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嘆きを喜びに変える -後編-

BFP編集部 2009年05月

前編では「死」と「嘆き」について聖書がどのように取り扱っているのかについて学びました。後編では聖書時代の埋葬の風習に着目し、このテーマについて神が何と言われているのかを理解してまいりましょう。

聖書の中にある埋葬の風習

ユダヤ人とクリスチャンは、死者の復活を信じているため、遺体の埋葬を大変重要視してきました。両者共、葬式を執り行うための組織を設立して、死者をきちんと埋葬しました。葬式の費用を捻出できない貧しい人々のためには、信仰と慈善の念から、代わって葬儀を執り行いました。また死後、一刻も早く遺体を埋葬することは決まりごととなっていました(申命21:22、23)。遺体は目を閉じられ(創世46:4)、きれいに洗われ(使徒9:37)、防腐のためではなく、埋葬後できるだけ早く土に分解するようにと大量の香料や香油が注がれ、遺体を包むための亜麻布や布切れにも香料を染み込ませました(Ⅱ歴代16:14、ヨハネ19:39、40)。墓を訪れる習慣があったことから、においを防ぐ目的でもあります。遺体全体を包み、さらにもう一枚の布で頭部が包まれ、布切れであごを固定しました。遺体の埋葬準備は通常、遺族によって行われ(レビ21:1)、家族がいない場合は近しい友人たちの手で行われました。

古代の家族用墓
(横たわっているのは現代の人々)

主イエスの埋葬についての記事から、当時(第二神殿期)の埋葬がどのように行われたのかが伺えます( ヨハネ19:38-41、20:1、6、7)。ユダヤ人や初期のクリスチャンは火葬をしませんでした。肉体は自然に土へ帰るという信仰に基づいていたからです。

聖書時代、火葬は罪人に対する罰として辱めに満ちたものでした(ヨシュア7:15、イザヤ30:33)。聖書の掟として定められた四つの死刑法の一つであり、(レビ20:14、21:9)また、異教徒が用いる埋葬法でもありました。ギリシャ人やローマ人は魂だけが生き続けると信じ、遺体にはほとんど関心を払いませんでした。

聖書時代の埋葬 

第二神殿期(イエス時代)の骨つぼ

ユダヤ人の風習では、葬式とは遺体を墓地まで運ぶ過程そのものでした。亜麻布に包まれた遺体は、木製の台に置かれて運ばれました。この風習は少なくともダビデ王の時代にまでさかのぼることができ(Ⅱサムエル3:31)、新約時代にも続けられていました(ルカ7:12)。

墓地までの葬列はしめやかとは言えないもので、人々は大っぴらに悲しみを表し、衣服をずたずたに引き裂いて悲しみを表現しながら進みました。葬列が進む中、歌が歌われ、楽器が演奏されました(通常は笛)。特に有名な故人のためには、その人を賛美する記念の哀歌が作られました(Ⅱ サムエル1:17)。遺体のための香油と香料の品質、墓のタイプ、骨つぼのデザイン、亜麻布や木製の台の品質、泣き人や楽手の数は葬儀の費用に左右されました。太古の昔から葬式に掛かる費用はその一家にとって大きな負担だったのです。

もともと喪では
白い服を着用した

また、黒い喪服を着ることは非ユダヤ人がすることとして、ユダヤ人の習慣にはありませんでした。歴史的に、喪のための衣装としてユダヤ人は常に白い装束をまといました。初期のクリスチャンもまた、7〜8世紀までは、故人が死を通して永遠に主のそばにいられる喜びを表すために白い衣を着ました。しかし、教会が生き生きとした信仰と死に対する理解を失うにつれ、異教徒の習わしをまねて、喪のために黒を着用するようになりました。

「涙つぼ」の役割

イエスの時代、ユダヤ人は「涙つぼ」と呼ばれる小さなつぼに自分の涙をためるという特殊な習慣を行っていました。涙型をしたこのつぼは口が朝顔のように開いていて、人が泣くときに涙を受けるようになっていました。つぼには栓がされ、貯蔵されました。第二神殿時代の発掘物からは、さまざまな種類の涙つぼが発見されています。19〜20世紀に奨励されていたような、悲しみの涙をこらえ歯を食いしばって耐えるようなことはなく、公然と泣いて涙つぼに悲しみの涙をためる風習がありました。

今日、科学者の発見によれば、悲しみのために深く涙することで、体内の毒素が流れ出ると言われています。この場合の涙は通常、眼球が乾かないよう、うるおいを与える涙とは成分が違うそうです。ですから泣くことは体に良いことだと言えます。愛する人が亡くなった後、深く嘆き、涙することに時間を費やすと、徐々に精神が回復してきます。涙を流さない人は、内側にため込んだ痛みを解放することができず、それゆえに心身をむしばんでいくことがあるのです。

