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イエスと熱心党 Part-2

BFP編集部 2002年3月

先月のパート1では、ローマによるイスラエル征服初期からイエス時代までの、『熱心党』の歴史をたどりました。熱心党は、ローマ帝国、およびその文化に同化しようとするユダヤ人と戦った、イスラエルの政治運動の一つでした。彼らには、前向きな見解と動機がありましたが、その行動には大きな欠陥がありました。物事を自分たちの手でコントロールしようとするあまり、しばしば暴力的手段に訴え、強制的に、自らの政治的・宗教的信念を達成しようとしたのです。

イエスの弟子・シモンは、召し出される前は熱心党員でした。他の弟子たちもおそらく、熱心党の影響を色濃く受けていたことでしょう。しかし、イエスの教えの多くは、熱心党の教えとは正反対のものでした。イエスは当時一般的とされていた、宗教的・政治的システムについて、幾多の教えを残されました。神の御心にかなった生き方を示すうえで、熱心党についても例外扱いはされませんでした。

熱心党には4つの基本的教義がありました。

  1. ローマはイスラエルの正統な占領者ではない。したがって税金は支払う必要がない。
  2. 神だけに仕えるべきである。
  3. 奴隷は人間に仕えることになるので、奴隷制度に断固反対する。
  4. 奴隷になるよりは、たとえ自殺でも死を選ぶべきである。

イエスは、「ご自分の王国がこの世のものではないこと。それゆえに地上では上に立てられた権威に従うべきこと。さらに、力を尽くして神を愛し、隣人を自分自身のように愛すること」を教え、これこそ私たちに与えられた至上の召しであるとはっきりおっしゃいました。また、「神のために生き、神の愛とその実践をとおして、主の王国を打ち立てていくべきであり、自分たちの意見を強制的に押し付けることは違う」とも教えられました。

イエス以降の熱心党

熱心党の信念とその攻撃的性質について知れば知るほど、ローマの占領下で苦しむイスラエルの社会に、彼らがどのような影響を与えたかを理解することができます。彼らは最終的に、紀元66〜70年の『第1次ユダヤ反乱』へと進んでいきました。

イエスの時代から、その活動が終焉を迎えるまでの間、ガリラヤとユダ周辺の熱心党運動に何が起こったかを知ることは、使徒行伝とパウロ書簡が書かれた時代背景を理解する助けになります。

ユダヤ人はローマの支配にいらだち続けていました。エルサレムには『アントニア要塞』と呼ばれるローマ軍の駐屯地がありました。イエスはそこでポンテオ・ピラトによる取調べを受けられました。この要塞は、神殿の北壁に接する威圧的な建物でした。その塔は神殿よりも高く、宗教熱心なユダヤ教徒にしてみれば、聖所の眺めを台無しにしている、とんでもない代物でした。祝祭の時期になると、毎回イスラエル中からエルサレムに上って来た巡礼者たちが、オリーブ山上から神殿の壮麗な姿を眺めました。同時に、ローマ軍の駐屯基地が、まるで巨大なげんこつのように神殿よりも高く突き出ているのも目に入ったことでしょう。

神殿を見下ろす、古代ローマ軍の
「アントニア要塞」。

エジプトにおける奴隷の身から解放され、自由を与えられたことを記念して祝う『過越の祭り』の期間中、国中のユダヤ人がエルサレムヘ上ってきました。ところが現実は、周りにはローマ兵がうじゃうじゃいて、あれこれ指図してくるような状況で、とても「自由」など実感できませんでした。事実、「こうした祭りの期間中、ユダヤ人による反乱に備えて、神殿の北と西の回廊にあったすべての柱にローマ兵が配備されていた」と、歴史家ヨセフスは記録しています。

紀元66年に、メナヘムという熱心党のリーダーの1人が、エルサレムからローマの守備隊を追い出しました。そして、ユダヤ最高議会は熱心党の中から指揮官を任命し、戦争に備えるためにイスラエル各地へ送りました。ガリラヤ地方に派遣された指揮官の1人が、のちに歴史家としてユダヤ民族の戦争と歴史を記すことになった、前述のヨセフスです。彼は赴任地としてガリラヤのカナを選びました。なぜならそこは、すべてのガリラヤ人にとって、ローマヘの抵抗運動の中心地だったからです。

