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神はわれらと共におられる -後編-

シャリーダ・スプリンクル/出版局副編集長

前号では詩篇46篇を通して、来るべき苦難の時への私たちの心の備えについて学びました。 今月もこの聖句を通して、神が苦難を起こされる目的と、苦難に直面した私たちが神に対して取るべき応答について学んでいきたいと思います。

「神はそのまなかにいまし」

「神はそのまなかにいまし……」5節で語られています。 神はそのただ中におられることを愛されます。 創世の初めから、神のいのちの木はエデンの園の中央にありました。神は燃える柴の中で、モーセにご自身を現わされました。 神は海の真ん中にパロを投げ込まれました。 神の幕屋は宿営の中央にありました。 そして神は陣営の真ん中を歩まれました(申命23・14)。神はシナイ山で火の中から人々に話されました。 神はイスラエルを世界の中心に置かれました。 神はシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴと共に、火の燃えさかる炉の中に、第四の者の姿としておられました(ダニエル3・25)。神は、二人でも三人でも主イエスの御名において集まる所には、その真ん中におられます(マタイ18・20)。 死の間際においてさえ、主イエスは二人の罪人の間におられました。主イエスの死後、弟子たちが恐れのゆえに戸を固く閉ざし、部屋の中に潜んでいたときも、主イエスは弟子たちの真ん中に現われました(ヨハネ20・19〔新共同訳〕)。ヨハネは人の子が七つの燭台の真ん中に立っておられるのを見ました(黙示1・13)。 そして最終的に天国の御座の正面におられます(黙示7・17)

詩篇46篇に2度、「万軍の主はわれらとともにおられる。」 と繰り返されているように、神は私たちと共におられるのです! この神を信じる私たちは、「神は私の内におられます。私は神を離れて他の所へ移されることはありません!」と言うことができます。何という慰めでしょうか!もしも、私たちが霊の奥底でこのことを認識するなら、恐れは消え失せるでしょう。

神の目的

それではさまざまな苦難があるのはなぜでしょうか。 そこには、神の三つの目的があると詩篇46篇に書かれています。

まず神は、世を裁かれると書かれています。 通常、裁きとは恐ろしいものだと思いがちです。 しかし8節にあるように、人間の罪によってもたらされた地の荒廃を神が裁かれることによって、神の真実(神の国)を見るために私たちは招かれました。詩篇96篇では私たちに将来の展望が与えられています。

人間の罪によりもたらされた地の荒廃を神が裁かれる

『主は公正をもって国々の民をさばく。』 天は喜び、地は、こおどりし、海とそれに満ちているものは鳴りとどろけ。野とその中にあるものはみな、喜び勇め。そのとき、森の木々もみな、主の御前で、喜び歌おう。確かに、主は来られる。 確かに、地をさばくために来られる。 主は、義をもって世界をさばき、その真実をもって国々の民をさばかれる。」(詩96・10b-13)。

神が裁き、統治される世界を想像することができますか。何と素晴らしい世界でしょう。 例え裁きの時にあっても、喜びに満たされるにふさわしい理由がそこにはあるのです。

第二に、「主は地の果てまでも戦いをやめさせ、」(9節) とあります。例え最初に地獄を経験するとしても、いつかは地に平和がくるのを私たちは見ることになるのです。

第三に、「わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」(10節)。 この聖句は、聖書を通して数え切れないほど繰り返されています。神の目的は、人間が創造者である神を知ることです。エゼキエルが言明しているように、神を知る(理解する)ために選び出され訓練された人々、それがイスラエルの民でした。

「わたしはあなたがたを町から連れ出して、他国人の手に渡し、あなたがたにさばきを下す。 あなたがたが剣に倒れ、わたしがイスラエルの国境であなたがたをさばくとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。」(エゼキエル11・9-10)。さらに、主は人々にご自身を明らかにするために、ご自身の民に素晴らしいことをなされます。 「わたしがあなたがたを国々の民の中から連れ出し、その散らされている国々からあなたがたを集めるとき、わたしは、あなたがたをなだめのかおりとして喜んで受け入れる。わたしは、諸国の民が見ている前で、あなたがたのうちに、わたしの聖なることを示す。わたしが、あなたがたの先祖に与えると誓った地、イスラエルの地に、あなたがたをはいらせるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。」(エゼキエル20・41-42)。神が、ご自身の民イスラエルへの約束を実現されることを通して、他国の人々にも同様にご自身を示される計画がそこにあります。「わたしは、諸国の民の間で汚され、あなたがたが彼らの間で汚したわたしの偉大な名の聖なることを示す。 わたしが彼らの目の前であなたがたのうちにわたしの聖なることを示すとき、諸国の民は、わたしが主であることを知ろう。―― 神である主の御告げ。――」(エゼキエル36・23)。 裁き、訓練、恩恵がどのようなものであっても、神の目的は、地上でその御名があがめられ、賛美されることに他なりません。

困難な時にも喜ぶことこそ、私たちがなすべき神への応答

私たちの応答

先に述べたように、私たちは苦難に直面しているときでさえ喜びます。 なぜなら私たちは、その結果を知っているからです。 どんなに困難な時で あっても、喜ぶことこそ、私たちがなすべき神への応答です。神は人生のすべてに深く関わっておられ、私たち一人ひとりに対して素晴らしい目的をもっておられます。それがたとえ荒廃の内に隠され、苦しみばかりだと思えるような状況にあったとしてもです。

