文:イルゼ・ストラウス(BFP教育部長)
神の選びには責任と代価が伴います。
しかし、その先に待っているのは大きな報いです。
その報いから目を離さず、神の選びに応答してまいりましょう。
Photo by tavarruk/pexels.comあの日の午後の出来事は忘れられません。私はエルサレムの街角に立っていました。地平線に沈みかける太陽と、黄金色に染まる白い石壁。それはエルサレムだけが知る独特の色です。シャバット(安息日)と共に、毎週金曜の夕方に訪れる聖なる静寂が町を包もうとしていました。
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その時、一人の男性に目が留まりました。祈りのショールをまとい、シナゴーグに向かう父親。そのそばを小さい娘2人が、フリルの付いたシャバット用のドレスを着て楽しそうにスキップしていました。シャバット前のありふれた黄昏時(たそがれどき)の光景です。ところが、父親の肩にさりげなく掛かっていたのは、護身用の自動小銃でした。
たなびく祈りのショール、揺れるポニーテール、そして自動小銃――。その時、神のささやきが聞こえてきました。「これが選ばれることの代価だよ、イルゼ」
危険な名誉
ユダヤ人は何世代にもわたり「選びの民」として知られてきました。これは神から与えられた称号です。「……あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。……祭司の王国、聖なる国民となる」(出19:5〜6)。なんと胸が躍ることでしょう!
しかし、この称号は歴史を通して人々を激怒させ、ポグロム(ユダヤ人迫害・虐殺)や十字軍を招き、大虐殺を正当化させてきました。
その背後にあるのは「ユダヤ人が選びの民なら、自分たちは選ばれていないということか」という理不尽な考え方です。こうしたいら立ちは今も昔も変わりません。
これほど激しい憎しみが生じるのは、「選び」を西洋的な眼鏡で見ているからでしょう。それは本来の聖書的な意味をゆがめています。
人が考案したおとぎ話
西洋的な「選び」の理解は三つの前提に基づいています。第一に、選びは選ばれた者の秀でた資質で決まります。つまり、より賢く、美しく、才能があることが前提です。第二に、重要かつ名誉ある地位を暗示します。第三に、名声や富といった報酬が伴います。
「選ばれる」ということを考える時、よく引用されるのがエステル記4章14節の「この時のために(選ばれた)」です。召命とは高貴で劇的なものだと私たちは想像しがちです。壮大な冒険、息をのむ恋愛、国を救う栄誉、感謝され、評価され、「いつまでも幸せに暮らしましたとさ」と結ぶ筋書きです。
しかし、10月7日とその後の戦争をイスラエルと共に経験する中で、神は「選び」についての私の理解を吟味するよう導きました。
西洋の選びの中心はすべて自分です。自分の資質、自分の地位、自分の報酬。一方、聖書の選びの中心はすべて神です。神の輝かしいご計画を担う者として選ばれるのです。
つまり、イスラエルの選びは、ユダヤ人がより優秀で価値があったからではありません(申7:7参照)。単に、神はイスラエルに特定の役割と目的を持っておられるということです。では、何のために選ばれたのでしょうか。
選びの目的
イスラエルの選びは歴史の初めにさかのぼります。アダムとエバの罪は完全だった世界に死をもたらし、神はその後、救いの計画を明らかにされました。死を打ち破り、悪を正し、私たちを父なる神の御許に回復する方を遣わすと宣言されたのです。
神はこの瞬間から、目的を成就するための民を創造しておられました。アブラハムを選び、イサクとヤコブを通してその子孫であるイスラエル民族を選びました。その到達点が、マタイの福音書1章1節「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」です。
神が約束された解放者とは誰でしょう。イスラエルを通して生まれた方です。あがないはどこから? ユダヤ人を通して来ます。
それだけでなく、アブラハムの子孫を通して神は世にご自身を現されました。イスラエルなしに、聖書も神の知識もありません。
今日のイスラエル国家も神の存在を諸国民に示しています。神がイスラエルを通して成就すると約束された預言は今日実現し続けています。過去一世紀に成就した預言は、イエスが地上におられた時を除けば、他のいかなる世紀よりも多いのです。
イスラエルの役割と目的はこれからも続きます。終末の預言を見ても、そこにはイスラエルが存在しています。イエスはどこに再臨されますか。イスラエルです。何者として来られますか。ユダ族から出た獅子としてです。どこからイエスは統治されますか。エルサレムからです。
歴史の最初から最後まで、神はイスラエルをご自身の器として、その働きと目的のために用い続けます。
私たちはどうか?
