文:デビッド・ルイス博士(聖書学者)
イスラエルの北王国にいた10部族は失われ、姿を消してしまった、
という言葉をよく耳にします。果たして彼らは本当に失われてしまったのでしょうか。
聖書が語る真実に耳を傾けてまいりましょう。
現代のイスラエルを根こそぎ奪う方法の一つは、この国が聖書の真のイスラエルであることを否定することです。置換神学と呼ばれるこの理論は、タナハ(旧約聖書)でイスラエルと結ばれたあらゆる約束は教会のものだとし、神の経綸(けいりん)において教会がイスラエルに取って代わったと説きます。彼らは、イスラエルに関する聖句は比喩であると言います。ところが、部分的には文字どおりに解釈します。そうしないと矛盾が生じてしまうからです。あがないに関する聖句は、すべて字義どおり解釈し、「イスラエル」に関する聖句は「教会」と考えるというのです。
この神学では、神に従った時に与えられる祝福は自分たちのものであるとし、従わなかった時の呪いはユダヤ人に下るとします。聖句を比喩的に解釈すると混乱に陥ります。誰もが自分の思う通りに解釈を始めるからです。聖句を字義どおりに解釈せず、独自の意味を付け加えることを防ぐためには、どうしたらよいのでしょうか。
失われた部族
もう一つのよく聞く、惑わされやすい説は、ユダヤ民族の代表はユダとベニヤミンだけで、12部族すべてではないというものです。北の10部族は迷い出て、ヨーロッパ人やアメリカ人の祖先になったと言います。これも置換神学の一つで、英ユ同祖論と呼ばれる考えです。しかし現実には、この説の歴史的あるいは聖書的根拠は全くありません。
イスラエル分裂
ソロモン王の治世が終わった紀元前930年ごろ、北の10部族は南の2部族(ユダとベニヤミン)から離脱。ヤロブアムは首都サマリヤで北の10部族を治め、レハブアムはエルサレムで南の2部族を治めました(Ⅰ列王11:43-12:33)。北王国のヤロブアムは、南王国に対抗してベテルとダンに金の子牛を安置して民に拝ませました。
北王国の住民が南王国へ移住
イスラエルの神を心から信じる者たちは、ヤロブアムの背教とベテルとダンの偽祭司たちに不満を持ち、南のエルサレムへ移住しました。モーセの書(申12:5-7、16:2-6)に、過ぎ越しと犠牲はエルサレムのモリヤ山で捧げなければ神に受け入れられない、と書かれていることを知っていたからです。
まもなく、南王国が全12部族を代表するようになりました。南王国への移住者が相当数に上ったことは明らかです。神ご自身も南王国の12部族に対し、「ユダの王、ソロモンの子レハブアム、および、ユダとベニヤミンに属する全イスラエルに告げて言え」(Ⅱ歴代11:3)と呼び掛けています。
ヤロブアムに祭司職を取り上げられたレビ族が、北王国の敬虔(けいけん)な人々を先導しました。もちろん政治的な理由などで付いてきた人もいましたが、彼らもこの移住を後押ししたのです。ヤロブアムとその息子たちは主の祭司たちの職を解き、ヤロブアムがつくった高き所、子牛などのために祭司を任命しました。そのため主の祭司たちは、自分の住む地と財産を捨て、ユダのエルサレムに来たのです。さらに、全部族のうち、神を心から求める者たちも、父祖の神に犠牲を捧げるためレビ人に付いてきました。
もう一つの移住
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それからずっと後、アサ王が南王国を治めていたころにも大集団が北から移住してきました。「さらに、彼はユダとベニヤミンのすべての人々、および、エフライム、マナセ、シメオンから来て彼らのもとに身を寄せている人々を集めた。彼の神、主が彼とともにおられるのを見て、イスラエルから多くの人々が彼をたよって来たからである」(Ⅱ歴代15:9)
北王国が捕囚になるころには、南王国が全12部族を代表するようになっていたことは疑う余地がありません。紀元前722年に北王国がアッシリアに捕囚になった時、北の10部族の多くの民は南ユダに残っていました。さらに時代が下った紀元前586年、ユダがバビロンに捕囚された時、それ以前に北王国から南王国に移住が行われていたため、イスラエルの全部族が捕囚になったのです。
預言者イザヤ
