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ティーチングレター

聖霊とイスラエル -後編-

TEXT:シェリル・ハウアー(BFP国際開発部長)

「聖霊」について、ユダヤ教の教えとキリスト教の教えにおける相違点を学びます。

預言者たちと聖霊

聖書の25%〜30%が本質として預言的であるという点で、ほとんどの学者は一致しています。預言のことばは、神に従い、油注ぎを受けて活動した人々によって語られました。イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエル、ヨエル、ミカは全員、主の御名によって語る力を聖霊によって与えられました。イザヤは、「主は私を、その御霊とともに遣わされた(イザヤ48:16)」、エゼキエルは「霊が私のうちにはいり(エゼ2:2)」、ミカは「私は、力と、主の霊と…に満ち(ミカ3:8)」と言っています。エリヤとその後継者エリシャもまた、常に聖霊の臨在の中を歩んだ人でした。エリヤの旅立ちに際してエリシャが願った唯一のことは、主人エリヤの上に留まっていた霊の「二つの分け前」が与えられることでした(Ⅱ列王2:9)。

聖霊の働き

前号では、タナハ(旧約聖書)の中で明らかにされた聖霊のさまざまな働きを見ました。これを新約聖書に書かれている聖霊の役割と比べると参考になります。

1.教え

ネヘミヤ9章20節では聖霊が人々を訓戒し、真理に導いたことが明らかにされています。旧約聖書にはこれ以外にも同様の聖句がたくさんあります。イエスご自身もヨハネ16章13節において、御霊が神の民をすべての真理に導き入れると語られました。

2.信仰

ガラテヤ5章の御霊の実と呼ばれる9つの品格の中に「信仰」が出てきます。これは「誠実」と訳されるほうがより適切な言葉です(日本語聖書では「誠実」と訳されている)。クリスチャンである私たちは、聖霊の臨在のゆえにこのような品格が信者の生活の中に現れると信じています。ヘブル書11章にはイスラエルの神に仕える生涯を送った「旧約時代」の聖徒たちが挙げられていますが、このような生涯は信仰があって初めて可能になります。

3.新生

レオン・ウッドは著書「旧約時代の聖霊」で、タナハの中で霊的刷新がどう理解されていたかについて論じています。イエスは「新生」することや「上から生まれる」ということについてしばしば語りました。これは間違いなく聖霊の働きです。しかし、イエスはニコデモと話をしていた時、「イスラエルの教師」でありながら、復活と新生について理解していないと言ってニコデモを非難しました。「どうしてイスラエルの教師でトーラーとタナハを教えている者が聖霊の新生の働きについて理解していないなどと言うことがあるのですか…」と尋ねたのです。

4.ルアハ

タナハで「霊」を表すために最もよく使われているヘブライ語が「ルアハ」です。これは「息」とか「風」という意味があります。「ルアハ」は、うるさく鼻から息をすることを指して使われます。出エジプト記で「ルアハ」は強い西風を説明する際に使われました。ギリシャ語のプニューマという言葉も全く同じように訳されることがあります。要約すれば、タナハの中に現されている主の御霊は、ペンテコステの日に初代の信者たちに現れた御霊と同じように、激しく力強いものなのです。

別の見解

もちろんキリスト教とユダヤ教には聖霊に対する見解の相違があります。キリスト教もユダヤ教も一神教ですが、キリスト教の土台である三位一体の神という考え方はユダヤ教にはありません。ですから、役割や能力が非常に似ているにもかかわらず、聖霊はユダヤ教の教えの中では神の位格とは考えられていないのです。タナハの中で聖霊は人格ではなく、働きの様式であり、神がご自分の御心を行う力を与えるためにご自分の民と関わる際の作用なのです。ラビによる注解書タルムードでは、「主の御霊」と「シャカイナ」ということばを取り替えても差し支えないことがよくあります。このシャカイナは主の臨在、主の栄光、主の力、主の働きを意味するものですが、神の別の位格ではありません。

