ティーチングレター

恥からの解放

文:シェリル・ハウアー(BFP国際副会長)

生きていれば誰もが恥を覚える時があります。
私たちの主も十字架の恥を忍ばれました。
そのキリストを見上げつつ、恥から解放された生き方を学んでまいりましょう。

Photo by Fotorech/pixabay

私たちは多かれ少なかれ恥を経験しますが、その恥に生涯つきまとわれている人も少なくないようです。自らの人生を主に明け渡した者にとっても、恥が信仰をくじき、人間関係を壊し、人生を破滅させようと待ち構えています。恥が内面に深く食い込んでしまい、キリストにある自己像を理解できずにいる人もいます。神が語られた真の自己像を信じるよりも、「あなたは赦されない」という敵のうそによって生涯恥に縛られてしまうのです。

恥とは何か

辞書によると、恥とは「罪意識、欠点、不足を意識した時に起こる痛みを伴う感情」「屈辱的な不名誉や不評を被った状態」のことです。聖書で恥を表す言葉は少なくとも10種類あり、合計300回以上出てきます。多くは、神に従わず神の御名を侮辱した集団に降りかかる恥です。一方パウロは、民を罪悪感から解放し恥からきよめるため、イエスが痛みや屈辱、恥を気に留めなかったことを繰り返し読者に思い起こさせています。

恥と罪

聖書には、恥の類義語である罪悪感という言葉もよく出てきます。この2語は似ていますが、「罪悪感」にだまされて「恥」のわなにかからないよう違いを知っておきましょう。

罪悪感を意味する言葉は聖書に180回以上登場します。この概念を表す言葉は幾つかありますが、多くは漠然とした罪悪感と関連しています。罪の軽重にかかわらず、何か間違ったことをしたのではないかと腹の奥底で感じる感覚です。罪悪感を覚えるのが習慣になってしまうと、容易に恥辱感へと変わり悪影響を及ぼします。

しかし、恥と違って罪悪感には対処できます。罪悪感は、私たちが神の戒めに背いて取った行動を教えてくれます。パウロはこの罪悪感を「神のみこころに添って悲しむこと」(Ⅱコリ7:11)と呼びました。悪いことをしてしまっても、悔い改めるなら解放されます。罪悪感に正しく対処するならクリスチャンは強められるのです。

その一方、恥には解放がありません。恥は、罪を示すのではなく罪に定めるのです。私たちが何か悪いことをしたと告げるのではなく、私たちは悪者だと訴えるのが恥です。罪悪感によって悔い改めに導かれた結果、解放されて主の喜びを味わい、主の愛と兄弟姉妹との交わりの素晴らしさを体験します。しかし恥は、私たちを閉じ込め、他の信者から切り離します。罪悪感は「私は悪いことをしました」と言わしめ、恥は「そうです。あなたは悪い人です。だから隠れなくてはなりません」と答えます。

初めに

アダムとエバは、比類ないほど美しい園で全き平穏のうちに暮らし、純潔で純真そのものでした。罪悪感も全くなく、悪の存在さえ知りませんでした。しかし2人はうそを信じ、神の命令に背きました。聖書には「ふたりの目は開かれ、自分たちが裸であることを知った」(創3:7)と書かれています。ヘブライ語で目を意味する「アイン」は、実際には精神的・霊的な能力を指します。「知る」と訳されたヘブライ語「ヤダ」は経験によって得た知識のことです。

神の命令に背いた瞬間、2人の純真さは打ち砕かれました。この壊滅的な衝撃の瞬間に2人は悪を体験し、恥を感じたのです。それは神に背いたからだけではなく、2人が見、聞き、体験したことのゆえでした。今や覆いは取り除かれ、裸の状態です。純真さと純潔さは後悔と恥に代わり、2人は身を隠しました。

神が「してはいけない」と語られたことを行ってしまう時、私たちの純真さと純潔さは失われ、後悔と恥に取って代わられます。そして身を隠してしまうようになります。

邪悪なねたみ

ヨセフは兄たちから憎まれました。創世記によると、それはヨセフが下から2番目だったにもかかわらず、父のお気に入りで家督を継ぐ候補者になっていたからです。ヨセフは父にもらった豪華な長服(本来、後継者である長子が着る服)を着て兄たちを付け回し、その行動を父に逐一報告していました。

ヨセフを取り除くチャンスが訪れた時、兄たちは我慢できずにその着物をはぎ取り、ヨセフを穴に投げ込み、最後には奴隷として売ってしまいました。さらに、引き裂いたヨセフの衣を血で汚し、「ヨセフは野獣に食い殺された」とヤコブに告げました。これほど父ヤコブを苦しめたものはなかったでしょう。何年もの間ヤコブは悲しみに暮れ、兄たちは罪悪感を抱き、いつしか恥を覚えるようになりました。

飢饉(ききん)に見舞われ、食料を買いにエジプトへ送られた兄たちは、そこでヨセフが元気に生きていることを知り、人生が激変します。ヨセフは兄たちを赦しました。しかし、兄たちは恥を拭えませんでした。赦されるはずがないと思い込み、ヨセフの赦しが本物であることが信じられなかったのです。

