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ティーチングレター

素晴らしい神の愛とあわれみ

文:シェリル・ハウアー(BFP国際副会長)

聖書は赤裸々な書物です。人間の失敗も包み隠さず記されています。
私たちは、そうした失敗を裁きの視点で読みがちですが、
聖書のポイントは異なります。
神のあわれみがどれほど偉大かを学び、励ましを受け取ってまいりましょう。

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聖書は特別な書物です。人間の言葉や考えを寄せ集めた「ただの本」ではありません。万物の創造主の生けることばに満ちた「唯一無二の本」です。私はクリスチャンになった当初、聖書を読み続けました。どれだけ読んでも、吸収しても、決して飽きませんでした。聖書の表紙に触れるたびに命を与えるエネルギーが感じられ、聖書を抱えているだけで満足でした。

聖書は神の約束の宝庫です。宇宙を形づくられた神の数え切れない本性(ほんせい)を明らかにしています。私は、すべての約束が実現することを全く疑いませんでした。神の御業について読めば読むほど、神がどのような方であるかをより深く理解しました。ハーバード・ロッキャー著『AllthePromisesoftheBible』(聖書のすべての約束)によると、聖書には8千以上の約束が含まれています。人間同士の約束、人間が神に誓った約束もありますが、7千以上の約束は神が人と結んだものです。大半はイスラエルと直接関係しています。

聖書には神ご自身の最も深い啓示がある

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私たちは、神の数々の約束が諸国の面前で実現する驚くべき時代に生きています。にもかかわらず教会の歴史では、神とイスラエルとの関係や、神が古代に語られた約束は現代でも有効なのかについて論争が絶えません。このような混乱が起こるのは、何を読んでいるかを忘れているからでしょう。自分が読んでいる聖書が神ご自身の最も深い啓示だという事実を見逃しているのです。聖書の一言一句は、私たちを情熱的に愛しておられる神の本性と本質を理解させるためにあります。

幾つか例を挙げてみましょう。マタイの福音書19章16〜26節、マルコの福音書10章17〜27節、ルカの福音書18章18〜27節には、イエスの元に来て「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか」と尋ねた金持ちの若者の話が載っています。イエスの答えは「戒めを守りなさい」という単純なものでした。若者は「私はそれらすべてを守ってきました」と応答し、明らかにそれ以上の答えを求めています。

イエスは若者を正したり責めたりせず、次のステップを説明されました。「あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。……そのうえで、わたしに従って来なさい」(マタ19:21)。福音書には、この若者が悲しみながら立ち去ったとあります。

ここでこの箇所を表面的に読んでしまうと、世の富に執着し救いから遠ざかった愚かな若者への非難に発展していきます。しかし、本来はそういう意味ではありません。続く箇所で、イエスは裕福な者を責めたり、この若者を非難したりしていないからです。「金持ちが天の御国に入るのは難しい」と語るイエスの声には、あわれみが感じられます。この例えは、素晴らしい神の愛とあわれみについて語っているのです。私自身は、御国の栄光に入った時、この若者と顔と顔とを合わせて会うことになると信じています!

同じことはマタイの福音書20章1〜16節の日雇い人の例え話についても言えます。ある者は夜明け、ある者は昼過ぎ、ある者は終業間近に働き始めましたが、全員が同じ賃金を受け取りました。この箇所を読む時、「何が公正か」が焦点となり、「何と不公平だ。就業規則はどうなっているのだ?」といった議論になりがちです。しかし、このメッセージの核心は公正さにはありません。素晴らしい神の愛とあわれみについて語っているのです。

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放蕩息子のたとえも同様です。若者は、まだ遺産を受け取る時期ではないのに相続財産を求めました。父親は、息子が浪費することを重々承知していたにもかかわらず、遺産を手放します。息子の罪深い決断を読むにつけ、私たちは若さゆえの愚かさに舌打ちし、豚小屋に行き着くのは当然だと考えてしまいます。

しかし、父親は毎日目を凝らしては息子の帰りを待ちわびていました。ついに遠くからやって来る息子の姿を見つけた時は、父は走り寄り、悪臭を放つ泥だらけの息子の体を抱き締め、汚れた頬に口づけし、祝福を受けるに値しない息子に想像し得る限りの祝福を注ぎました。この物語も息子の話ではありません。父の愛とあわれみの物語なのです。

理解を超えた神のあわれみ

残念なことにクリスチャンはほぼ2千年間、タナハ(旧約聖書)の預言書を読む時に同じ間違いを犯してきました。預言者たちが語った時代はいずれもイスラエルの暗黒時代です。選びの民が非常に悪い決断を下し、父祖の神に背を向けた時代でした。預言者は、民が不敬虔(ふけいけん)な行いを続けるなら明確な結末が訪れるという痛ましい告発をしました。しかし、いずれの預言にも恵みの片鱗が見られます。悪い選択から立ち返って主に叫ぶよう奨励し、身に余る赦しと回復の約束を語っています。

