文:ジャネット・アスリン(BFPスタッフライター)
神は私たちを試されます。なぜでしょう。
その真意を知る時、神のテストに対する心構えも変わってきます。
テストは人生で避けては通れません。また、無くてはならないものです。運転免許の試験に受かっていない人に路上運転をさせるでしょうか。もっと極端な例を挙げれば、解剖学を修了していない外科医から手術を受けるでしょうか。つまり、十分な技能があることを立証するためにテストは必要不可欠なのです。
では、信仰についてはどうでしょう。神は私たちをテストされるでしょうか。聖書によれば、神は個人も集団も試されます。個人をテストした例として、アブラハムのイサク奉献(創22:2)があります。集団については、イスラエルの民がエジプトを出て荒野を彷徨(ほうこう)した際に試された例があります(出16:4)。
「テスト」という言葉を聞いて、どんな感情がわきますか。過去の失敗を思い出す人もいれば、全く違う反応を示す人もいるでしょう。いずれにしても、神のテストは全く異なるものなので安心してください。神のテストは「合格か不合格か」ではなく、「合格か再テストか」です。たとえ「再テスト」が必要な場合でも、神のあわれみを証言するダビデの詩篇を読むと安心できます。「主によって 人の歩みは確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。その人は転んでも 倒れ伏すことはない。主が その人の腕を支えておられるからだ」(詩37:23〜24、強調筆者)
テストを意味する二つのヘブライ語
テストと訳されるヘブライ語は主に二つあります。一つは「ナサ」で、もう一つは「バハン」です。ストロング・コンコルダンスでは、この二つの言葉を「テストする、試す、証明する、検査する」と説明しています。さらに、ナサには「通常、品格や忠実さを証明するために使われるテスト」という定義が加えられています。
ナサという言葉を研究したハイム・ベントラー氏は、この二つの言葉の違いを次のように説明しました。「バハンには『テストする』という意味がある。つまり、きちんと動くか、あるいは十分学んだかを確認するという意味で、私たちが即座に思い浮かべるテストと同義語である。ナサもよく似た意味を持つ一方、微妙だが重要な違いがある。ナサは『挑戦』という意味合いが強い。例えば、重量挙げの選手は最大重量に達するまで『ナサする』(負荷を加え続ける)。すなわち、失敗するまでウェイトを増やすのではなく、自分が持ち上げ得る限界を見極めつつ重量を加えるということだ」。つまり、ナサは、あなたの人格の深さを見極めるために試すということです。
誰が誰をテストするのか
聖書では、神が人を試したり、人が神を試したり、人が人を試したりする場面が出てきます。今回は、神が人を試された二つの事例を見てみましょう。出エジプト記の15章と16章です。神が人を試される場合、ナサとバハンの両方が使われますが、今回選んだ聖句にはナサだけが登場します。
ラビのギル・スチューデント師は『Why Does God Test Us?』(なぜ神は私たちをテストされるのか)という記事の中で、こう記しました。「全知の神が、私たちが神の命令に従うかどうかを知るために試すという考え方は、つじつまが合わない。神は未来をご存知なのだから、意味がない。しかし、トーラー(モーセ五書)は神のテストに何度も言及している」。何かを決断する時、神を信頼するのか、あるいは自力で問題解決しようとするのか、自らの反応を知る必要があるのは私たちのほうなのです。
あなたはわたしを信頼するか
いわゆるどん底に落ちた時、大切な質問があります。その一つが「私は、神がどのようなお方だと信じているのか。信頼に足るお方なのか。いかなる状況下でも私の必要を備えることができるお方なのか」という質問です。困難な状況下でも、神は誠実で信頼できるという信仰に堅く立とうとするなら、適切な質問だと言えます。そこには従順の姿勢があります。信頼と従順は、鶏と卵論争のように、どちらが先か判別できないほど結び付いています。まず信頼から見ていきましょう。次に従順について見ていきます。
出エジプト記は、神の民がエジプトの奴隷生活から神によって解放された物語です。民が荒野に入り、水と食料を安定的に入手できなくなった時にテストが始まりました。神は、本当に民の必要を満たすことがおできになるのでしょうか。「主はモーセに言われた。『見よ、わたしはあなたがたのために天からパンを降らせる。民は外に出て行って、毎日、その日の分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを試みる(ナサ)ためである』」(出16:4)
イスラエルの民は食べ物のことを心配していました。一方神は、民がご自分を信頼するかどうかを日々テストしつつ、ご自身の誠実さを証明されました。
あなたはわたしに従うか