イザヤはエルサレムで南王国ユダに関する預言をしました。北王国の陥落(紀元前722年)から数十年後の紀元前690年ごろです。「これを聞け。ヤコブの家よ。あなたはイスラエルの名で呼ばれ、ユダの源から出て…」(イザ48:1)
イザヤ書48章12-14節にも注目してください。この節は、神がイスラエルを完全には終わらせないと約束された大切な章に出てきます。つまり、ソロモンの死後に国が分裂した後、北王国だけがイスラエルと呼ばれるようになったとする英ユ同祖論を否定しています。
イスラエル(北10部族)の捕囚
ホセア王は北王国(10部族)最後の支配者でした。アッシリアの王シャルマヌエセルがホセアと戦って勝利し、イスラエルは紀元前722年に完全に陥落します。ホセアが統治したのは、紀元前732年から北王国が滅亡するまでの間でした。
多くのイスラエル人がアッシリアで奴隷になりました。アッシリアを征服し、その後を引き継いだバビロニア帝国は、北イスラエルの(失われていない)10部族の子孫を受け継ぎました。
国外退去は北イスラエルのすべてではない
確かに、第二列王記17章を精査せずに読むなら、北イスラエルのすべての人が捕囚になったように見えます。こうした場合、同じ主題を扱う他の聖句と比較しながら、文脈に沿って理解しなくてはなりません。北王国がアッシリアに滅ぼされた数年後、ユダのヒゼキヤ王は全イスラエルに対し、エルサレムに上ってきて礼拝し、過ぎ越しの祭りを祝うように呼び掛けました。
「彼らはベエル・シェバ(最南端)からダン(最北端)に至るまで、全イスラエルにおふれを出し、上って来て、エルサレムでイスラエルの神、主に過越のいけにえをささげるよう呼びかけることに決定した。…そこで、近衛兵は、王とそのつかさたちの手紙を携えて、イスラエルとユダの全土を行き巡り、王の命令のとおりに言った。『イスラエルの人たちよ。アブラハム、イサク、イスラエルの神、主に立ち返りなさい。そうすれば、主は、あなたがたに残された、アッシリヤの王たちの手をのがれた者たちのところに、帰って来てくださいます』」(Ⅱ歴代30:5-6。括弧内は筆者)
「こうして、近衛兵は、エフライムとマナセから、ゼブルンの地に至るまで…行き巡った…。ただ、アシェル、マナセおよびゼブルンのある人々(とイッサカル)はへりくだって、エルサレムに上って来た。…こうして、エルサレムにいたイスラエル人は、…種を入れないパンの祭りを行った」(Ⅱ歴代30:10-11、21。括弧内は筆者)。前後関係を理解するために、第二歴代誌30章全体を読んでください。
ヒゼキヤのリバイバルと改革運動から80年あまりたったヨシヤ王の時代に、同様のことが起こりました。王が神殿への捧げ物を要請したことに応え、「マナセとエフライム、すべてのイスラエルの残りの者、全ユダとベニヤミンから」(Ⅱ歴代34:9)、お金が集まりました。これは、英ユ同祖論者が「“失われた”10部族がヨーロッパ中をさまよっている」と主張した時代に起こったことです。
「ユダヤ人」と「イスラエル人」は互換的に使用された
北王国と南王国の分裂はバビロン捕囚で終わりました。バビロンから帰還した後、「ユダヤ人」と「イスラエル人」という言葉は互換的に使用されました。エズラは、帰還した残りの民を「ユダヤ人」あるいは「イスラエル」と呼び、ネヘミヤも「ユダヤ人」を「イスラエル」とも呼んでいます。新約聖書でも「ユダヤ」と「イスラエル」は同じ意味で使われています。
バビロン捕囚
南ユダ王国はバビロンのネブカデネザル王に征服され、紀元前586年に滅亡しました。ユダヤ人(とそこに住んでいたイスラエル人)はバビロンに捕囚され、北王国の子孫がそこに住んでいることを知ります。バビロンがアッシリアを征服したからです。それほど長い期間がたっていたわけではないので、彼らは自分が誰なのかを忘れてはいませんでした。現代でも、それまで知らなかった親戚に巡り合うことがあれば、系図をたどってみるでしょう。同じように、系図への意識が高かったイスラエル人であれば、系図について話をし、「家族」との再会を喜んだことは間違いありません。
後編では、現代のイスラエル国家に至るまで失われることのなかった12部族について見てまいります。