TEXT:シェリル・ハウアー(BFP国際開発部長)
パウロ書簡、コリントの教会から、現代にも通じる教えを学びます。今月はパウロ時代のコリントの町の様子、パウロのコリント教会への取り組み、コリントで盛んであった神々を取り上げます。
パウロの任務
主によって異邦人の使徒として召されたパウロの任務は巣立ったばかりの教会が進む道を見つけながら、異教が染み付いた文化の中で伝道するというものでした。
キリスト教がイスラエルを超えて広がる中で、パウロは、異邦人が救いを得るために、ユダヤ人になる必要はないという判断を示しました。しかし以前異教徒であった人もこの信徒の交わりに入ったなら、イエス・キリストにあって、イスラエルに示されたトーラー(創世記―申命記)と同じ基準に立つ正しい行いを守るようになるのです。
異教からの改宗者たちは割礼を受ける必要はありませんでした。しかしすべての信者は、異教の習慣を捨て敬虔できよい生活を目指すよう召されているのです。これは多くの人々にとって非常に難しいことでした。パウロの手紙の大部分は、過去から解放されるために奮闘している人々や、知らずに教会に持ち込んでしまった異教の習慣から会衆をきよめるために奮闘している人々に向けて書かれたものです。
これがまさに当時のコリントの教会でした。パウロが「パリサイ人の中のパリサイ人」だったなら、コリントの信者はみな「異邦人の中の異邦人」と呼ぶにふさわしいかもしれません。コリントでは異教の神々と邪悪な慣習が驚くほど広く深く浸透しており、その影響が生まれたばかりの教会を悩ませ続けていたのです。パウロはこれらの新しい信者たちに彼の心を注ぎ出し、励まし、指導し、叱責しました。もしパウロが今日のクリスチャンに手紙を書いたとしたら、その文面は二千年前、古代コリントの信者に宛てて書かれた手紙に非常に似ているのではないでしょうか。
コリント人のように振る舞う
AD45年、ローマ皇帝ジュリアス・シーザーの命令により、コリントはローマの植民地として再建されました。ローマのアカヤ地区の州都となり、パウロが訪れた時にはその地域で最も重要な都市の一つとなっていました。
使徒の働きには、パウロはアテネで福音を宣べ伝えた後そこを発ち、80キロ余り離れたコリントに行ったと書かれています。ギリシアとペロポネソス半島をつなぐ地峡に位置するコリントは二つの港を管理し、アジアとローマの間の貿易を支配していました。コリントは単に多くのギリシア人とローマ市民の居住地だったというだけではなく貿易と観光の中心だったのです。
船員や商人、職人や観光客でいつも賑わう町は活動の中心として栄え、ありとあらゆる悪の温床でした。現に古代ギリシアで不品行を示す言葉は「コリンティアゼスタイ(korinthiazesthai)」(William Barclay, The Letters To The Corinthians,p.2-3)で、これは文字どおりには「コリント人のように振る舞う」という意味でした。そして「コリントの女」という言葉は一般的には娼婦を指していたのです。
放縦と不品行は日常茶飯事で、異教の神殿は至る所にあり、歴史家たちは文字どおり何千人もの「コリントの女」たちがその町の異教の神殿に住み着いたり道路をうろついたりしていたと記録しています。このような町に、救いの良い知らせに満ちあふれたパウロが足を踏み入れたのは、紀元50年ごろのことでした。この町でパウロは新たな信者の群れを執拗(しつ よう)に悩ませる異教の悪に幾度となく立ち向かったのです。
パウロはエペソの教会を別にすると、どのアジアの教会よりもコリントの教会に長く滞在しました。それ以前、パウロは旅の仲間たちと共にアジア地域の主要な町々を訪れ、説教し、教え、新たに信者となった人々を集めて会衆へとまとめ上げていました。そこに滞在するのは指導者を決め、新しい教会の土台を立て上げるまでの間で、その後パウロのチームは別の場所に移っていったのです。しかし、コリントでは話が違いました。パウロはそこに住み着き、ほぼ二年の間コリントの信者たちと生活を共にしたのです。そしてその間にパウロは一時的にコリントに立ち寄る人々にもイエスの福音を分かち合いました。
偶像礼拝の儀式=異教的世界観
コリントには小さな神社からパルテノン神殿のように裕福で大きな神殿群まで文字どおり何百もの異教の礼拝所があり、同じ数だけの神々がいました。その中には古代コリントに絶大な影響力を及ぼしたカルトの儀式を伴うものがありました。
コリント第一の手紙6章9-11節にはパウロの心の痛みが明らかにされています。長い間コリントに滞在した後、パウロはエペソに向かいます。そしてそこで、もうすでに解決したと思っていた問題について手紙を書かなくてはならなくなったのです。「だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者…はみな、神の国を相続することができません。あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」(Ⅰコリ6:9-11)
当時影響力のあった五つの異教のカルトを簡単に調べてみましょう。これによって、異教からの影響を受けていたコリントの教会に福音を伝えようとしていたパウロが直面した困難と闘いが理解できます。また、今日の信者が直面している困難な問題を解決する糸口が見えてきます。
1.アフロディト フリーセックスの女神
©Marie-Lan Nguyen/wikipedia.org
アフロディトの神殿はコリントの町の上にそびえ立っていました。アフロディトは愛の神として知られていましたが、アフロディトの表していた態度や行為は、愛とは関係のない情欲と放縦でしかありませんでした。歴史家たちはアフロディトの神殿が何千人もの神殿娼婦でいっぱいになっていたことがあったと言っています。神殿娼婦の所に行こうが、政府公認の売春宿に行こうが、性的不品行に対する恥は全くなかったのです。男色や不品行は当たり前でした。それに対してクリスチャンたちはパウロの語る性的純潔のメッセージによって、一夫一婦制、結婚の神聖さを信じて、当時蔓延(まんえん)していた一般的な文化と対立する、際立った存在でした。コリントの信者に、罪の中にとどまる自由ではなく、義と敬虔な行動を選ぶ自由というキリストにある自由を本当に理解して欲しいというのがパウロの心の叫びだったのです。
2.アポロ 娯楽と若さの神
アポロ神殿は町の中心の広場を見下ろす丘の上に立っていました。「光明の君」と呼ばれたアポロは、光、永遠の若さ、健康、知識を体現するものと考えられていました。またアポロは、真理の神としてもほめたたえられていました。アフロディト礼拝は性的自由を永続させただけでしたが、アポロ礼拝では、誰もが自分自身の真理を追究し、自分自身の道を見つけ、自分自身の霊的現実を受け止めるという個人的な悟りの追究がなされました。真理は相対的なものであり、若く、強く、健康であればあるほど霊的効力を維持することができるとされていました。
コリントに宛てた二通の手紙の中でパウロは宗教多元主義の信仰に反論し、繰り返し唯一の神への信仰を勧めています。パウロはコリントに住んでいた間、何度もトーラーの教えを引用しました。パウロは手紙を通して神の真理、聖書的真理というまことの真理への動かされることのない立場を取っていました。ユダヤ人としてパウロはたびたびシェマー(申命6:4)を引用して、唯一の神への自分の信念を宣言していたことでしょう。パウロはそうすることによってトーラーの中に表われる父祖たちだけではなく、彼のユダヤ人メシア、イエスの模範と導きにも従っていたのです。
後編では、さらに他の三つの神々と、異教の世界観をどのように刷新していくかを学びます。