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隠れ場 -後編-

シャリーダ・スプリンクル/BFP出版局副編集長

前号では、詩篇91篇をはじめ聖書の多くの箇所で用いられている〝隠れ場"について、それがどのようなもので、どうすればそこを訪れ、住むことができるのかを学びました。今月も引き続き、私たちが神に招待されている〝隠れ場"の性質について、ダビデやエリヤ、パウロなど聖書の人物の例からさらに深く理解していきたいと思います。

少年時代のダビデは、羊飼いとして静かな丘でほとんどの時間を独りで過ごし、神との交わりをゆったりと楽しんでいました。ダビデの詩篇からは〝隠れ場"での神との親密な関係がうかがえ、まるで他の場所を知らないかのようでした。第一サムエル記17章では、少年ダビデが巨人ゴリヤテに少しもひるまずに戦う様子が記されています。

しかし私たちは、ダビデが勝利を得られなかった時期があったことも知っています。おそらく最悪の出来事は、バテ・シェバとの姦淫の誘惑に負けたこと でしょう。ナタンがダビデにその事実を突き付けたとき、ダビデは自分にとって何が最も重要であるかを知りました。それは心の奥深い場所で、神とあの親密な交わりをもつことでした。

「私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。」(詩篇51:11)

羊飼いとして暮らした少年時代のダビデ

たとえ、神がダビデを投げ捨てられなかったとしても、バテ・シェバとの間の最初の子どもを亡くし、高い代価を支払いました。また、別の時にもやはり、〝隠れ場"の外側で行動したときに苦難に遭いました。それは軍隊の規模を決定するために、人口調査を行ったときです(Ⅱサムエル24章)。ダビデはすぐさま自分の罪を告白しましたが、神が送られた疫病は7万人を滅ぼしました。ある人は、ダビデが詩篇91篇を書いたのは、この出来事の後だと言っています。隠れ場では、「千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても……」(詩篇91:7a)勝利ですが、私たちが自分自身の力で踏み出すとき、勝利を期待することはできません。

大胆さと勇敢さの場所

第一列王記17章では、何の前置きもなく突然エリヤという人物が現れます。そして、このエリヤは、イスラエルの王アハブに、何年もの間その地に雨が降らないことを宣告します。エリヤのこのような大胆さと勇敢さは、隠れ場で神と共に過ごした時間の中で培われたものに違いありません。そしてそれは、イスラエルとフェニキア両国の同盟を強化するために、イゼベルが母国から持ち込んだバアルとアシェラ(豊穣の女神)に立ち向かうためのものでした。不道徳と男色は、礼拝を執り行う人々と神殿娼婦(及び男娼)によって習慣的に行われていました。礼拝者は、悪魔的な恍惚状態や失神状態に陥り、ナイフで自分自身を切りつけ、傷つけていました。バアルは祭司たちに去勢を要求しました。イスラエル人たちは宗教的好色に屈し、ヤハウェの祭司と預言者は殺害されるか、隠れるかのどちらかでした。この宗教は、エリヤや信仰の篤い人々にとって、今日におけるイスラム過激派のように、危機を感じさせるものであったに違いありません。

例えハリウッド映画の脚本家でも、カルメル山における第一列王記18章に描写されている出来事以上に壮絶な霊的戦いを描くことはできないでしょう。これはまことの神に敵対する邪悪なものとの戦いでした。エリヤはバアルの預言者450人に対して、たった一人、不屈の力で民族の前に立ちはだかりました。

エリヤは神をよく知っていました。エリヤは神が奇跡的に天から火を送り、いけにえを焼き尽くされることを信じて疑いませんでした。このような信仰による大胆さや勇敢さは、神と共に時を過ごす者、そして静かな場所で神から聞くことのできる者だけにもたらされます。エリヤは神が与えられた詳細な指示に聞き従いました。「あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行った……」(Ⅰ列王18:36)

それでもなお、この驚くべき勝利の直後、イゼベルからの逃亡を余儀なくさせるほどの恐怖が、突然エリヤを襲います。それは、まるでエリヤが神について知っているすべてのことを忘れ去ってしまったかのようです。神は3年もの間、アハブからエリヤをかくまわれました。それなのに、神がエリヤをイゼベルから守られないということがあるでしょうか。エリヤは450人ものバアルの預言者を殺しました。それにもかかわらず、たった一人の女から逃げようとしたのです。この勇敢な男に何が起こったのでしょうか。私たちの心が神に信頼していないとき、私たちは何と簡単に恐れに打ち負かされることでしょう(イザヤ26:3)。エリヤが再び神の御声を聞いたのは、静かな隠れ場の「かすかな細い声」でした。(Ⅰ列王19:12

恵み、平安、喜び、信仰の場所

聖書には、パウロは主イエスに従う誰よりも多くの苦難に遭ったと記されています。パウロは自分の試練をリストアップしています。「私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」(Ⅰコリント11:23b-27)。それでもなお、パウロは恵みと平安と喜びと、そして揺るぎない信仰で、そのすべてを切り抜けていきました。

