ティーチングレター

アブラハム -前編-

文:シェリル・ハウアー(BFP副会長)

「信仰の父」と呼ばれるアブラハム。彼が主を信じた結果、彼を族長とするイスラエル民族が誕生しました。アブラハムがたどった人生の旅路を振り返りながら、その信仰姿勢を学んでまいりましょう。

ウルからカナンへのアブラハムの旅(József Molnár画)

聖書の中で最も重要な登場人物の一人は、ユダヤ教、キリスト教を問わず、アブラハムです。アブラハムは、ユダヤ教からもキリスト教からも信仰の父として認識されており、聖書で何度も言及されています。信仰の模範とされ、その偉大な信仰のゆえに神の友とまで呼ばれました。

この偉大で優れた信仰の人は、新約聖書でもたびたび言及されています。タナハ(創世記〜マラキ)では、預言者イザヤが神に従う人々に対し、アブラハムに倣うようにと語りました。「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラのことを考えてみよ。わたしが彼ひとりを呼び出し、わたしが彼を祝福し、彼の子孫をふやしたことを」(イザ51:1-2

聖書の記者たちは、アブラハムの模範的な信仰生活を重視していました。今回は、アブラハムと神との素晴らしい関係と生涯について詳しく見ていきましょう。また、アブラハムの友となられた主と、その関係を知ることによって、私たちが受け継いだ土台についても調べていきましょう。

過去を振り返る

アブラムのキャラバン(ジェームズ・ティソ画)

興味深いことに、過去を振り返っているのは私たちだけではありません。近年、世界中の人々が取りつかれたように過去を振り返っています。実は私もその例に漏れず、DNA検査を受けたことがあります。世界中で系図がはやっていたためです。人間は常に自分のルーツに興味を持ってきましたが、これほどまでに取りつかれたことはないでしょう。パウロはテモテに、系図に関する愚かな議論に加わってはならないと勧めましたが、系図をたどることができるかどうかはユダヤ教の中でいつも重要視されてきました。今でもそうです。他の文化圏では、これがさらに進んで先祖崇拝を引き起こしました。

今日、系図の研究は10億ドルという世界規模の産業となり、ホームページや書籍、TV番組、安価なDNA検査を生み出しています。北米ではガーデニングに次ぐ二番目の趣味が系図であり、世界的にインターネットでよく検索されている項目もポルノに次いで系図が二番目です。

マラキ書4章5節は「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす」と語っています。多くのユダヤ人とクリスチャンは、この「主の大いなる恐ろしい日」がメシアの再臨に先立つ日だと認識しています。しかし、その日が来る前に「彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる」と述べました。今日の世界で見られる系図への執着は偶然の出来事ではないのかもしれません。それは、不確かな世界に生きている自分のルーツを発見したいという、人々の深層心理に端を発するものかもしれません。あるいは、単なるネット上の流行か、もしくはご自分の子どもたちの心をその父に引き寄せるという預言の成就を、神が始めておられる可能性もあります。マラキ書は続けて「それは、わたし(万軍の主)が来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ」と語りました。

いずれにしても、このマラキ書に出てくる「父(アボット=父祖たち)」とは、父祖アブラハムとも言えるのではないでしょうか。

始まり

アブラハムが生きていたのは約4千年前になります。私たちが想像するアブラハムの姿は、ひげを生やし、今日ベドウィンが着用している黒い服を着た半遊牧民ではないでしょうか。サンダルを履いて杖を手に、世界に一神教のメッセージをもたらした、頑強で情熱的な男性の姿です。しかし、偶像崇拝者の息子だった彼が、どのようにして神の友となったのかをもっとよく理解するために、簡単に若い日のアブラハムを見てみましょう。

最初アブラムと呼ばれていたアブラハムは、紀元前1800年ごろにカルデヤのウルで生まれました。アブラムの父テラはセムの直系の子孫で、70歳の時にアブラハムが誕生しました。聖書学者やユダヤの賢人の計算によると、アブラハムが生まれた時にセムは存命中で、ほぼ400歳だったと考えられています。おそらくノアも生きており、およそ900歳で、ノアが死んだ時、アブラハムは60歳ぐらいだったと数えられています。

