ティーチングレター

本当に見る -後編-

TEXT:テリー・メイソン(BFP国際開発副部長)

後編では、あらかじめ自分の持っている前提(価値観)や伝統にとらわれることなく、「本当に見る」ために、どのような教育(学び)が有益か、またその目的とは何なのか、ヘブル的な「学び」の在り方を通して見ていきます。

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ユダヤ人のルーツから学ぶ

私たちは、学びと教育を重要視するユダヤ人の模範から多くのことを学ぶことができます。ユダヤの文化では、勉強することは最も高度な形の礼拝だと考えられています。アブラハム・ヘッシェルは次のように語っています。「学びの神聖さに対して真の敬意を持つことで、学びとは苦行ではなく教化の行為であり、学校とは工場ではなく聖域であり、勉強とは礼拝の形であるという呼び掛けに気付くであろう。」(マービン・ウィルソン『私たちの父アブラハム』14章P444 以下ページ数のみ記載)

もう一つのユダヤ人の知恵の源泉、ピルケイ・アボット(タルムード中の倫理・格言集)では、「律法の学びを増やさない者は減らしているのだ」と言っています。自分の信仰の度合いを一定に保つことはできません。前進するか後退するかなのです。ラビ・ヨナは「いのちは成長するものだ。これ以上学ぶ必要がないと感じている人は霊的に死んでおり、いのちの賜物を無駄にしている」と言っています。私たちは成長し学ぶ必要性を強く感じているでしょうか。それとも霊的死の危険にさらされているのでしょうか?

ラビ文書では、学びのためのスケジュールを勤勉に守るよう強調しています。これはミツバ(戒律)であり、宗教的な義務でした。ラビたちは来たる審判を受ける時、最初に答えなければならない質問の一つに「あなたは学びの時間を守ったか」というものがあることを教えました。言わば「あなたはトーラーの学びに、日々決められた時間を取ったか」ということです(P433)。

それは家族から始まる

伝統的にユダヤ社会の学びの中心は家庭でした。神は「わたしが彼(アブラハム)を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行わせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである(創世18:19)」と言われました。神はアブラハムの子孫に同じ命令を与え、それは真剣に受け止められました。「私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。」(申命6:6-7)今日でもエルサレム近郊の路地を歩いている時、両親が子どもたちにみことばと神の道について話しているのを耳にすることがよくあります。

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この命令は非常に大切なので、神はこれより後にもう一度、申命記11章19節で繰り返しています。両親、特に父親は訓戒と模範の両方によって教えることが期待されています。箴言1章8節では「わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない」と戒めています。そしてこの戒めは、数章後の6章20節でほとんど全く同じ形で繰り返されています。両親は共に、神の原則に従って高潔で道徳的な人生を歩めるよう子どもたちを訓練する責任を、真摯(しんし)に受け止めなくてはならないのです。

タルムード(ユダヤの伝統と旧約聖書に関するラビの注解書)の賢者たちによると、割礼とピディオン・ハベン(長男のあがない)の後の父親の主な責任は、子にトーラーを教え、配偶者を見つけ、仕事を教えることでした。

共同体の取り組み

勉強と学びを高く評価することは、単に家族の責任ではありません。共同体にも同様に学びを推進することが期待されています。「あなたの家を賢人の集う場所とせよ。彼らの足下のちりの中に座り、彼らの言葉を、飢え渇きをもって飲みなさい。」(P428) 共同体はまた、教える人々に敬意を表することを勧められています。パウロも弟子のテモテに「よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのために骨折っている長老は特にそうです(Ⅰテモテ5:17)」と教えています。

教会がこうしたヘブライルーツから学ぶ意義についてマービン・ウィルソンは次のように言っています。「しかし教会はユダヤ共同体の学びに対する献身に学び、真剣に学習目標を掲げ、キリスト教教育に献身する必要があります。教会は多くの場合、日曜日に表面的に聖書をめくるだけで、学びに対して受け身で消極的に見受けられます。」(P429)

当時のイスラエルの指導的賢者ガマリエルの下で訓練された使徒パウロは、テモテに「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励み(学び)なさい(Ⅱテモテ2:15)」と励ましています。これに加えて使徒17章11節にはベレヤ人の例があります。「ここ(ベレヤ)のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。」ベレヤ人は、エルサレムから来たパウロが当時の指導的学者の下で訓練を受けたからというだけで、盲目的に彼の言葉を受けたのではありません。自分自身で熱心に学んだのです。

ヘブライルーツの教師、故ドワイト・プライアーはよく「学びは一生であり、人生は学びのためにある」と教えました。学びに終わりはないのです。

学びの目的は?

ここまで勉強と学びの必要性について学びました。ここからは、「なぜ学びが重要なのか、その目的は何なのか」について学んでいきましょう。答えは、ユダヤ機関の『教育者としての両親』という記事の中に要約されています。「教育の重要性は比類なきものである。聖書は幼児期から終生を通して、学びと精神的成長の大切さを明らかにしている。聖書的な観点による教育の目的は、聖書的価値を反映する人々を育成することである。」

ここから、教育の目的は「知ること」であり、知ったことを「行動すること」であることが分かります。信仰を持つためには、神が誰なのかを理解しなくてはなりません。そしてその信仰は行動を生み出すものなのです。「信仰」と最もよく訳されている言葉は、エムナーというヘブライ語ですが、これは普通「忠実さ」と訳されています。この言葉の語根はアマンという言葉で「信じる」とか「信頼する」という意味があります。聖書の中で「信仰(エムナー)」は「忠実さ」と同じなのです。エムナーには態度と行動の二つの側面があると言えます。その信頼する「態度」は信仰の部分です。しかし真の信仰を明らかにするのは神に従う「行動」なのです。

「ギリシャ人は理解するために学んだ。ヘブル人は神を崇め礼拝するために学んだ。」(P416) 「ギリシャ人にとって、知識は人徳への王道であり、知性によって良い人生への道が開けました。しかしヘブル人にとって、知恵は実践的なものであり、知的欲求をしのぐものでした。知恵は神が定めた善悪の基準に基づいており、これらの原則は日常生活と、良識のある人間関係の中で実践されなければなりませんでした。」(P404)

このようなヘブル的学びの目的が特に強調されている新約聖書の書巻は、ヤコブ書でしょう。「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい……。」(ヤコブ1:5-6)

「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。……ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。」(ヤコブ1:22-25)

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私たちの学びの究極の目的は、神をもっと知ることであり、あわれみ深く、正しく、道徳的正義であられる神の品性を、痛みに満ちた世界に現わすことでなくてはなりません。神を信頼し続け、神のみことばを学び続けましょう。神の助けによって自分の見るものを本当に知ったなら、その中を歩んでください。自分が「知っている」と考えているものを見るために学ぶのではなく、ヘッシェルの優れたアドバイスに従って、自分の見ているものが何であるかを知るために学んでください。

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