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知恵とは知恵ある行いのことである -後編-

TEXT:シェリル・ハウアー(BFP国際開発部長)

前編では、聖書が語る知恵ある者と愚か者の特徴を学びました。後編では、時代によって変化していった知恵ある者の役割を見ていきます。

知恵は、誘惑に打ち勝ち、自らの邪悪な願望を克服する、心の強さの中に見いだされます。戦いで外敵を打ち負かすことは、本当の力や強さの表れではないかもしれません。単に敵が弱かったに過ぎないこともあるからです。しかし、主と一体となって自分の邪悪な熱情や願望に勝利するなら、その人は勝利者であり、征服者です。これこそ本当に知恵ある者です。

残念なことに現代は、知恵とは知識の集積と思考能力だという、先月号で述べた古代ギリシャやローマの考え方を引き継いでいます。その特徴は自己陶酔とナルシシズムであり、神との関係や正しい行いは必要ないものとされます。このような理解に基づく知恵が実際には愚かであることは明白です。主への恐れを否定し、正しい基準を馬鹿にして、道徳的訓練を軽んじているからです。主への恐れが知恵の初めであるなら、現代の理解に基づく「知恵ある人」の多くは、むしろ愚か者となるのではないでしょうか。

賢者

賢者、すなわち知恵ある人は繰り返し聖書に登場しますが、必ずしもイスラエルの家に属する人ではありませんでした。中には、エジプト人やバビロニア人、また古代イスラエルを取り巻いていた異教の部族の人々もいました。タナハ(創世記〜マラキ書)で「ハカム」と呼ばれた知恵ある人々です。ハカムはほとんどの場合、世俗的な文脈で使われ、工匠や職人、魔術師や学者を指していました。

実際、ハカムはアラビア北部や中東の遊牧民の間ではよく知られた人々です。その役割は、遊牧生活で培われた実用的な知恵を保持することで、社会の歴史と仕組みを維持する階級でした。書物が無かった時代、賢者たちは過去の経験を記憶し、君主や王の助言者となり、近場の井戸を見つけ、最も良い道筋を示しました。

トーラーの巻き物 photo by Wikipedia

トーラー(モーセ五書)が与えられた後、イスラエルの生活における賢者の役割はさらに重要なものとなりました。単に世的な知識や情報を保持するだけでなく、モーセに助言をし、聖書的伝統を維持し、父祖の神をイスラエルの人々に思い起こさせる役割を担うようになったのです。何百年にもわたって賢者たちは、さばきつかさ、預言者、王と共に名を連ねてきました。そしてイスラエルがエジプトの奴隷集団から、神によって与えられた地に住む自由人の国家となるために、その知識と知恵によって幾度となく助けてきたのです。

神殿が崩壊し、ユダヤ人が離散したAD70年以降に、賢者の役割は再び変わりました。神殿と、犠牲を捧げる儀式を失ったユダヤ教は変化を迫られ、何としてでも歴史を記憶し、継承し、伝統を存続させる必要が生じてきたのです。奴隷状態に置かれた多くのユダヤ人が他のユダヤ人共同体から切り離され、犠牲を捧げる儀式も無い中で、全宇宙の神との関係を維持しなくてはなりませんでした。聖書時代後のユダヤ民族が歩んだ信じられないほど困難な歴史の中で、ユダヤ教を救ったのはしばしば賢者たちでした。

もちろんキリスト教にも賢者たちは存在します。使徒たちは、ユダヤ教の賢者と多くの点で同じ役割を果たしました。使徒たちがいたからこそ、ユダヤ民族の歴史と伝統の継承は命脈を保ったのです。そればかりか、使徒たちは国境を越えて諸国の民の世界にもそれをもたらしました。使徒たちの目撃したイエスの死と復活の証しは数千年にわたって教会を指導し、伝えられ続けました。使徒たちは、イエスの真の弟子となるために必要なことを次世代に引き継ぐ責任を負っていたのです。

今日の賢者の特徴

インターネットで知恵の定義を調べると、「神の視点で物事を見、みことばの原則に従って応答する能力」とありました。これは的を射た定義です。主を恐れ、主に委ねて従う生活を送る人は、神の視点で物事を見ることが可能になります。神の視点で見るなら、いつも正しい時に正しい判断をし、聖書の中に見られる生活の原則に従って応答できるようになるのです。

箴言は知恵について教え諭している書巻です。知恵を探し求め、知恵ある生活をし、知恵と知識を主から受けるように繰り返し奨励しています。この奨励には約束が伴っており、熱心に勤勉に知恵を求めるなら人間の思いを超えた成功へと導かれ、祝福されるのです。新約聖書も同様に、「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます(ヤコブ1:5)」と勧めています。

箴言の教えによれば、私たちが熱心に知恵を探し求めるなら、正しい道を守る力が与えられ、長寿を受け、平和な日々が増し加えられます。あわれみと真理は常にそばにあり、私たちは恵みと安全を手にし、つまずくことなく、寝ている時も危険から守られます。そして恐れることなく信頼と確信をもって歩み、善を行う力が与えられます。親切、寛容、忠実は知恵ある人のしるしです。神は私たちの心を喜びで満たし、健康を与え、愛を降り注いでくださるのです。

ヴァイン聖書辞典には「知恵の実は、新約聖書に出てくる用語を使うなら、ガラテヤ書の御霊の実『愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制(ガラ5:22〜23)』と全く同じである」と書かれています。ヤコブもまた、神からの知恵は「第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです(ヤコブ3:17)」と繰り返しました。

神の知恵ははかり知れず、すべての知恵は神のものです。神は知恵に満ち、神の知恵は無限で、神の道は究めることができず、はかり難いものです。主は、預言者イザヤを通して「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ(イザ55:8)」と言われました。

神の知恵が人間の理解をはるかに超えていることは明白です。神の知恵を追究することは、すなわち神ご自身を求めること。神にとって、ご自分の子どもたちにご自身を注ぎ出して知恵を与え、ご自分の義に歩む力を与えることは、何にも勝る喜びなのです。

何にも代え難い知恵

『ピルケイ・アボット(父祖の倫理学、ユダヤ人の知恵の書)』は、神の知恵を熱烈に願い求め、どんな代価を払ってもそれを探し求めようとする人こそ、本当に知恵のある人だと語っています。貴重な物を無くしたら、それがどんなに小さな物であっても至る所を捜し回るのではないか、と賢者は尋ねます。

ルカの福音書15章8節には、銀貨10枚を持っていた女性がそのうちの1枚を無くし、明かりをつけ、家を掃いて念入りに捜す話が記されています。銀貨を見つけると、女性は友人や近所の人を招いて無くし物を見つけたことを喜びました。マタイの福音書13章44節では、天の御国を畑に隠された宝になぞらえています。宝を見つけた人は大喜びで、その畑を買うためにすべての持ち物を売り払いました。さらに続く節では、素晴らしい値打ちの真珠を見つけた商人が、その真珠を自分の物にするためにすべての持ち物を手放したことが記されています。

知恵の探求とは、このようなものである必要があります。私たちが世界の神と一つとなり、心を尽くして神を愛し、神に喜ばれる生き方をするなら、知恵は私たちのものとなるでしょう。その知恵と共にとてつもない喜びと祝福がやって来ます。願うだけで、探し求めるだけで、それは自分のものとなるでしょう。十字架の愛をもって私たちを愛してくださる神はどのような試練の時にも共に歩むと約束してくださり、私たちが神に身を委ねる時、歌いながら喜んでくださるのです。これ以上の祝福はありません。

知恵のある者は誉れを受け継ぎ、愚かな者は恥を得る(箴3:35)

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