詩篇46篇の中で記者が最初に応答していることは、「それゆえ、われらは恐れない。」ということです。 簡単なようですが私たちは皆、それが決して容易ではないことを知っています。たいていの人々は、ダビデが置かれていたような類の状況にはありません。 私たちにはダビデがこの詩篇を書いたときの心情は分かりません。 しかしダビデは、この困難な時にあって神が共にいてくださることを体験した者として、その確信について語っています。ダビデは熊やライオンに遭遇し、ゴリヤテの前に立ちはだかり、サウル王や自分の息子アブシャロムから命からがら逃げ出し、また、戦場にあっては数え切れないほどの敵に立ち向かっていきました。私たちは地震や津波に遭遇したことはなくても、ダビデの証しを信頼することはできます。 神はそのただ中におられます。そして神は私たちの避け所であり、力となってくださいます。荒廃、戦争、弓、槍、戦車について語った後、神は言われます。 「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。」(10節) ヘブライ語で「be still (Strong's #7503)」とは、単に静かにするというだけの意味ではありません。 それは、やめさせ、断念させ、休ませ、見捨て、行かせることを意味します。 ある翻訳では「戦いをやめる」と書かれています。恐怖に包まれたとき、私たちはリラックスすることなどとてもできません。 むしろ緊張します。なぜなら私たちは自分自身、あるいは他の人を防衛する本能に支配されているからです。私たちは死ぬことを恐れ、傷付くことを恐れ、また、何かをあるいは誰かを失うことを恐れます。 究極的には、もし神が命を望まれるなら、私たちは喜んでお渡しすべきです。主イエスはそれをこのように表現されました。 「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10・39)

神は言われました。 ヤコブの神はあなたの「refuge (避け所)〔Strong's #7682〕」、すなわち、あなたの高き所、安全な高台、または、休息の場です。「それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。 今、私のかしらは、私を取り囲む敵の上に高く上げられる。」(詩27・5-6a)。それは私たちを休息させる神のみことばです。私たちは皆、それを体験しています。 もし心を痛め、傷付いているなら、みことばを読む時間をとりましょう。 そうすればたちどころにストレスが減少していくのが分かります。「すべての考えにまさる神の平安」(ピリピ4・7) がその鍵です。 子どものころ、私はたくさんの聖句を暗唱しました。 しかしそれ以降、みことばを覚えることをあまりしませんでした。暗唱することの重要性を思い、みことばを記憶したいと長年考えてきました。

そして2、3カ月前のある朝、目が覚めて突然、今がまさに再び聖句を暗記する時だと悟りました。私の心にみことばを蓄える喜びが再び与えられました。 暗唱したみことばは、単に聖句を読むこととは全く違った方法で生き生きとよみがえってきました。私は皆様にもこの方法をお勧めします。 このような特別な時代ですから、なおいっそう神のみことばを求めましょう。 困難な時が来たそのとき、あなたの心に消すことのできないみことばが刻み込まれていることになります。詩篇46篇は暗唱を始めるにはとてもよい一篇です。

結 論

詩篇46章の学びにおいて私たちは、嵐(終わりの時代の艱難)について、そして嵐の中におられる主について考えてきました。 主はすべての出来事を支配され、まさにその嵐の中で私たちと共にいてくださいます。神は特に嵐の時こそ、「真っただ中」におられることを好まれます。私たちについてはどうでしょうか。神は私たちがどこにいることを望まれるでしょうか。神は私たちにもまた、その「真っただ中」にいることを望まれます。 例えヤコブの神が頼りがいのある「避け所」であり安全な場所だとしても、神は嵐の中の避難所であることを忘れないでください。困難な時、嵐が最も激しい時、最も助け手が必要なのです。 大混乱の真っただ中で苦しむ人々に対して、誰が一番の助け手となることができるでしょうか。 それは、神の避け所に入っている人、恐怖に陥らない人々です。なぜなら、そういった人たちは状況をものともしないからです。

2006年のヒズボラとの戦争で破壊された
イスラエル北部キリヤット・シモナの建物

昨年の夏、ヒズボラとの戦闘期間中、ここイスラエルでこのことが証しされたのを私たちは見ました。私たちBFP(ブリッジス・フォー・ピース)に、今まで接触がなかった場所から助けを呼び求めて被災者がやって来たのです。定期の支援受給者の方々は通常よりいっそう多くの必要を叫び求めていました。 事態が収拾した後では支援物資は必要なくなります。 ロケット弾の集中攻撃のただ中で、彼らは食料や日用品を必要とするのです。BFPのスタッフの多くは、ロケット弾がいつどこに落ちるか分からない危険の真っただ中で、イスラエル北部へと向いました。 私たちはその中にいることを恐れる必要がありませんでした。なぜなら、避け所である神が共にいらしたからです。それによって、戦闘が終わるまで、2万3千人の人々に援助の手を伸ばし続けることができました。

神は混乱のただ中に、私たちと共におられることを望まれます。まさにその場所で神は最もよく見ておられ、私たちは神と共にいることを最も強く実感することができます。私たちが整えられ、今この嵐に立ち向かうことができますように。 主がその日に先立ち、私たちに精神的、物質的な準備をさせてくださいますように。

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