Photo by Jesus Cervantes/shutterstock.com神の御心と計画において中心的役割を担うのは、イスラエルだけではありません。私たちも契約に加えられたと神は語られました。「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です」(Ⅰペテ2:9a)
私たちの選びも、自分の優劣さではなく神によります。選びの焦点も、役割と目的にあります。「それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです」(Ⅰペテ2:9b)
しかし、西洋の選びの理解になじんでいる私たちは選びの代価を忘れてしまうのです。
代価
選びにはいつも代価が伴います。イスラエルに尋ねれば分かります。23年10月7日以降しばらくの間、エルサレムはゴーストタウンのようでした。人影のない歩道、閑散とした通り、至る所で見られる葬列。ゆっくりと生活を取り戻しつつありますが、以前と同じではありません。
私たちは知っています。サイレンが鳴れば、わずかな保育士で数十人の幼児を数秒以内に防空シェルターに避難させなくてはならない現実を……。バスの運転手、医師、店員であれ、数時間以内に招集が掛かります。夫を失った妻たちは、喪に服しながら、呆然とする子どもたちの世話をします。「これが選ばれることの代価だよ、イルゼ」
雨の中、バスに乗ろうと駆け出して転んだ少女を思い出します。少女は立ち上がるでもなく、ぬかるんだ地面に座り、泣きじゃくっていました。私はいっしょに座り、彼女がすべての不安を吐き出す間、抱き締めていました。それは、どこからも憎まれる戦時下の国の不安、そして軍服を着て出掛けていった父親と二度と会えないかもしれないという不安でした。「これが選ばれることの代価だよ、イルゼ」
初代教会の教父たちは「ユダヤ人はキリスト殺しで、神に忌み嫌われている」と教えました。十字軍、スペインの異端審問、ホロコースト。そしてイスラエル再建後は、戦争、テロ、絶滅の脅かし。イスラエルは占領者と中傷され、大量虐殺をしたと非難されました。「これが選ばれることの代価だよ、イルゼ」
神がアブラハムとその子孫を、メシアを生み出す人間の器として選ばれた途端、敵は彼らに照準を定めたのです。もちろん、イスラエルは選ばれることの代価を理解しています。しかし、西洋の選びの理解に汚染された社会は、代価を忘れ、選びを理想化していないでしょうか。
なぜ選びに加わるのか?
誰しもが選ばれたいのです。しかし、要求される代価に驚き、身を引くことがよくあります。
代価の報いを思い起こしましょう。イエスも「ご自分の前に置かれた喜びのために、……十字架を忍(ばれた)」(ヘブル12:2)とあります。
報いとは何でしょうか。神が用意しておられるものは「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないもの」(Ⅰコリ2:9)だと、神は約束されました。つまり、人間の理解を超えているのです。
エペソ人への手紙3章20節は「私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて[私たちの最大限の祈り、希望、夢を無限に超えて]」と語っています。私たちは、報いがどれほど壮大であるかを知りません。
それを知った人物が一人います。パウロはダマスコへの途上で、復活したイエスと顔と顔とを合わせました。その一瞬の出会いがパウロを即座に変えました。名声、富、恵まれた地位を手にしていたパウロは、後に与えられる報いを味わった後、それらすべてを「ちりあくた」と見なしたのです。何年にも及ぶ投獄、むち打ち、憎悪の中、パウロを突き動かしたものが報いでした。
力付けるビジョン
私たちの関心を得ようとあらゆるものが競い合う社会にあって、私たちは下にあるちりあくたではなく、キリストのおられるところ、上にあるものを求め続けなさいと教えられています。この世について言えば、私たちは既に死んでいて、真の命はキリストと共に神のうちに隠されています(コロ3:2〜3参照)。
ラッパが大きく鳴り響き、世界中の人々が立ち止まる姿を想像できますか。天は巻き取られ、ユダ部族からの獅子が天の軍勢を引き連れて御使いたちの軍の将として現れます。あまりの栄光に主を直視することさえ困難です。
それだけではありません! 私たちはキリストと共に、主の栄光の輝きのうちに現れると約束されています(コロ3:4参照)。その瞬間、あらゆる罪と傷は取り去られ、私たちは偉大なユダ族の獅子に愛されている者として、初めて栄光に満ちた姿で現れるのです。
それぞれの選択
選ばれた者として踏み出すことは、救いとは関係ありません。傍観者の快適さとどっちつかずの態度を拒否するということです。
イスラエルは、選びによって聖書の歴史の中央に押し出されました。彼らは、危機の真っただ中で血を流し、痛めつけられながらも主役を演じています。私たちは教会として彼らと共に立つよう召されました。
悪の面前で沈黙する時は終わりました。今こそ選択の時です。人生において神の選びに「はい」と答えられますように。選びの代価を払うことと、その報いに「はい」と応じられますように。
決して忘れないでください。将来与えられる報いに比べれば、代価はつまらないものだということを――。
















