文:ジャネット・アスリン(BFPライター)
私たちは自分一人の力で実を結ぶことはできません。
実を結ぶためには、キリストにとどまることが必要です。
「とどまる」ことの真意を学び、神との深い関係を築いてまいりましょう。
Photo by Couleur/Pixabay「とどまる」という言葉は、豊かな霊的意味を持った言葉です。では、イエスが弟子たちに語った次の言葉には、どんな意味があったのでしょうか。
「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません」(ヨハ15:4、強調筆者)
聖書に明示されているように、主のご計画は、人類に対する愛のうちにとどまり、共に住むことでした。最初の例が創世記に出てきます。神は、エデンの園で日々アダムとエバとお会いになっていました。その後、罪が世に入り込み、人が園で経験していた親密な関係を妨げる障壁となりました。それでも神は、人間にとどまり、共に住むという願いを捨てませんでした。聖書に「とどまる」や「住む」という言葉が240回以上出てくることからも、それが分かります。
「とどまる」ことを表す主な言葉は、ヘブライ語の「シャカン」「ヤシャブ」、及びギリシャ語の「メノォ」です。シャカンとヤシャブの意味は「住居を定める、とどまる、宿る、幕屋、居住する」。メノォは、これらに人間の状態を表す要素が加わり、「別々にならずに一つのままでいる」という意味が含まれます。どちらも「とどまる」または「住む」と互換的に訳されます。
わたしの御名がとどまる
神は、地上に御名をとどまらせる(住まわせる)場所を持ちたいと願われました。その願いを表す言葉としてタナハ(創世記〜マラキ書)で使われているのが、シャカンです。主が幕屋の建設について指示を与えた申命記にも出てきます。神は明確に「あなたがたの神、主が、御名を住まわせる(シャカン)ために選ばれる場所(幕屋)」(申12:11a、強調・追加筆者)と言われました。
出エジプト記25章8節では別の言い方をされています。「彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む(シャカン)」(強調・追加筆者)

シャカンの関連語として、幕屋を意味する「ミシュカン」という言葉があります。荒野の時代とシロで369年間使われた移動式の幕屋のことです。ご存じの通り、ヘブライ語の「シェキナー」(神の顕現)は文字どおりには「神の御住まい」を意味します。ミシュカンとシェキナーには、「とどまる」と訳されている言葉と同じ文字(ש<シン>・כ<カフ>・ן<ヌン>)が使われています。興味深いことに、現代ヘブライ語の「隣人」「隣人の」「近隣の」を意味するシャヘンも、同じ語根からなります。これは、無関係な隣人という意味ではなく、関係性のある文脈の中で使われる言葉です。
新約聖書の「とどまる」
新約聖書で「とどまる」という言葉が登場するのは、使徒ヨハネの著作が大半です。自らを「イエスが愛された弟子」と4回(ヨハ13:23、20:2、21:7、20)も呼んだヨハネは、この言葉の深い意味を最もよく知っていたことでしょう。この言葉には関係性が含まれるからです。
イエスが弟子たちに「わたしにとどまりなさい」と呼び掛けた真意は、どこにあったのでしょうか。神学者のシンクレア・ファーガソン氏は、この呼び掛けは「神秘的で説明し難い経験ではなく、むしろ具体的な現実を示している」と記しました。
ファーガソン氏によると、「イエスとの一致は100%恵みによる。そのために必要なのは従順さである。神のことばで心を満たし、みことばに意志を委ね、感情を変えていただくということである」。
また、私たちは刈り込みの時も経験することになります。この現実についてさらに深く調べてみましょう。
現実① とどまることは恵みによる
第一の現実は、神の恵みなくしてとどまることはできない、ということです。故ビリー・グラハム師は次のように語りました。「恵みは買うものではない。それは全能の神が貧しい人類に無償で与えてくださる贈り物なのだ」。つまり、恵みとは身に余る、神からの無償の恩恵なのです。
イエスが語られたブドウの木と枝のたとえは、神に完全に頼ることを理解する上で非常に役立ちます。枝が生命と栄養の源であるブドウの木から切り離されたら、たちまち枯れてしまうでしょう。通常、枝はブドウの木につながろうとも離れようともしていません。それが100%頼るということです。
現実② とどまるために従順が求められる