涙つぼ

当時はそれがなぜであるか、科学的には分からなかったとしても、悲しみと涙の因果関係に対する古代の人々の理解は正しかったのです。ですから葬儀の場に嘆くために雇われた泣き人を置くということは、非常に重要なことでした(エレミヤ9:17-22、アモス5:16)。ミシュナー(口伝律法が成文化された教典。紀元2世紀に成立)の時代になると、ラビ・ユダは「たとえイスラエルで最も貧しい者であっても、葬送曲を演奏するために最低二人の笛吹き、一人の泣き女を雇わなければならない」という決まりを作りました。(ケト4:4)

涙を受けるためのつぼは、詩篇56篇8節に最初に出てきます。詩篇の作者は痛みの中で、神に次のように泣き叫んでいます。「どうか私の涙を、あなたの皮袋にたくわえてください。」神に対して自分の流した涙を覚えてください、というこの叫びには、ご自分の民に対する神の深い哀れみと配慮を示す感動的なイメージがあります。

イエスと涙

涙つぼに涙をためるという行為に関連していると思われる箇所が、新約聖書に三つあります。ラザロが亡くなったとき、マリヤとマルタはイエスがベタニヤに近付かれるまでの4日間、泣き通しでした。二人が主に会うために外に出てきたとき、主は二人の涙を見て大きく心を動かされました(ヨハネ11:33)。恐らくイエスは、二人の涙つぼがいっぱいなのをご覧になったのでしょう。

ゲツセマネの園でイエスは次のように祈られました。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(マタイ26:39)。この杯についてはさまざまな解釈があります。これはイエスの運命あるいはイエスが人類の身代わりとして受ける罪と罰の象徴として、なみなみとぶどう酒が盛られた杯であったかもしれません。あるいは大きな悲しみを象徴するものとして、涙でいっぱいになった涙つぼだったかもしれません。もしそうならば、主のおことばは次のような意味があったのかもしれません。

「あなたが私に背負え、と仰せられている、この膨大な悲しみと嘆きは、私に担いきれるものではありません。」 しかし、主の御心が成されるためにほかに道はありませんでした。

ルカの福音書7章36節から50節では、イエスがパリサイ人シモンの家で食事をとっているところに、罪人とされる女性が入ってきてイエスの御足を涙で濡らし、洗ったと記されています。彼女は主の足元で涙を流したのではありません。当時の読者たちには涙で濡らすということが何を意味したのか理解できたことでしょう。彼女は自分の涙つぼを空にすることで過去の悲しみを洗い流したのです。この行為を通して、彼女は過去の心痛む出来事からの解放と罪の赦しを求めました。その結果、彼女は両方を得ることができました。イエスの中に悲しみに対する解決を見たのです。

イエスと共に食事をとっていたパリサイ人は、この女性を罪人だと知るがゆえに彼女に対して何の関心も払いませんでした。当時、禁欲的な文化をもっていたギリシャ人のように、彼らは義務として律法を遂行していました。そんな彼らとは対照的に、イエスは哀れみに満ち、涙され、悲しみを抱かれました。ギリシャの神々とその文化は冷たいものでしたが、ヘブル人の神は心(愛)をもっておられました。これはパリサイ人が忘れてしまっていた神のご性質でした。

悲しみと嘆きは喜びへと導かれる

「嘆き」は死によるものばかりではなく、さまざまな出来事の中で私たちの人生に痛みと悲しみがもたらされるとき、一緒にやってきます。これは私たちを落ち込ませるための、外部からの非常に大きな要因となります。人生にはこうしたどうすることもできない時期がしばしばあります。もし私たちが神の元へ走り、助けを求めるならば、神はそれに応えることがおできになります。「神は低い者を高く上げ、悲しむ者を引き上げて救う。」(ヨブ5:11)

嘆きはまた、悔い改められていない罪が原因となっていることもあります。罪のゆえに神を遠くに感じ、罪責感によって疎外感を感じてしまうのです。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。」(ヤコブ4:8-10)

エンゲディの滝

罪に対する嘆きは、悔い改めと主にあっての喜びへと私たちを導きます。主イエスはゲツセマネで泣かれ、世界中の罪による嘆きと悲しみで満ちた杯を受けられました。公生涯の中でも主は人里離れた寂しい場所へ行かれ、思い起こされました。「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」(詩23:2、3)

同様に、人生において私たちも安息日をもつことが必要です。主の御思いをめい想し、主の前に涙することで癒やしを受けます。私たちは主の前で涙を流すことで主の愛、哀れみ、そして恵みを受け取る必要があるのです。私たちの嘆きの原因が何であろうとも、主こそ「われらの頭を高く上げてくださる方」であることを覚えていてください。ですから嘆き、悲しみ、苦しみの中にあるとき、主に向いてください。神があなたの嘆きを喜びに変えてくださいます。「あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。」(詩30:11)私たち主を信じる者たちもまた、イスラエルと同じくほかとは異なる者となるように召されています。私たちは世の習慣に従うのではなく、世に新しい道を示すために存在しているのです。私たちの人生に、すべてを乗り越えさせてくださる神の御力が表されますように。

暗闇を打ち払う神の光がいかなるものか、証しするものとなりますように。神にある希望が、絶望を打ち消すものとなりますように。人々がそのことを見て、神を信じるようになりますように。

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