ユダヤの伝承によれば、アブラハムは若いころに数年間、ノアとその家族と一緒にアララテ山に住んでいたとのことです。ノアはメトシェラ(アダムと同時代を生きた人物)を知っていたと考える学者たちもいます。つまり、アブラハムは、神に従い人類を滅びから救った義人ノアから学んでいたことになるのです。アブラハムは自分の耳で、箱舟建設や洪水、地上再建の物語を聞いたことでしょう。加えて、アダムとその家族だけが地上に住み、エデンの園がまだ神と人との交わりの場所だった創世の物語を直に聞いていたかもしれません。

カルデヤのウルでの生活

すべてがウルでの生活とは全く違っていたことでしょう。伝承によると、シュメール人だったアブラハムは、偶像職人だった父を持ち、ある種の特権階級に属していました。教育が重視される文化の中で、数学、科学、読み書きの技術や記録管理を学んでいたと考えられます。若い日のアブラハムは当時の典型的なファッションを身にまとっていたことでしょう。すなわち、むき出しの上半身に膝丈でハイウェストのスカート、それにサンダルを履き、たくさんの宝石を身につけ、アイメイクを施した姿です。良い香りが漂うお風呂に入り、栄養豊かな食事を家族と共に楽しんでいたはずです。食卓に並ぶのはピタパン、数々の新鮮な果物と野菜、魚、鳥、羊肉、野生の獲物の肉…。食後は芸に長けた人々による歌や踊り、詩の暗唱などによって人々はくつろいでいたのではないでしょうか。

アブラハムやサラなどが埋葬されていると言われる
マクペラの洞窟上の建物

アブラハムの父テラは、当時の規定に従って息子を族長にしようとしていたはずです。族長たちはほとんどの場合、妻子を愛しつつも、家族に対して絶対的な力を持ち、君臨していました。妻子は事実上族長の所有物であり、気ままに罰せられたり、離婚されたり、奴隷に売られたりすることもあったのです。ラビ・ジョナサン・サックスは、この若い時のしつけが年を経てもアブラハムに影響を与え、聖書の有名な出来事が起こってしまったと信じています。神は、妻の言うことに耳を傾けるようにアブラハムに言われた時、このパラダイムをはっきりと転換されました。事実、神は、サラは持ち物ではなく、パートナーだと言っています。ラビ・サックスはさらに、神がアブラハムに息子イサクを殺すように指示したのは、神を信頼し、委ねさせることが目的であって、いけにえとして捧げることとは無関係だったと言います。アブラハムは、息子が自分の所有物ではなく、神だけが息子の将来を決定することができるのだということを認める必要がありました。

シュメール人の伝承はまた、アブラハムが妻のために墓地を購入した創世記23章について光を投じています。シュメールでは死者の埋葬はとても重大なことであり、埋葬の習慣が確立していました。遺体は大きなつぼか棺桶に入れられ、死後できるだけ早く家族の墓地に埋葬されました。埋葬の儀式が義務とされており、豪華な墓は裕福な人々にとってなくてはならないものでした。アブラハムもこの一族の習慣に漏れず、慌ててマクペラの洞窟を購入し、サラを葬ろうとした様子が書かれています。

聖書は、アブラムとその父、また兄弟たちも異教の偶像礼拝者だったことを明らかにしています。ヨシュア記には「イスラエルの神、主はこう仰せられる。『あなたがたの先祖たち、アブラハムの父で、ナホルの父でもあるテラは、昔、ユーフラテス川の向こうに住んでおり、ほかの神々に仕えていた』」(ヨシ24:2)と書かれています。

ところが、創世記12章で神からの指示を受けたアブラムは、既に偶像礼拝者から主の弟子に変貌を遂げていました。この間、アブラムがどのような経験をしたのか、聖書は何も語っていません。一方ユダヤの伝承には、求道者として、父親の宗教とノアとセムの神の間で悩み苦しむ若者、アブラムの物語が数多くあります。

後編では、偶像礼拝者だったアブラムが敬虔な性質を身に着けるまでに、どのような試練を通ったのかを見てまいります。

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