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必要なのは愛だけ -後編-

TEXT:シェリル・ハウアー(BFP国際開発部長)

今月はマルコ12章30、31節から、「知性」と「力」を尽くして神を愛すること、隣人を自分と同じように愛すること、さらに前後編を通して導き出される人生の指針を提示します。

知性を尽くして愛する

「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか(マルコ12:28)」と尋ねた律法学者に対し、イエスはシェマーを引用して答えました。それは、申命記6章に出てくるシェマーとは少し違います。マルコ12章30節でイエスは、「知性を尽くして主を愛せよ」という命令を付け加えたのです。ここで使われている「知性」に対するギリシャ語ディアノイアは、「深い考え」という意味で、知性の理解、想像、願望能力を指しています。しかし律法学者が33節でイエスの言葉を繰り返した時には別な単語「知恵」を使っています(ギリシャ語ではスネシス)。

このように言葉を言い換えたのを聞いていたイスラエル人のほとんどは、イエスが「知性」を付け加えたのは重複しているのではないかと思ったことでしょう。心を尽くして主を愛しなさいという命令によって、すでに同じことが言われていると思ったからです。

シェマーは申命記6章「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。
主はただひとりである」
および11章民数記15章の聖句からなる

しかし、このどちらの言葉もヘブライ語の同意語が無いことから、イエスが聴衆の中のギリシャ文化とギリシャ的考え方に強く影響を受けたユダヤ人に配慮していたことが考えられます。質問をした律法学者もその一人だったかもしれません。その時代の支配的な哲学的枠組みでは、心ではなく知性が人間の知的中心だと考えられていました。ギリシャ人は知性において論理的に考え、知識と情報を分析し、結論付けられると信じていました。イエスは、どんな世界観を持っているかにかかわらず、すべての聴衆にご自分の答えがどういう意味なのかを確実に理解してもらいたかったに違いありません。

力を尽くして愛する

申命記6章5節「力」と訳されているのは、メオドというヘブライ語です。「とても」という意味があり、修飾している言葉を最大限強調します。創世記7章18節には「(水は)地の上に大いに(メオド)増し」と書かれています。詩篇47篇10節では「神は大いに(メオド)あがめられる方」と言っています。メオドの副詞形は、聖書に約300回出てきます。

実は、この言葉の名詞形は聖書に2回しか出てきません。それは申命記6章5節Ⅱ列王記23章25節「(ヨシヤ王は)心を尽くし、精神を尽くし、力(メオド)を尽くしてモーセのすべての律法に従って、主に立ち返った」です。この名詞形は七十人訳聖書のギリシャ語では「力」、タルグム聖書のアラム語では「資産、良きもの」と訳されています。

しかし、多くのユダヤの賢人たちはこの二つの節の「メオド」は、「あらゆる手立て」と訳した方が良いと教えています。私たちのすべてをもって神を愛するという誓約は、肉体的なものにとどまらず私たちの持ち物すべてを含んでいるのです。体力や力は必ずしも肉体的なものだとは限りません。それは資産など、私たちが自由にすることのできるものも指しているのです。私たちのお金や持ち物、愛する人々や人間関係、共同体での立場や職業上の地位、私たちの道具や技術、娯楽、そして時間もすべて神に捧げなくてはなりません。差し控えるものが何一つあってはならないのです。

隣人を自分自身のように愛する

イエスの「隣人を自分自身のように愛しなさい」という命令が、1世紀のイスラエルに始まったのではないことを知って驚くクリスチャンはたくさんいます。イエスはいつものようにトーラーを引用されたのです。ユダヤ教の中心とも言えるこの命令が最初に出てくるのはレビ記19章18節で、「……あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である」と書かれています。イエスはこの節を最も大事な命令の一部として取り上げていますが、さらなる命令や詳しい説明を付け加えていません。この命令にどのように従うかを説明する必要はないと考え、ただ従うことの重要性を伝えたのです。

