ティーチングレター

神を知るために

文:イルゼ・ストラウス(BFP報道局長)

私たちにとって人生最大の宝とは何でしょうか。
この世にはさまざまな宝がありますが、
「神を知ること」、これに勝る宝はありません。
今回は、モーセとパウロの人生から、
神を知ることを考えてまいります。

Photo by stocksnap/pixabay

聖書は、人類に対する神のご計画を明らかにするために重要な役割を果たした人々の物語であふれています。勇敢なエステル、忠実なアブラハム、羊飼いだったダビデ王、ダビデの曽祖母のモアブ人ルツ、涙をもってイエスの足に高価な香油を塗ったベタニヤのマリアなど、枚挙にいとまがありません。そんな中、間違いを犯すことがない神の御手の中にあって、間違いを犯しやすい人間の典型として、私の心をとらえ続ける二人の人物がいます。

それは預言者モーセと使徒パウロです。二人が生きた時代には数千年の隔たりがありながら、その生涯と後世に遺したものには類似点、すなわち陶器師なる神の御手の痕跡が見られます。二人は、人類史を変える役割を果たすため、生まれる前から神によって選ばれました。両者とも当時の最高の学者の下で学び、この世の指導者になるための教育を受けました。その後、主権者である神に頼るしかない、誰もいない荒涼とした荒野を何年もさまよい、神の目的のために訓練を受けました。さらに、人生を一変させる神との深い出会いを体験し、世的な快適さ、名声、権力をすべて捨てて、神が定めた道と目的に従えるようになっていきました。

その目的は何と素晴らしいものだったことでしょう! モーセもパウロも聖書の重要な書簡を著しました。執筆から数千年の時を経た今も、神の本性(ほんせい)、品格、計画を明らかにし、人々の目を神に向けさせ続けています。

しかし、モーセとパウロは、まず自分自身が神の啓示を経験する必要がありました。神を知らせる前に、親密に神を知ることが求められたのです。

どこまで親密になれるのか?

Ken Williams/Pixabay

モーセとパウロが享受した神との関係は、私たちの基準をはるかに超えています。モーセは燃える柴の前で神と出会い(出3:2)、エジプトに下った災害と紅海渡渉に際し神の偉大な力を目の当たりにしました。モーセに率いられたイスラエルの民は、昼は神の陰のうちを歩み、夜は神の暖かい火に包まれて眠りました。

モーセはイスラエルと共に神の御手から食べ、神の豊かさによって、のどの渇きを潤しました。何よりも、神はモーセと「人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせて」語られました(出33:11)。これは、創造主なる神と被造物なるモーセとの親密なきずなを裏付けています。そうです、モーセは神を知っていたのです。

パウロも同様です。ダマスコ途上でイエスと出会い、復活の主との親密な人生が始まりました。救い、あがない、そして堕落した人類に対する神のご計画という最も深遠な啓示を委ねられています。その啓示があまりにも圧倒的だったため、まばゆく光輝いていたこの世は価値を失い、神の美しさ、素晴らしさ、尊さを前に即座にかすんでいきました。今や「生きることはキリスト、死ぬことは益」(ピリ1:21)となったのです。そうです、パウロも神を知っていたのです。

ところが、モーセもパウロも一見筋が通らない嘆願を神にしています。モーセは人生の最期を迎えようとしていた時、神に「どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ(ます)」(出33:13、強調筆者)と嘆願しました。それから数千年後、パウロがダマスコ途上でイエスと出会ってから20数年後に記した最後の手紙の一つに、モーセと同じ願いが繰り返されています。「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私は、すべてを損と思っています。……私はキリスト……を知り(たい)」(ピリ3:8、10/強調筆者)

二人は既に神を明確に知っていたはずです。それなのに、なぜ神を知ることを願ったのでしょうか。

「知る」ということ

shazirrr/Pixabay

聖書は、「知る」という概念を説明するために、夫婦が分かち合う最も親密な関係を例に出しています。出エジプト記33章13節で「知る」と訳されたヘブライ語は、「ヤダ」です。この言葉は創世記4章1節前半にも出てきます。「人は、その妻エバを知った。彼女は身ごもって……」(強調筆者)。ピリピ人への手紙3章10節の「知る」は、「ギノースコー」という言葉から派生したものです。同じ言葉がマタイの福音書7章21〜23節のイエスの恐ろしい警告にも使われています。「わたしはおまえたちを全く知らない」(強調筆者)

この言葉はヘブライ語でもギリシャ語でも、最も深いレベルの親密さをもって時を過ごし、互いの愛と献身により紡がれた、壊れることのないきずなというニュアンスがあります。

本来「知る」ということは、生涯続く終わりのない探求です。最も深い親密な関係を共有する相手であっても、常に学ぶこと、探求すること、発見することがあります。モーセとパウロは身をもってそれを経験しました。彼らは、神との親密な関係を何十年間も味わい、驚異的な神の愛と力と栄光の啓示を受けました。その一方、自分たちが見た神の姿はほんの一部であり、神から放たれる壮大な輝きの片鱗(へんりん)に過ぎないことを十分承知していました。その光線は前触れに過ぎず、さらなる驚きと喜び、崇敬に値するものが待っているという約束です。それゆえ彼らは、その「さらなるもの」を求めました。