ところが、クリスチャンは何百年にもわたり、このみことばはイスラエルへの有罪宣告だととらえてきました。しかし、それが聖書の言いたいポイントではありません。神は、イスラエルがどれほど悪かったかを取り上げたかったのではなく、神がどれほど良い方かを伝えたかったのです。神のはかり知れないあわれみを明らかにするために、イスラエルの罪深さに言及しました。2千年もの間、多くのクリスチャンたちは、素晴らしい神のあわれみというメッセージの核心を見落としてきたのです。このことが、2千年近くも反ユダヤ主義を強化する結果につながりました。何と悲しいことでしょう。

光vs闇

起きよ。輝け。まことに、あなたの光が来る。主の栄光があなたの上に輝く。見よ、闇が地をおおっている。暗黒が諸国の民を。しかし、あなたの上には主が輝き、主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたの光のうちを歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む」(イザ60:1〜3

光と闇は聖書では一般的なテーマです。暗黒時代の中でも神の誠実さは変わらないことを思い起こさせます。例えば、預言者イザヤは「死の陰の地に住んでいた者たち」(イザ9:2)に光をもたらすメシアの来臨について語りました。福音書においてイエスは、ご自身を「世の光」(ヨハ8:12)と表現され、弟子たちも「世の光」(マタ5:14)と呼ばれました。神はさまざまな箇所で、イスラエルという国の召しは諸国に対する光になることだと思い起こさせています。

出エジプトの時代をイスラエルの不忠実な時代と考える人は多いでしょう。一方、神がご自身の民と信じられないほど親密だった時代として思い起こす人もいます。預言者イザヤが語った60章のことばを聞いた民は、シナイ山から神の栄光の光が輝き、そのまばゆさのためにモーセが顔に覆いを掛けざるを得なかった出エジプト時代を思い起こしたことでしょう。民は、モーセのような信じられないほどの神との出会いを、イスラエル全体で再び経験することを願ったかもしれません。

イザヤや旧約聖書の預言者によると、光は神の臨在を表しています。神の臨在によって解放と祝福、正義と平和がもたらされます。民自身が光を持っていないことは明確です。神こそ太陽のように民の上に昇る光です。時にクリスチャンはメッセージを読み違え、自分の頑張りによって暗闇を打ち負かし、服従させる時が来たと考えます。しかし、神が語っておられることはそうではありません。神ご自身が光なのです。その臨在の中で闇は存在できません。その神の民として私たちは神を映し出す者となります。

光は闇を押しのける

民が正しく振る舞い、差し迫る厄災のない平和な時代に、神が預言者を遣わすことはめったにありません。預言者が語る時は、国家が闇に取り囲まれた、あるいは取り囲まれようとしている時です。闇の中にいることは恐怖です。混乱や恐れ、無秩序や破壊、動乱、分断、荒廃のさなかにいることを意味します。暗闇の中にいる諸国は、イスラエルやイスラエルの光に引き寄せられるだろうと神は語られました。

イスラエルの歴史においても幾度となく暗闇の時代がありました。ローマ帝国による占領時代もそうです。迫害と数え切れないほどの十字架刑が執行され、動乱と無秩序の時代でした。しかし、そのような闇の時代に、私たちの救い主がお生まれになったのです。神は、歴史の中で繰り返し御業をなし、語ってこられました。「これがわたしだ。わたしは闇を押しのける光である。わたしはあなたの嵐の中の凪である。どのような状況下でも、わたしはあなたを守る盾である」

私たちは預言者イザヤが警告したような時代に生きています。闇が地を覆い、暗闇(ヘブライ語では「徹底的な暗黒」と呼ばれる)が諸国の民を覆っています。暴力、分断、恐れ、混乱の時代であり、善が悪と呼ばれ、悪が善と呼ばれる時代です。自由が侵され、政府は健康と安全の名の下に支配しようとしています。ユダヤ教徒もクリスチャンも神の民はますます抑圧され、迫害されることもあります。最も憂慮することは、世界が悲惨な状況に直面していることを多くの人が認識していないことです。

私たちが受ける分は何でしょうか。民に対する神の愛、神のあがないと解放、神による救出と安全の祝福。これらに関する無数の美しいみことばは、直接イスラエルに語られたものです。しかし、イスラエルだけのものでしょうか。私たち自身の闇にも適用できないのでしょうか。私はできると考えます。

神は預言者イザヤを通して、イスラエルに次のようにも語られました。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」(イザ41:10)。神は「これがわたしだ」と語っておられます。だからこそ、闇に取り囲まれても「強くあれ。勇敢であれ。神の光を反射し続けよ。国々の光となれ」とイスラエルを励まされました。ぜひ忘れないでください。神がイスラエルに「あなたがたはこのようなものになる」と言われた時、実は「わたしはこのようなものである」と言っておられるのです。

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