ガリラヤでの反乱

紀元67年、ローマのヴェスパシアヌス将軍が、反乱を食い止めようと進軍してきたとき、カナの町近くで大きな戦いがありました。ヴェスパシアヌスは、カナからさらにタボール山へ、次にマグダラの町へと進軍していきました。先月号のパート1を思い出してください。マグダラのちょうど後ろには、熱心党の司令部があるアルベル山がそびえていました。そこから多くの熱心党員が、世俗的な町であるマグダラヘ降りて行って、自分たちの支持者を増やし、住民たちを宗教熱心な人々へと変えていきました。もともとマグダラには、ローマ支配に順応している、ヘレニズム文化の影響を受けたユダヤ人が住んでいました。彼らは、戦争が始まると家に鍵をかけて閉じこもりました。それでもローマ軍は、アルベル山の要塞から来た人々と戦うため進軍してきました。ガリラヤ湖畔では激戦が繰り広げられました。このとき、この地域にはヘレニズム化された、ローマに抵抗しなかった5000人ものユダヤ人がいました。しかし、彼らでさえ、ローマ兵に追い立てられてティベリアの競技場まで行進させられ、奴隷として売り飛ばされる運命をたどることになりました。

ガリラヤ湖周辺のほとんどの町に、熱心党員が住んだ洞穴や険しい峡谷が今もあります。ハスモニア王朝時代からヘロデ王時代にかけて(紀元前1世紀)、これらの町々には、争いが起きたとき逃げられるよう、避難場所を持つならわしがあったようです。

紀元67年、ローマ軍がゴラン高原のガムラ(ガリラヤ湖東岸)へ進駐し、熱心党員に対する1カ月にも及ぶ激しい包囲攻撃を繰り広げました。このとき、5000人ものユダヤ人が、“ローマに屈するよりは死を選ぶ”と、周りの峡谷で飛び降り自殺をしました。これは、この数年後に起こるマサダでの最終決戦で、集団自決を遂げた人々の5倍の人数にあたります。そのため、ガムラは別名「北のマサダ」と呼ばれました。

ガムラの古代の家々。

ガムラには興味深い側面があります。ローマの騎馬軍が町へ突撃したときのことです。あまりにも急な斜面に町が建てられていたために、騎馬兵が猛然と進撃していくと、段々に隣り合って建てられていた家並みが、折り重なるように崩れました。ガムラは以後1度も再建されなかったので、この67年の戦いが終わった当時のままに遺跡が残りました。そのため、考古学者がすばらしい発掘成果を上げています。

エルサレム陥落

ガムラで生き残ったガリラヤの熱心党員たちは、ユダヤとエルサレムヘ逃亡しました。しかし、エルサレムの熱心党には内輪もめをしている派閥が多くあり、エルサレムではユダヤ人同士が互いに戦って殺し合いをしました。ちょうどレバノンで起こった内戦のように、それぞれの分隊に反目しあう指揮官がいて戦い合ったのです。

神殿の丘南西部隅より発見された
ヘブライ語の碑文。
「トランペット吹きの場所に属する」とある。

ガリラヤの一地方、ガシュ・ハラヴ出身の指揮官ヨハネは、エルサレムの神殿の中庭の一角にある、ラッパを吹奏する地点に自分の指令室を置きました。神殿の丘の南西角周辺を発掘したとき、考古学者はすばらしいものを発見しました。それは「トランペットを吹奏するための場所」というヘブル文字が刻まれた横長の大きな石でした。つまり、祭司がエルサレムの市中に向かってトランペットを吹き鳴らし、また熱心党指揮官の1人が指令所を置いた、ちょうどその地点を発見したのです。そこはエルサレムで最も高い地点で、指揮官が部下たちを指揮するのに大変適した場所でした。