私たちは、怒りやねたみから誰かを傷つけるような言動をしてしまうことがあります。また、誰かにひどい苦痛を与えるような大きなうそをついてしまったことがあるかもしれません。その罪が示された時に悔い改めないなら、罪悪感を持ち続けることになります。それが恥に変わる時、私たちは隠れるのです。

御心にかなう人

神はダビデをご自分の心にかなう人と言われました。ダビデは最も偉大なイスラエルの王で、メシアの系図にその名が登場します。情熱的な指導者で戦士、詩人で音楽家、そして敬虔(けいけん)で誠実な人物でした。しかしある春の夕べ、美しいバテ・シェバが屋上で体を洗っているのを見た時、情欲にのみ込まれてしまいました。バテ・シェバへの思いは非常に激しく、彼女の夫を戦場で死なせたほどです。結果、ダビデは姦淫だけでなく殺人の罪も犯してしまいました。

ダビデが犯した罪の中で特に最悪なのが、目に余る権力の乱用です。人は、権力のせいで簡単に理性を失うことがあります。自分の下にいる人に対して虚栄心を張ったり、罵倒したりします。権力の乱用は神の御心ではありませんから、それを行った時に罪悪感を覚えます。一方、自分の上に立つ人から罵倒された相手は恥を感じ、身を隠してしまいます。

御翼の下で癒やされる

聖書に登場する長血を患う女性については、12年間患っていたこと以外はよく分かっていません(マタ9:20〜22、マル5:25〜34、ルカ8:43〜48)。神が古代イスラエルに課されたきよさの規定によると、出血のある女性は血が止まるまで他の人と接触できませんでした。つまり、女性は毎月出血が止まるまでの間、完全に隔離された後、共同体の生活に戻ることができたわけです。長血を患う女性は他の人を汚さないよう、たまに医者に会う以外は誰とも接触せず孤立していました。たった一人で過ごすことは恥意識へと変わったことでしょう。

この女性はイスラエルの賢者たちから、メシアが来られること、メシアの衣の裾に触れるだけで癒やされることを教わっていました。彼女は命を危険にさらしながら必死に、誰にも触れないように群衆の中を通り抜け、イエスに触れることができました。その瞬間、即座に癒やされ、解放されました!

しかし、イエスが「だれがわたしの衣にさわったのですか」と尋ねた時、羞恥(しゅうち)心が再び押し寄せてきました。彼女は恐れに震えながら、最悪の事態を覚悟してイエスの前にひれ伏します。そんな彼女をイエスは責めることなく、ただその恥をきよめ、喜びと感謝のうちに送り出しました。

時として自分が招いたわけではない状況によって恥ずかしい思いをすることがあります。これは敵にとってうそをつく最大のチャンスとなります。敵は、「あなたは不十分」「あなたは共同体に属すことはできない」と信じ込ませることを何よりも好みます。そんな状況の中で私たちは身を隠してしまうのです。

恥に力を与えるもの

恥の原因が何であれ、自分がしたこと、あるいはされたことによってのけ者にされていると感じたことがあるかもしれません。その最初の反応は隠れることです。自分の失敗や弱さが暴露されて人から再び拒絶されたくないのです。

Photo by アントニオ・チゼリ/wikimedia.org

クリスチャンとして、恥の力を打ち壊す最初のステップは、イエスの十字架が自分を完全な者とし、心の汚れを取り除き、自分がどのような存在かを示すという事実を受け入れることです。あなたはイエスのものです。イエスは憎まれ、殺そうとする者たちから追い回され、公衆の面前で恥をかかされ、つばをかけられ、殴られ、裸にされ、十字架にかけられました。これは最大の恥辱です。しかしイエスは、辱めをものともしませんでした。それはあなたへの愛のゆえです。もし隠れるのであればイエスを隠れ場としましょう。イエスに自分の傷を明らかにし、自分の恥を打ち明け、癒やしていただきましょう。

みことばを自分の守りとしてください。次のみことばを暗記しましょう。ヨハネの手紙第一1章9節、ミカ書7章19節、エペソ人への手紙5章25〜26節、ヘブル人への手紙4章15〜16節、イザヤ書50章7節です。敵があなたには価値がないと思い込ませようとするたびに、イエスの模範に従って神のみことばによって立ち向かいましょう。そして、敵が退散するまで何度もみことばを声に出して宣言しましょう。

悪いことをしてしまった時、罪悪感を覚えるのは正常なことです。すぐに悔い改め、赦されたと信じましょう。しかし、自分は悪い者だと感じたり、無価値で赦されることがないと感じたりする場合は、先程のみことばを取り出し、「それは間違いだ」と自分に語り掛けてみてください。

聖書には「東が西から遠く離れているように 主は 私たちのそむきの罪(と恥)を私たちから遠く離される」詩103:12)とあります。これは、神のとてつもない恵みと善良さのゆえです。この神の愛ほどの愛はなく、この神がお与えになるほどの赦し、きよめ、回復はありません。ですから、隠れずに表に出てきて自由への旅を始めましょう。旅の最初の一歩としてローマ人への手紙8章31〜39節を読んでみてください。

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