神を知ることに終わりはありません。知れば知るほど、ますます神を知りたくなります。神との歩みがどの段階にいても、最初の知識で満足することはありません。

知ることに伴う犠牲

深く親密なレベルで神を知ることは個人の裁量に任されており、犠牲を払う人に与えられます。誰かを今以上に知ることは、いつであっても可能です。しかし、知ることを最大の目的とし、繰り返しそれを選び取る時だけに限られます。

クリスチャン人生における最高の召しについて、長い間議論が重ねられてきました。聖化なのか、天国に行くことなのか。自分の賜物を神の栄光のために用いて、与えられた神の召しを全うすることなのか。あるいは、他の人々を愛し、世界をより良い場所にすることなのか。これらすべては価値のある追求であることは間違いありません。そしてパウロが語ったように、「神を知るようになること」も最高の召しの一つであると確信します。

執筆中のパウロ(ヴァランタン・ド・ブーローニュ
もしくはニコラ・トゥルニエによる1620年ごろの作
/Publicdomain)

モーセは、元奴隷から誕生した国民を荒野から約束の地へ導くという重大な召しを与えられ、壮大な神の栄光と力を目の当たりにしました。パウロは、異邦人世界に救いのメッセージを運ぶという任務に選ばれ、新約聖書の大部分を執筆するという役割を全うしました。しかし、モーセとパウロにとっての人生最大の宝は、神を知ることであり、それこそが自らの存在意義でした。

モーセもパウロも、神を知るには代価を払う必要があることを証明しています。事実、彼らは夢や野心、慣れ親しんだ生活、安全、快適さ、権力、名声、さらに自分の命をも捨てることが求められました。

時に、神は私たちにも徹底した犠牲を求めることがあります。しかし、私たちが日々、肉の思いと内住する聖霊の思いとの狭間で行う何百もの小さな選択も、神をより深く知る旅路において重要だと信じます。

一日の始まりを布団の中でただ心地よく過ごすのか、それとも主に祈り、主と共に過ごすのか。自分にとって不利益だと思っても神の命令に従うのか、それとも逃げ道や言い訳を探すのか。恐れに屈するのか、それとも感情に左右されず信仰に堅く立つのか。悪意、プライド、独善に心を明け渡すのか、それとも赦し、愛、自我の死の中を歩むのか。神の道か自分の道か。生か死か。神をもっと知るために一歩を踏み出すのか、逆方向への一歩を踏み出すのか。

努力の要らない生活を送りながら永遠に至る道を選ぶのか、それとも「キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり」(ピリ3:10)、神を深く知るために犠牲を払う道を選ぶのか。結局のところ、日々繰り返される小さな選択が、最終的に私たちの人生の旅路をつくります。

パウロは、自分が得たものに比べれば犠牲は大したことではないといいます。「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています」(ピリ3:8a

生涯にわたる神を知る旅路

神はモーセとパウロの心の願いに応えられました。ご自分の傍らにモーセの場所を定め、岩の裂け目に隠し、御手で覆われました。こうしてモーセは、全能の神の善と栄光が前を通り過ぎ、神の御名が宣言される間、焼き尽くす神聖さから守られたのです(出33:19〜23)。その瞬間の親密さに驚嘆します。

神を知る旅路は、驚異的な神の愛、力、栄光の啓示に満ちた、生涯にわたる探求となるでしょう。この旅路は、さらなる驚きと喜び、崇敬に値する、まばゆいばかりの約束の前味でしかありません。その事実を知ることで私たちは喜びを手にします。

人間は堕落しているため、聖なる神と顔と顔を合わせてなお生きることはできません(出33:20)。しかし、堕落した状態が永遠に続くわけではなく、将来(願わくは近いうちに)、犠牲を知り尽くした神の子羊が勝利の獅子として帰ってこられ、すべてを新しくしてくださるのです(黙21:5)。

それまでの間、「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう」(ホセ6:3)。罪深い不完全な時代の中で、私たちは鏡におぼろげに映る神しか目にしていません。しかし、完全さが不完全さに取って代わり、信仰がついに見えるものになり、心のあらゆる願いが満たされ、顔と顔を合わせて神とまみえる時が来ます。栄光に満ちたその時、私たちは初めて、神が常に完全に私たちを知っておられたように、完全に神を知るのです(Ⅰコリ13:12)。

ページトップへ戻る

特定非営利活動法人
B.F.P.Japan (ブリッジス・フォー・ピース)

Tel 03-5969-9656(平日10時~17時)
Fax 03-5969-9657

B.F.P. Global
イスラエル
アメリカ合衆国
カナダ
イギリス&ヨーロッパ
南アフリカ共和国
日本
韓国
ニュージーランド
オーストラリア

Copyright 1996- © Bridges For Peace Japan. All Rights Reserved.