紀元70年、アヴ(8月)の月の9日、ローマ軍はついにエルサレムを制圧し、神殿に火を放ちました。

石の建造物をどうやって焼くことができたのでしょうか。神殿は水分を含んだエルサレム・ストーンという石灰岩でできていました。破壊するには、ただ神殿の周りに可燃物を持ってきて火を放てばよかったのです。中に含まれる水分が水蒸気になって膨張し、石が爆発するからです。ヨセフスは神殿が燃やされたときの爆音について記しています。さく裂した石の破片によって多くの人々が殺されました。神殿の頭頂部には、ボウリング球大の黄金製のブドウの房が飾られていましたが、熱で溶けて神殿の礎石の割れ目に流れ込みました。

ヘロデ大王によって建てられた神殿は、
彫刻を施した石灰岩と黄金の装飾で
覆われていた。

結果として神殿は、入り口の敷石や中庭を囲んでいた柱廊の一部など、人工物以外跡形もなく破壊されました。今日あるイスラム教の「岩のドーム」の中には、当時の礎石が残っています。しかしイエスが「石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」(マルコ13:2)と言われたことが、文字どおり成就したのです。これは、ローマ人が敷石の間に溶け込んだ黄金を残らず引きはがして回収するために、徹底的に破壊したせいでもあります。ヨセフスは「紀元70年に黄金と奴隷の値段が底値まで下落した」と記しています。奴隷も黄金も、あふれんばかりの数で満ちていたからです。

エルサレムの神殿破壊を祝うために建てられたローマのティトス凱旋門には、神殿から器物を持ち出すローマ兵の姿が刻まれました。

神殿の家具を運び去るローマ人たち
(ローマ・ティトスの凱旋門より)

また、ローマによってユダヤ人国家主義を倒したことを示す、『ユデア・キャプタ(虜となったユダ)』と書かれた記念コインが発行されました。この記念コインには、何の図柄が描かれていたと思いますか。その中央には棕櫚の木(ユダヤ国家主義の象徴)が、一方に棕櫚に背中を当てて頭をうなだれている女性(敗北したユダヤ人とユダヤ国家)が、その反対側には力と勝利を誇示してひときわ大きく立つローマ兵が描かれていました。

マサダ-最後の戦い

「ユデア・キャプタ」と記された、紀元70年鋳造の
ローマのコインとマサダの熱心党員が
使った皮製サンダル。

神殿崩壊後、少数の熱心党員が、エルサレムと死海の間にあるユダの荒野の洞窟や峡谷へ逃げ込みました。考古学者たちはそれらの洞窟を発掘して、彼らが持ち込んだ武器、かごやサンダル、宗教的器物やたくさんの巻物、書簡などを見つけました。ユダの荒野は大変乾燥しているので、これらの遺物は非常に良い状態で保存されていました。南北に長いユダの荒野の東側は、数百メートル低い死海へと落ち込む深い絶壁となっていて、その崖にはたくさんの洞窟があり、熱心党員はそこへ逃げ込みました。反乱が続く間、ローマ兵はこの崖の頂上からロープで兵隊を入れたかごを吊り下げ、洞穴に向って火矢を射掛けました。ローマ人はユダヤ人が独立しようとする企てに、最終決着をつけようとしていました。

最後の決戦はマサダで戦われました。マサダはヘブライ語で「とりで」あるいは「要塞」という意味があります。死海沿岸に立つ、平らな頂上を持つこの天然の岩山には、ヘロデ大王が緊急事態に備えて建てた「要塞宮殿」がありました。エルサレムから避難してきた熱心党員がここを占拠し、ヘロデが蓄えた物資をそのまま使って立てこもりました。

マサダの台地とローマ軍が作った攻撃用斜堤。

また、エルサレム陥落後、エジプトヘ逃げた熱心党員もいました。彼らはそこでエジプト在住のユダヤ人たちに反乱を持ちかけましたが失敗しました。彼らは逮捕され、拷問にかけられて、ローマ皇帝を主と認めるよう迫られました。ヨセフスは『ユダヤ戦記』の中で、彼らが驚くべき我慢強さで堪え忍び、イスラエルの主なる神を誉めたたえて死んでいったと証言しています。