聖霊について、もう一つキリスト教との顕著な相違は、聖霊の内住に関するものです。キリスト教では聖霊が信じる者の中に慰め主、教師、聖め主、救いの保証として永続的に住まわれると教えています。しかしタナハにおいて聖霊の内住はダビデやヨシュアのような人だけが体験できるまれに見る神の好意の印でした。通常聖霊は特別な職務のためや、一定の期間、力を与えるために人々の「上に臨む」ものだったのです。さらにキリスト教では聖霊は信じる者の中にだけ住まわれると考えますが、タナハにおいては邪悪でイスラエルの神に従っていない者の上にも聖霊が臨むことがあります。そのような人々は、聖霊の力によって神の御心が成就するために欠かすことのできない特定の役割を果たしました。

最後に、個人か全体かという相違もあります。ほとんどのクリスチャンは聖霊の働きを個人的なものと考えています。聖霊は信者個人に内住されます。教会はそのような信者の集まりです。一方タナハにおいて、聖霊は個人の上に臨むこともありましたが、焦点は神とイスラエル国家の関係に当てられています。

神の霊の力によってイスラエルの民は奇跡的に奴隷の家から解放され、エジプトから脱出し、父祖に約束された土地に向かいました。聖霊が人々に注がれた時、神の共同体に対する御心が成し遂げられました。預言者は悔い改めて主と正しい関係を持つよう民を戒めましたが、ほとんどの場合はイスラエル国家に対して責任を持つ人々に直接語りました。

これは預言者エゼキエルにおいて非常に明瞭です。36章でエゼキエルははっきりと、主に忠実になるよう励まし、聖霊の働きによって刷新される人々に新しい心を約束しています。エゼキエルは、これを共同体に対して語っているのです。しかしエゼキエルは民が悔い改めたので、あがないに値するとは言っていません。主は民のためにではなくご自分の御名のために民をあがなうと言っているのです。まず民が集められ、そして今度は個人の心に神が主権的に働かれるのです。続く37章でエゼキエルはイスラエルの乾いた骨々に語ります。多くの学者たちはこれがホロコーストによって踏みにじられた後のユダヤ民族であり、イスラエル国家を指していると信じています。エゼキエルは、神の御霊によって主が彼らの墓を開き、骨々を立ち上がらせ、肉をまとわせて再び命を与えると言っているのです。これはイスラエルの全家に対する約束です。そして39章で神は再びご自分の霊をイスラエルの家に注ぐと約束しておられます。このことによってすべての人が、主が神であることを知るようになるのです。

あがない、回復、再集結

あのペンテコステの日に、聖霊が力を持って来られ、教会が生まれました。エルサレムの通りは当時知られていた世界中の人々で満ちていました。人々は学の無い信者から、自分の土地の言葉で語り掛けられたことに驚きました。ペテロは聖霊の力によって通訳機の助けも借りずに、すべての人に理解できる説教ができたのです。そこでペテロはヨエル書の預言を引用しました。

「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」(ヨエル2:28-29)

ペテロの説教を聞いていた人々にとって、このみことばはなじみ深いものでした。このヨエル書の箇所の直前に、あがない、回復、再集結の素晴らしい約束が語られていることも頭に入っていたでしょう。それは神の民が自分の国に回復され、力強い神の聖霊に守られ、もはや国々の恥辱ではなくなり、二度と恥を見ることがなくなる時のことです。私たちは、今まさにそのような時代に生きています。神の約束されたイスラエル回復と再集結は進み続けています。何百万ものユダヤ人がさまざまな国々から祖国に帰還しており、イザヤ書49章22節に預言されているように、私たち異邦人はこの預言が成就する助けをする特権にあずかっています。

この時代、神はご自分の御霊をすべての人々に注いでおられ、力強い神の御霊が地上を吹き抜け、何百万もの人々がイスラエルの神を信じるようになっています。このような今の時代、私たち一人ひとりがしなくてはならない選択があります。それは、神のパートナーとなって驚くような神の御業に参加するのか、それとも自分個人の必要に焦点を当て続けるのか、という選択です。

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