おそらくそれは、そのような命令がその前の節(レビ19:9-17)にはっきりと書かれていたからでしょう。まず「あなた自身のように」という言葉について考えてみましょう。ヘブライ語でこの文言は「〜と一致して」とか「〜と比較して」という意味があります。あなたは自分が食事を取るのと同じくらい、お腹をすかせた隣人が食事をできるかどうかに関心がありますか?あなたは自分を守るのと同じくらい隣人を守りたいと願っていますか?自分が暖かくて快適な時、または寒くて惨めな時、同じように隣人が暖かいかどうか、寒いかどうかについて思いを巡らしますか?古代のヘブル世界では愛の行動が重視されていたことを忘れないでください。これは単なる神学的質問ではなく、答えと行動を求める現実的な質問だったのです。どのような行動を取るかについては9節以降に明確に書かれています。

私たちは隣人を愛することができるように造られている

9節から10節では自分の収穫からすすんで貧しい人や在留異国人に与えるよう命令されています。11節では隣人に盗みや欺きを行ってはならないと命じられ、12節では神の御名によって誓わないように命じられています。また、隣人を虐げたり、強奪したり、だましたり、貧しい者を不当な賃金で食い物にしたり、障がい者を呪ったり、不正を犯したりしてはならないと命じられています。また、どんな時もすべての人を公平に扱って、中傷したり脅迫したりしないよう命じられています。そして最後に隣人を憎んだり、復讐したり、恨んだりしてはならないと命令されています。私たちは隣人を愛することができるように造られているのです。私たちが隣人をどのように愛しているかを見れば、神をどのように愛しているかが分かるのです。

ではどのように生きるのか?

率直に、裏表なく

心を完全に開きましょう。主を自分の人生の隅々にお迎えしましょう。神に何一つ隠さないと決心し、主が願っておられるように主を愛することを妨げているのが何であるか示してくださるように期待しましょう。神にすべてを明け渡さなくてはならないことを覚えましょう。家庭の中やパーティ会場での行動と教会での行動が違っていてはなりません。相手がどのような人であっても同じ態度で話しをし、神以外に見ている人がないとしても、すべての行動を通して神の本性を示さなくてはなりません。どのように時間やお金を使うか、どのような服を着るか、何を考え、何を求めるか、すべてのことが主の御名の栄光につながるのです。

感謝に満ちて

感謝には力があります。正しいものの見方を与え、思考を日常的なものから神へと引き上げます。私たちの口を神への愛の言葉で満たし、私たちの心を賛美と礼拝で満たします。従順を呼び起こし、勝利を与えます。感謝に満ちていないことは神を十分に愛していないことです。それは霊的死をもたらします。感謝しない態度の結果、嫉妬、苦々しさ、怒りが根を張ることがあります。その結果ひどい状態に陥るのです。たとえそれが最も喜ばしくない状況にあったとしても、自分に起こることすべてにおいて主に感謝するようにしましょう。神の御前でへりくだるなら、神が高く上げてくださるのです。

犠牲的に

自分の全存在をもって神を愛するためには、すべてを手放すことがあるかもしれません。本当に献身的に神を愛する時に、神が自分に何かしてくださるからではなく、神が神であるゆえに愛するということです。何か見返りがあるから愛しているとしたら、その愛は一時的なものです。その「何か」が無くなれば愛は無くなるからです。

従順になる

もし義務的に主に従っているなら、自分がしていることが明確で必要なものであったとしても、ぼんやりして行動の活力を失うかもしれません。主に対する務めは単にみことばに対する義務感ではなく、神への愛から生まれるものでなくてはならないのです。神が望まれることをしないで、神を愛していると言えるのでしょうか?そんなはずはありません。優しさや、親密さや、真の関心があるなら行動が生まれるのです。義務には愛は必要ありません。しかし愛には必ず義務が伴ってくるのです。神の御心を行い、それに基づいて行動することは神を心から愛することなのです。

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