投獄されるパウロ

パウロとシラスが投獄されていたとき、二人は賛美し主を礼拝していました(使徒16章)。乗っていた船が二週間も暴風に激しく翻弄され、船の積荷が海中に捨てられるのを見ても、不安な様子を見せませんでした(使徒27章)。その状況は絶望的で、水夫たちは14日間、何も食べることができませんでした。パウロは水夫ではなくただの乗客(囚人)でしたが、兵士たちが聞き従うほどに確信と権威をもって話しました。まむしに取りつかれたときも、ただ火の中に振り落としただけでした(使徒28章)。パニックや死の恐怖は微塵もありませんでした。

このような状況の中で、どうすれば平安な心でいられるのでしょうか。パウロは心の奥深い所で神と共に住んでいました。神との交わりがパウロにとって余りにも現実的であったので、肉体での経験はさほど重要ではありませんでした。ローマ人への手紙8章38節から39節に記されているパウロの信仰告白は、単なる言葉ではなく、それが真理であることをよく理解したものです。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」どのような悲惨な経験であっても、神からパウロを引き離すことはできませんでした。なぜなら、隠れ場はパウロにとっては現実そのものだったからです。

実りと安全の場所

主イエスが十字架にかけられる前夜、最後に弟子たちと過ごされたときに、とどまるべき場所について語られました。

「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:4-5)

とどまることは自由に選択できることではありません。なぜなら神の御国のために実を結ぶことを望む者だけが、とどまることのできる場所だからです。イエスの人生は、隠れ場に生きた人生の完全なる模範です。

ぶどうの実は枝が木にとどまっていてこそ実る

詩篇の著者は、「全能者の陰に宿る。」(詩篇91:1b)ようにとどまりなさいと言っています。イエスも「人がわたしにとどまり……」(ヨハネ15:5)と、とどまるように言われました。どちらも、とどまる場所は人物であると言っています。イエスがこのことを言われたとき、詩篇91篇が弟子たちの心に思い浮かんだことでしょう。もしイエスが詩篇91篇を引用しておられたのなら、イエスは弟子たちにご自身が全能者であるということを伝えたのではないでしょうか。

詩篇の著者は、私たちが隠れ場の「下に(陰に)」とどまると言いました。ところがイエスは、私たちが主の「中に(内に)」とどまると言われました。「わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」(ヨハネ14:20新共同訳)

私はこの聖句を読んだとき、ロシアのバブーシュカ(三角巾のスカーフ)の入れ子の人形を思い浮かべました。その隠れ場とはどのくらい安全な場所なのでしょうか。当然その隠れ場とは、地下室や防空壕ではなく、原子爆弾にも耐え得る政府機関の地下深くにある燃料倉庫、あるいはコンクリートか鋼鉄で幾重にも補強され、要塞化された特殊な部屋に似ているかもしれません。もちろん神がとどまられる場所はさらに安全で、そこには盗み、殺戮、破壊を試みるどのような「盗人」も(自然であれ超自然であれ)決して入ることはできません。(ヨハネ10:10

しかし敵は私たちをだまそうとして、そのような安全な場所などないとうそをつきます。敵は狙いを定めて恐怖や不信の矢を投げつけてきます。困難な時代に、私たちは敵の欺きに反撃し、その代わり隠れた避難所で休息を取ることを選択する必要があります。主ご自身の中にこそ、私たちが住む場所があります。単に時おり訪問するだけの場所ではありません。そこに住むには、私たちがその隠れ場を常に意識していなければいけません。私たちは主と共に「天の王座」(エペソ2:6 新共同訳)に定住しています。私たちはみことばを読めば読むほど、神を礼拝し天上のことを黙想します。そして秘かに住む隠れ場に気付けば気付くほど、私たちの人生は、モーセ、ダビデ、エリヤ、パウロ、そして主イエスの人生の内に見られるすべての素晴らしい特性を現していきます。

私たちは招待されています

主の前に静まるとき、この特別な場所の存在に気付かされます。そこに神は私たちを招待してくださいます。「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」(詩篇46:10口語訳)主はモーセに「わたしのところに上り」(出エジ24:12)と言われました。ソロモンの雅歌で私たちの花婿は言っています。
「わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。」(雅歌2:10)。花嫁は答えます。
「私を引き寄せてください。私たちはあなたのあとから急いでまいります。王は私を奥の間に連れて行かれました。」(雅歌1:4a)。雅歌のこのみことばは、私たちと共に親密な時間をもつための神の情熱的な愛の願望を描写しています。この隠れ場(秘密の場所)は私たちの住む家、そして実在する場所として、主と共に過ごす静かな時間の流れの中で理解することができます。

〈参考図書〉

  • International Standard Bible Encyclopaedia; 1996
  • Stephens, William H. Elijah; 1976
  • Yerushalmi, Shmuel. The Torah Anthology: The Book of Tehillim IV;1991

すべての聖書は新改訳聖書から引用、そうでない場合は明記しました。

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