とどまるためには従う必要があります。エデンの園に始まりタナハに至るまで、神の変わらぬ願いは被造物との交わりを持つことです。ただし、人間には自由意志が与えられているため、アダムとエバは神に背くことを選び、罪を犯してしまいました。以来、神との関係性は変わり、直接的で親密な関係はなくなりました。
幕屋の模型 Photo by Jim Black/Pixabayそれでも神は長い間、民の間に住まわれました。イスラエルの民が荒野をさまよっていた間、宿営の中央に置かれていたのが幕屋(ミシュカン)です。ただし、祭司という特別な務めを与えられたのは12部族のうち1部族だけでした。「そのとき、主はレビ部族を選り分けて、主の契約の箱を運び、主の前に立って仕え、また御名によって祝福するようにされた。今日までそうである」(申10:8)
幕屋の入口がある東側にはモーセとアロンの宿営、南側にはケハテ族、西側にはゲルション族、北側にはメラリ族の宿営がありました(ケハテ、ゲルション、メラリはレビ人)。このように、レビ族は神の御住まいと他の部族との間に障壁を形成したのです(民1:51〜53)。それでも、至聖所への立ち入りは年に一度だけであり、レビ人の祭司が民のあがないをするために入る時に限られました。
不従順の結果、神に近付くことは制限され、イエスが来られる時まで続きました。しかしながら、本当の意味で神にとどまるためには、今も従順が求められます。イエスの生涯がその例です。神の御子イエスは、御父への完全な従順の模範となりました。「わたしは、自分からは何も行うことができません。ただ聞いたとおりにさばきます。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです」(ヨハ5:30)
現実③ とどまることは刈り込みを意味する
イエスは弟子たちに「あなたがたは刈り込まれる」と、厳しくも明確に告げました。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます」(ヨハ15:1〜2)
実を結ばない枝は取り除かれ、最終的に火に焼かれて灰になります。一方、実を結ぶ枝はすべて刈り込みを受けます。なぜ刈り込みが必要なのでしょうか。
答えは実際のブドウの木を見ると分かります。アイオワ大学のウェブサイトによると「ブドウの木は前年に成長した枝に房を付ける。刈り込み前のブドウの木には、実になる芽が200〜300あり、刈り込みをしない場合、房が過剰に増えてしまう。刈り込みの目的は、良質のブドウを最大限に収穫するためである」。
農夫である御父は、枝としてとどまっている者たちから、完全で最高品質の実を収穫しようとしておられるのです。
現実④ とどまることは実を結ぶこと
本当の意味でとどまっているかどうかは、私たちの生活で結ばれる実を見れば一目瞭然です。そこには明確な違いがあるとイエスは語られました。「あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません」(マタ7:16〜18)

自己診断方法の一つは、有名なガラテヤ人への手紙5章22〜23節にある、九つの御霊の実のリストを確認することです。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の実が、私たちの生活の中にはっきりと現れていますか。
イエスは、私たちが主にとどまり、枝としてブドウの木に完全に頼っているなら、多くの実を結ぶと明言されました。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです」(ヨハ15:5)。こうして最初の地点、つまり、とどまるとは100%神の恵みに頼るというところに戻ります。
人生のゴールに向かって
地上での私たちの人生のゴールは、神を知り、神との関係を通してイエスを知ることだと言えるでしょう。日々の生活を共にする時に、最も親密な関係が築かれます。良い時も悪い時もその人たちは家族です。これがとどまるということです。イエスの元にとどまることを学び、イエスとの関係をさらに深めていけるとは、何と素晴らしいことでしょう!
ヨハネの手紙第一2章28節には、霊的レベルで忠実に「とどまる」者への約束と報いが記されています。「さあ、子どもたち、キリストのうちにとどまりなさい。そうすれば、キリストが現れるとき、私たちは確信を持つことができ、来臨のときに御前で恥じることはありません」。これ以上素晴らしいことがあるでしょうか。
