2番目に大切な質問は「あなたはわたしに従いますか」です。人は二人の主人に仕えることはできません(マタ6:24)。神に従うか、それとも神の王座を自我が奪い取るか。これは私たちが一生の間直面する厳粛なテストです。主は妬む神であり、何人もの相手に忠誠を尽くすことを喜ばれません。「あなたは、ほかの神を拝んではならない。主は、その名がねたみであり、ねたみの神であるから」(出34:14)
イスラエルの民はエジプトの奴隷生活から解放され荒野に入った時、従順(あるいは不従順)のテストに直面しました。民は紅海が分かれるのを見、乾いた地を渡りました。また、エジプト軍が紅海にのみ込まれる姿を目撃しました(出14:13〜28)。その3日後、マラの苦い水が奇跡的に飲めるようになった後、主は民に掟と共に素晴らしい約束を与えておられます。
「……主はそこで彼に掟と定めを授け、そこで彼を試み(ナサ)、そして言われた。『もし、あなたの神、主の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたを癒やす者だからである。』」(出15:25〜26)。イスラエルの民が水を求めたのに対し、神は完全な健康というそれ以上のものを約束されました。その条件は主の御声を注意深く聞き、主の求めに従うことだけです。
主は、モーセの死後リーダーの責任を引き継いだヨシュアに対し、約束の地に入る準備として訓戒を与えました。「このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。そのうちに記されていることすべてを守り行うためである。そのとき、あなたは自分がすることで繁栄し、そのとき、あなたは栄えるからである」(ヨシ1:8、強調筆者)。つまり、神のことばを知り、行い(従い)なさいということです。
現代には多くの「グレーゾーン」があります。神に従うために、時間を確保して神のことばを読み、あいまいな領域に対する聖書的立場を明確に知る必要があります。毎日みことばを読み黙想するなら、明瞭に理解できるようになるでしょう。クリスチャンの友人と聖句について語り合うのも良い習慣だと思います。
高度なテスト
聖書には時に「テスト」(試み)とは書かれていないテストがあります。ダビデ王は一度ならず二度までも試みに遭い、主に対する自分の忠実さと心の状態を明らかにされました。一方、初代イスラエルの王サウルは、その不従順によって王位を失いました。サムエルは、主の導きによりエッサイの息子の一人に王としての油を密かに注ぎます(Ⅰサム16:1〜12)。主は明らかにダビデの心を知っておられました。「……人はうわべを見るが、主は心を見る」(Ⅰサム16:7)
続く数年間サウルは王位にとどまり、ダビデは幾度となく命懸けで逃げざるを得ませんでした。「なぜ主がこのような状況を許されるのか」とダビデも不思議に思ったことでしょう。ダビデがサウルを殺し正統な王位に就ける機会が二度ありました。一度目はサウルが用を足すために洞窟に入った時(Ⅰサム24:1〜6)、二度目はダビデを追ってきたサウルと軍隊が荒野で眠っていた時です(Ⅰサム26:1〜11)。この時サウルの陣営に潜入したアビシャイは、サウルを殺すようダビデに進言し、もし気が進まないなら自分が殺すとさえ申し出ました(Ⅰサム26:8)。
いずれの場合も、ダビデの家来はサウルを殺して終わりにするよう勧めています。ダビデが自らの手で対処すれば、神が定めた地位への近道にもなり、家来からも大いに賛同されたことでしょう。しかし、ダビデはその意見に耳を貸さず、主を信頼することを選びました(Ⅰサム26:9〜11)。ダビデはこのテストに合格したのです。
テストは必要なのか
テストは受けなくてはならないのでしょうか。答えはYESです。私たちが自らの本当の人格を知り、聖書に登場する女性や男性のように信仰の歩みの中で成長するためです。
ダビデの生涯は完璧からはほど遠いものでした。しかし、信頼と従順を見事に体現しています。主は、ダビデの性質を既に知っていたにもかかわらず、ダビデをテストしました。ダビデは一度では合格しませんでしたが、あわれみと恵みの神が「再テスト」を許してくださることを理解していました。その後、ダビデは「わたしの心にかなった者」(使13:22)と呼ばれています。
希望のない状況に置かれ、「自分で何とかするように」と周りが騒ぎ立てても、ダビデのように神に信頼することができますように。毎朝、その日に起こるすべての出来事に神の御手を見るという決断ができますように。テストに合格した時は喜び、「再テスト」を申し渡された時も希望を持ち続けられますように。なぜなら、父なる神は私たちが未熟なままでいることを望まれないからです。「真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神に献げるように最善を尽くしなさい」(Ⅱテモ2:15)とある通り、私たちが熟練した者として成長できますように。神は私たちの味方です!