紀元73年、熱心党は事実上壊滅しましたが、後の紀元132〜135年の第2次ユダヤ人反乱(バル・コホバの乱)へと、その精神は脈々と受け継がれていきました。

私たちとの関係

熱心党に対するイエスの態度はどのようなものだったでしょう。当時、大衆に広く行き渡っていたこのグループの思想について、なぜもっと明らかに触れられた箇所がないのでしょうか。

ナザレの会堂における公開説教では、イザヤが『ヨベルの年』を宣言している聖書箇所がまず開かれました。ヨベルの年には、いったい何が起こるのでしょうか。この年、すべての奴隷に自由が与えられました。イエスは、この会堂において預言者として語られました。「目の見えない人に光が与えられ、足の悪い人は歩けるようになり、束縛されている人は解放されるだろう」と言われました。もしこの「自由」「解放」という預言的ビジョンが、熱心党員が求めていたものと同じであったなら、なぜイエスは熱心党をもっと支持されなかったのでしょう。

「イスラエル解放の4年目」と
記された、紀元70年に鋳造
された熱心党のコイン。

肉の力に頼り、暴力でその思想を強制的に押し付ける熱心党のやり方を、イエスが認めていなかったことは明らかです。これはイエスのメッセージと正反対のものでした。パート1でも述べましたように、イエスはご自分の王国がこの世のものではないこと、だから私たちは地上の権威には従うべきであることを教えられました。そして、神を全力で愛し、隣人を自分自身のように愛することが、私たちに与えられている最も重要な使命であると、はっきり教えておられます。神のために生き、愛をとおして主の王国を打ち立てていくことこそ、イエスの示された道です。それは、自分たちの考えを強引に押し付けることではありません。パート1をお読みになれば、イエスは熱心党の主義主張とは対照的な生き方を示されたことがわかります。例えば「カイザルのものはカイザルに」と税金を支払うことを教えられました。

悲しいことに、熱心党員はこのメッセージをしっかりと受け取ることができず、イエスが去られた後も考えを変えようとはしませんでした。彼らのローマヘの抵抗運動は、暴力と憎しみに動機付けられていました。だからこそ、彼らがエルサレムを掌握したとき、同胞の殺し合いに走ることになったのです。事実、彼らがエルサレムを抑えて最初にしたことは、ヘロデに任命された大祭司たちとその家族全員、そして神殿のサドカイ派祭司たちを皆殺しにすることでした。また、債務不履行の罪で監獄に捕われていた囚人たちを解放し、借金の記録をすべて火で焼き払いました。

紀元70年のエルサレム破壊時
に亡くなった人の腕の骨。

貧しい人々は皆、すぐさま熱心党の側につきました。しかしローマがイスラエルをあきらめるはずがありませんでした。紀元67年から70年にかけて、ローマでは皇帝が3度変わる政変があったため、帝国が混乱していました。この間、ユダヤ人が同士討ちする姿を横目で見ながら、ローマ軍は機会をうかがっていました。「同士討ちに終止符を打つために、神はローマ軍にエルサレムを破壊させたのだ」と、あるラビが言ったほど、当時の熱心党内の仲間割れはひどいものでした。

「憎しみ」対「愛」

熱心党員はローマを盲目的に憎みました。彼らは、戦う相手は知っていましたが、「何のために戦うのか」ということを見失っていました。反乱と革命は異なるものです。こういう言葉があります。「獣を倒すために自分が獣になるなら、獣の勝利だ。」憎しみをもって憎い敵を倒しても、最終的に残るのは憎しみだけです。

今日のパレスチナによるイスラエルヘのインティファーダ(武装蜂起)にも、同じ部分があります。パレスチナ系アラブ人は、自分たちが戦っている相手が誰かを知っていますが、それが何のためであるのか見失っています。パレスチナ陣営にも、憎しみ、汚職、党派心、派閥根性、そして狂信主義があり、グループの権力闘争が後を絶ちません。結局は、イスラエル、パレスチナ双方の誰もが傷ついています。

