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ティーチングレター

左の頬も向けなさい

文:イルゼ・ストラウス(BFP教育部長)

イエスは「右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」と言われました。
しばしばその真意は誤解して受け取られています。
このことばを熟考しながら、イエスの真意を考えてまいりましょう。

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23年10月7日から半年が過ぎようとした時のこと、私は南アフリカの大きな町で行われた集会で会衆を前にしていました。イスラエルの近代史上、最も長期化することとなった戦争が始まってわずか半年、イスラエルは「過剰な武力を行使し、女性や子どもを狙った大量虐殺を行っている」と批判にさらされていました。会衆は、そうしたプロパガンダをうのみにせず、しっかりと自ら下調べをし、真実を知っていました。

それでも質疑応答になった時、一人の若い男性が立ち上がりました。

「私はイスラエルの神と共に立つ者です。確かにハマスは悪です。でもイエスは、自分の敵を愛し(マタ5:44)、(あなたの右の頬を打つような者には)左の頬も向けなさい(マタ5:39)と教えました。これに反しイスラエルは、左の頬を向けるどころか、敵のために祈らず、敵と戦っています」

これは、イスラエルの自衛行為が福音の教えに反するという意見です。この理屈によると、イスラエルはホロコースト以来最も残忍な攻撃、そして今も続くイランによる絶滅の脅威に対し、敵とは真逆の精神をもってさらなる流血を甘受し、敵を包容する必要があるということです。つまり、イスラエルは自衛するのではなく、完全に降伏したほうがいいというのです。

この質問の核心にあるのは、イエスが語られた「赦し、自制、柔和、左の頬を向ける」という教えと、正義、自衛、そして究極的には戦争とどう折り合いをつけるかという問題です。自衛し、自国に危害を加える者を法の下に裁かなくてはならない戦時下の国家は、この命令をどうとらえたらいいのでしょうか。

「右の頬を打つ」とは

武力行使に対するイエスの立場に関する議論で最も引用されるのは、山上の垂訓です。イエスは、平和をつくる者を「その人たちは神の子どもと呼ばれる」(マタ5:9)と祝福し、「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」(マタ5:39)と教えられました。

一見、この結論は単純明快に見えます。しかし、イエスの時代の伝統・背景・文化を理解せずに、現代の西洋的な視点だけで読むと、しばしば誤解を招きます。その結果、イエスの時代には一般的であった事象を比喩ととらえがちです。

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1世紀のユダヤ文化では、右の頬を打つことは自分より劣ると見なした相手を辱める意図的な行為でした。主人が使用人を平手打ちしたり、ローマ兵がユダヤ人を打ったりするのがその例です。その際、強い侮蔑を示すために手の甲で打ちました。

つまり、「右の頬を打たれる」とは比喩表現ではなく、実体験だったのです。イエスが左の頬も向けるように呼び掛けたのは、誇りや尊厳を傷つけられても個人的に報復しないよう教えるためでした。これは、自分や愛する者に危害が加えられ虐殺されようとする時に、逆らわずに服従するよう求めたものではありません。

万軍の主

聖書では、神を表現する際にしばしば軍事用語が使われます。例えば、神の御名の一つ「万軍の主」(アドナイ・ツェヴァオート)は、ヘブライ語の文字どおりの意味では「軍勢の主」です。「ツェヴァ」は軍隊を意味し、「ツェヴァオート」はその複数形です。

神はまた、ご自身を軍の指揮官や戦士として表現されました。例えば、「主はいくさびと。その御名は主」(出15:3)、「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ」(ヨシ5:14)、「栄光の王とは だれか。強く 力ある主。戦いに力ある主」(詩24:8)などです。

戦争は間違いなく旧約聖書の中心テーマの一つであり、神が軍事力の行使を避けていないことは明らかです。

しかし、重要な条件があります。暴力は決して気まぐれに行使してはならず、血への欲望や復讐心を満たすため、あるいは軍事力の誇示のために使用してはならないということです。

万軍の主が戦士のように立ち上がるのは、悪に立ち向かい、それを根絶する目的がある時だけだと聖書は明確にしています。究極的には、ご自身の正義に由来します。神は「みなしごと虐げられた者をかばって(くださるために)」(詩10:18)立ち上がられます。主は、義を打ち立てることを目的とされるのです。

平和の君?

