときは、私たちという器を通して、周囲の世界に働かれます。神が私たちを用いてくださる……この素晴らしい祝福は、私たちが神のご性質を帯びていることを意味します。神の御霊が人間に宿られるとき、私たちをご自身のいつくしみ(優しさ)で満たしてくださるのです。

主イエスは誰よりも豊かに優しさを表された。
弟子たちの足を洗われる様子

しかし現実には、私たちはその本来の姿から、かけ離れているように感じます。もし、本当に神のいつくしみを頂き、それを実行に移しているなら、世界は変わっているはずです。神のいつくしみは本来とても力強く、決して止むことがありません。何があっても、人々を見捨てず、愛し続けます。神ご自身が、私たち一人ひとりにそうであるように、神を通して私たちも真の優しさを知ることができるのです。

私自身、主のあわれみを毎日、毎時間必要としています。私にとっての問題とチャレンジは、神のあわれみを受けている自分自身が、いかに他の人々にそれを表しているかということです。

神が定められたいつくしみのハードルは、非常に高いものです。エデンの園で、アダムとエバは主のおことばを無視し、罪を犯しました。堕落した彼らは、その代価を支払わなければなりませんでした。しかし神は、エデンの園から彼らを追放される時、裸の恥を隠せるようにと、皮の衣を用意してくださいました。神は、その愛する者を罰せられる時にも親切であられたのです。神の栄光を取ってしまったモーセは、約束の地に入ることができませんでした。しかし彼が死んだとき、神はモアブの地にモーセを葬ってくださいました。ユダヤ人にとって、埋葬は最も重要なことですから、この記事から、神がいかに思慮深く、優しいお方であられるかが分かります。

エデンの園を追われたアダムとエバ

最近インターネットで、「優しさのキャンペーン」というものを見つけました。「優しさを広めていこう。それは伝染力があるから!」をモットーに、「暴力、憎悪、不親切の蔓延防止」をうたっていました。

また、「毎日、ほんの少しでも、愛を実践していこう。自分自身に、家族に、隣人に、友達に、会社の同僚に、見知らぬ人に、病気の人に、貧しい人に、今日出会うすべての人々に」と呼び掛けていました。その背景については、何も知りませんが、その目指す目標は素晴らしいと思いました。真の優しさは、大きな結果を生み出すからです。

聖書とユダヤ的観点から見るいつくしみ(優しさ)

聖書が教える「いつくしみ」(優しさ)は、報酬やお返しを期待しないものです。人に優しくするとき、見返りを期待するなら、それは、神が基準とされるものとは違います。

預言者ミカは私たちに注意を促しています。

「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」(6:8)

あるユダヤ人の論文に、「神のいつくしみの最良の形が、天地創造である」と書かれていました。また、ある人は「世界は神を楽しみ、神のご臨在の輝きに浴するためにだけ創造された。創造の設計図は、被造物自身の利益のために描かれている。それこそ、最も純粋な神のいつくしみである。」と言っています。つまり、この宇宙も被造物もすべて、ただただ人間の益となるために創造されたということです。これこそ、神の示されたいつくしみを見事に要約しています。

次のみことばは、この、神の麗しさを美しく表現しています。

「わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ。わたしは真実をもってあなたと契りを結ぶ。このとき、あなたは主を知ろう。」(ホセア2:19-20)

ネルソン版聖書辞典では、優しさを「神の、その民に対する真実な愛といつくしみ」と表現しています。この意味はホセア書2章23節に要約されています。

「わたしは彼をわたしのために地にまき散らし、『愛されない者』を愛し、『わたしの民でない者』を、『あなたはわたしの民』と言う。彼は『あなたは私の神』と言おう。」

ここに示されているのは、主のいつくしみとあわれみ、そして愛する民に対する寛大さです。

ユダヤ教のラビ、ヨセフ・ゼエブ・リポウィッツ師は、次のように記しています。「神のかたちに造られた人類は、神ご自身のいつくしみに到達することができるし、またそうならなければなりません。優しさは、人間を計る計りです。それによってその人の霊性が計られるのです。」

ラビのマルカ・ドルケール師は、「トーラーのいつくしみとあわれみ」という説教の中で、次のように記しています。「優しくあること、その秘訣は、自分がそうしたくない時にも愛すること、与えるのに十分ではないと感じるときにも愛すること、自分が他の人々から、そして自分から、また神から離れていると感じるときにも愛することにある。」

不寛容がもたらす結果―古いユダヤの例え話より

第二神殿は、紀元70年、ローマに破壊されました。この出来事について、タルムード(慣習や聖書注解を集大成したもの)の中に、一つの例え話が掲載されています。

ある人が、自分の友人すべてを招待し、宴会を催すことにしました。彼はお客の名簿を作成し、招待状を送るよう、自分のしもべに命じました。その名簿の中に、“カムツァ”という人がいましたが、しもべは間違って“バル・カムツァ”という人に招待状を送ってしまいました。その人は、実は招待主の敵だったのです。バル・カムツァは、その招待状を受け取り、感謝の心に満たされて、宴会に出席することにしました。