一方アメリカにも、あまりにも強硬に堕胎に反対するあまり、人工中絶をする病院の看板を壊し、「医者の殺害さえ辞さない」というグループがあります。熱心党と同じく、彼らが堕胎に反対すること自体は正しいのですが、イエスは、堕胎にかかわる病院の破壊や医師を殺害することには、断固として反対されるでしょう。愛ではなく、憎しみによって動機付けられた行動は、主の教えに反することです。棕櫚の日曜日に、イエスはエルサレムを見て、預言者の言葉を引用されました。「わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。(マタイ23:37)またルカ伝21章24節ではこう言われています。「エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。」イエスはやがて来る戦争を思い、泣き悲しんでいたのです。

エルサレムの発掘で、紀元70年当時の陶器や、「イスラエル回復の第4年」と書かれた熱心党のコインが発掘されています。熱心党は反乱が始まった紀元66年から、これらのコインの鋳造を始めました。エルサレムで発見された最後のコインは、回復4年目の紀元70年のものでした。ある家の遺跡からは、壁に立てかけられた槍と、ローマとの戦いで切断された人間の腕が、戸口の床上に発見されました。

神の王国の実現

「王国」という言葉は、聖書でも特に重要な概念で、その意味を正しく理解することが大切です。肉による努力は、たいてい力や富、支配力を増し加えることに焦点が置かれています。イエスの王国は、「救済と解放」を、心と魂というより深いレベルにおいて働かせる、天の王国に焦点が置かれたものです。イエスの革命は、人の内側から始まります。それは、現実世界に、神の愛を内側から現していくことです。イエスが「私の国はこの世のものではありません。」(ヨハネ18:36)と言ったことを思い出してください。

熱心党員が待ち望んでいた「救世主による救済の思想」が浸透していた弟子たちにとって、イエスの言葉を理解するのは難しいことでした。弟子たちは、政治意識が非常に高く、彼らをローマから解放してくれる王を求める風潮が強かった、ガリラヤ湖周辺に住んでいました。ガリラヤ湖畔で五千人の人々を養ったときのことについて、ヨハネはこう書いています。「そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。」(ヨハネ6:15)。それはちょうど過越祭の時期で、群集はその祭日にまつわる「私たちは以前は奴隷であったが、今は自由にされた」というテーマを思い出していました。

群集は最後まで、自分たちの王国とそれを治める王を求めていました。また玉座を、軍隊を、そしてなによりもイスラエルからローマ人がいなくなることを求めていました。最後の最後まで、彼らはイエスが政治的・軍事王国を打ち立てることを期待していたのです。

最後の晩餐が終わった後、イエスが特に目をかけられた弟子・ペテロでさえも、ゲッセマネの園で自分の剣を抜いてローマ兵に立ち向かいました。彼は大祭司のしもべの耳を切り落とし、イエスに「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」(マタイ26・52)と叱責されました。それから、ご自分は熱心党のリーダーたちのようでないことを示すために、イエスは彼を捕らえに武装して来た人々に向かって言われました。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしをつかまえに来たのですか。わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕えなかったのです。」(マタイ26:55)

ゲッセマネの園でユダの裏切りにあったイエスが、
大司祭の手先に対して剣を抜いたペテロを
押し留めた。

後に、復活されたイエスに向かって弟子たちが最初に尋ねたことは何だったでしょうか。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」(使徒1:6)でした。いったい、イエスの王国はどこにあるのでしょう。

間違いなく、イエスはやがて王として来られるお方、メシアであり解放者です。しかし、主は最初に来られたときは十字架に掛かられることで、世の贖いと救いのために、人間の心の中に、神の王国を導き入れるようにされました。イエスは苦しみを抱えられたメシアでした。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1:29)。主が再び戻って来られるときには、シオンから全世界を治めるために、地上のエルサレムに玉座を据えられるでしょう。

私たちは今、神の王国について、またイエスがこの世の政府や政治を超越した、霊的な救いと解放をもたらすために来られた意味について、完全に理解する努力をしましょう。

私たちをとおして、多くの必要を抱える世界に、救い、赦し、愛、義、あわれみという神のご性質を現せるように、まず私たち自身の内側から、霊的な革命を求めましょう。私たちは神の王国に対して熱心になり、神の武具で完全武装しようではありませんか(エペソ6:10-18)。それが世界の人々を変えるのです。

エルサレムよりシャローム

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