では、イエスはどうでしょうか。「平和の君」と呼ばれるイエスは、旧約聖書の「万軍の主」と比べて、従順な牧者という新約聖書の神格を表しているように見えます。

しかし、イエスご自身がその考えを否定されました。イエスが来られたのは、律法と預言者を廃棄するためではなく、それらを実現するためです(マタ5:17)。旧約聖書の解釈と実践を自ら示すためでした。

加えてイエスは「わたしと父とは一つです」(ヨハ10:30)と教え、「わたしを見た人は、父を見たのです」(ヨハ14:9b)とも言われました。つまり、太古の昔から最後の時に至るまで、神の本性は変わらないことを聖書は証言しています(マラ3:6、ヤコブ1:17)。

ですから、創世記からマラキ書において悪に断固たる行動を取られる「万軍の主」は、マタイの福音書からヨハネの黙示録の「平和の君」と同一の存在なのです。新約聖書におけるイエスの働きは、旧約聖書における神の使命、すなわち悪と戦って根絶し、正義とあわれみ、回復を人類にもたらすことをはっきりと映し出しています。

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腐敗によって神殿が汚された時、イエスはむちをつくり、御父の家を商売の家にした人々を追い出しました(ヨハ2:13〜16)。その行動は、意図的で力強く、堂々としたものでした。

イエスは、職務において生殺与奪の権を行使する必要のある人々を非難したことはありません。ローマの百人隊長という、生殺与奪権を持つ軍の指揮官がイエスの元に来た時、イエスはその信仰に驚嘆し、助けの手を伸べられました(マタ8:10)。百人隊長という職業が、神への従順と相容れないものとは描かれていません。

同様に、兵士たちがバプテスマのヨハネのところに来て、悔い改めに必要なことを尋ねた時、ヨハネは軍務を放棄するようにとは言わず、各自の職務において誠実に行動するよう説きました(ルカ3:14)。

「誰に向けた教えか」という問い

もう一つ、極めて重要な区別があります。イエスのメッセージは、国家レベルというよりも対人関係レベルの話です。福音書に記されたイエスのことばは、大半が特定の人に向けられています。例えば、裕福な若い指導者、姦淫の現場で捕らえられた女、赦しの問題に悩む弟子たち、救いを求める取税人などです。つまり、堕落した世界でどのように他者と関わったらいいのかを教えたものです。

ところが私たちは、個人の行動に向けられた教えを、そのまま国家運営に当てはめてしまいがちです。「左の頬も向けなさい」という教えは外交政策となり、「求める者に与えなさい」は財政の責任となり、「裁いてはなりません」は刑事司法改革になってしまいます。しかし、個人と国家は別物です。イエスの焦点は、国家の政策ではなく個人のきよさにありました。

国家に対する神の助言は、聖書に頻繁に出てきます。使徒パウロは、神が政府や地上の指導者に対し、悪行を罰し正義を守る権威を与えていると教えました。「しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います」(ロマ13:4)

パウロが強調している点は明白です。神が人間による政府(国家の統治機構)を設立されたのは、国家間や、市民と行政機関の間で正義を行わせるためです。国の指導者には、悪を抑え、法を破る者に責任を取らせるため、必要に応じて力を行使する権限が与えられています。

イエスは、地上の政府が剣を帯びる正当性を次のように断言されました。「もしこの世のものであったら、わたしのしもべたちが……戦ったでしょう」(ヨハ18:36)。もしイエスの御国が地上の原則で動いているなら、しもべたちが武器を取ってイエスを守ったはずだというのです。

ここから導き出されるのは、正当な理由があり、そうせざるを得ない状況にあるなら、地上の諸国が武力を行使することはあり得るということです。

真の平和とは

主要なデータ機関によれば、世界は今、近代史上最も激しい武力紛争を経験しています。ニュースやソーシャルメディアには、戦禍がもたらす筆舌に尽くし難い悲劇、悲しみ、苦悩の血なまぐさい証言が載っています。「主よ、平和を与えてください!」と懇願せずにはいられません。さらに、このような惨劇を目の当たりにすると、「平和の君」である方が、なぜ同時に「万軍の主」、すなわち戦う者であり得るのかと疑問を抱かざるを得なくなります。

問題はおそらく、私たちが言葉の意味を取り違えていることにあるのでしょう。私たちは「戦争がないことが平和だ」と信じます。しかし、平和とは単に紛争がない状態のことではありません。

平和を意味する聖書のことばは「シャローム」です。これは、完全な平和に伴う健康、回復、繁栄、完全さを網羅する語根、「シャレム」から派生した言葉です。つまり、真のシャロームとは、単に戦争がないことではなく、悪そのものがない状態を指すのです。

今日目にする戦争は、究極的には霊的現実が物質世界に現れたものです。すなわち、人間の堕落、敵意、罪、断絶、殺し・盗み・滅ぼす敵の存在です。これこそが、万軍の主が立ち向かっている悪であり、平和の君が戦士のように立ち上がる相手です。

平和をつくる者になるとは、戦いを避けるために悪の言いなりになることではありません。もちろん、敵を愛し敵のために祈ることは必要です。しかし、それは敵の悪を容認することではありません。

私たちは、平和の君が真のシャロームを与えてくださる日を待ち望んでいます。その時、剣はすきに打ち直され、もはや戦争はなくなります。その時まで私たちは、聖書が命じる通り敵を愛し、悪に立ち向かうのです。

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