しかし、招待主はバル・カムツァの姿を見かけるやいなや、「ここから出て行け!!」と命じました。対し、バル・カムツァは、「すぐにここから去るというのは余りにも決まりが悪い……もし残らせてもらえるなら、宴会の費用の半分を負担しよう」と申し出ました。しかし、招待主の腹は決まっていました。重ねて、彼にそこを去るように命じました。どうしてこんな扱いを受けるのか分からず、混乱したバル・カムツァは、今度はその費用の全額を負担すると申し出ました。それでも、招待主は、バル・カムツァに出て行けと命じました。(ギッティン55b-56a)

怒りと心痛極まりないバル・カムツァは、ローマの役所に赴き、そのユダヤ人の悪辣で不誠実な行動を告発しました。彼の訴えはローマ人を怒らせ、その結果、聖なる神殿を攻撃し、破壊するに至りました。

この物語を教えるとき、ラビたちは、寛容であることの重要性と、正反対の行動がもたらす結果の大きさを強調するのです。

ヨセフの場合

ヨセフと兄弟たちの劇的な再会シーンを
描いた古い絵

創世記に、ヨセフと彼の兄弟たちの記事があります。兄弟たちは彼をねたむ余り、殺そうとしました。幸いヨセフは殺されはしませんでしたが、エジプトに売られてしまいました。そのことを知らない兄弟たちは、カナンに大飢饉がやってきたとき、次のように思いました。

「彼らは互いに言った。『ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ。』」(創世42:21)

バル・カムツァの物語のように、不親切な行動や言葉が、問題や困難を引き起こすことがあります。不寛容な行動は相手を傷つけ、痛みをもたらします。

エジプトの大臣となったヨセフは、穀物を買いにエジプトに下ってきた兄たちに、自分の正体を明かす時期を、周到に選びました。盗みの疑いをかけられて逮捕されようとするベニヤミンに代わって、ユダが身代わりになることを申し出ました。ベニヤミンが戻らなければ、彼を特別に愛する父親(ヤコブ)にどれだけ心痛を与えるか、想像するに余りあるものがあったからです。ユダの行動は、ヨセフの心を感動させました。ベニヤミンが収監されようとしたまさにその時、ヨセフは兄弟たちの前で、自分の正体を明らかにしました。ユダの優しさが、ヨセフのあわれみの心に火をつけたのです。

絶対的な権力者であるエジプトの大臣が「私はあなたがたの弟、ヨセフです」と言った瞬間のことを想像してみてください。そこにいたすべての者が、神を礼拝しました。兄弟たちの最初の反応は驚愕であったでしょうが、それにも増して、次に、大きな喜びが彼らを包んだことでしょう。彼らが感じた安堵感は非常に大きかったと、私は思うのです。

いつくしみ深い神のご本質

神の御座は、恵みという土台の元に堅固に据えられています。神の権威は、あのヒトラーのような、圧制的で独裁的なものではありません。高圧的で残虐な支配は、神からのものではありません。神の権威はむしろ、いつくしみ深さの上にあると、イザヤも語っています。「一つの王座が恵みによって堅く立てられ……。」(イザヤ16:5)

神のご本質は愛です。神の王国は、愛によって機能しています。神の臨在は、いつくしみとあわれみの中に確立するのです。「あなたは赦しの神であり、情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かであられる。」(ネヘミヤ9:17)。神のいつくしみは永遠です。たとえ、愛する者に背かれても、裏切られても、それは途切れることがありません。

神は、ご自分の性質をよく観察するよう、私たちに勧めています。私たちは神のあわれみを通して、祝福を与えられてきました。ですから、その感謝の応答として、他の人々に祝福を分かち合いましょう。トーラー(創世記から申命記までの律法の書)は、神との正しい交わりに、神のいつくしみが必要不可欠であることを教えています。神があわれみ深い方でなければ、人々には希望がありません。

同じことが福音書でも言われています。主イエスは私たちに教えられました。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)。イエスこそ私たちの模範です。

罪を犯したとき、「だって、皆、やっているじゃないか!」という言葉が頻繁に用いられます。しかし、これは、神の御前で受け入れられる言い訳とはいえません。神こそ、私たちの模範です。神が示しておられるいつくしみとあわれみは、ユダヤ人、異邦人を問わず、すべての人間が従うべき基準として、示されているものです。

クリスチャンには、もう一段階上のチャレンジが与えられています。「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」(Iヨハネ4:19-20)。「優しさは、その人の霊性が量られる計りである」とは、イエスのこの教えにも示されています。

次号の後編では、優しさについて学ぶ上でユダヤ人に親しまれている「ルツ記」を通してこの学びを深めたいと思います。

〈次号へ続く〉

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