ヘブライ語で学ぶ詩篇

詩篇91篇14~16節

詩篇91篇の始めの13節は人間の視点から書かれていました。しかし、最後の3節は神の視点から書かれています。このように、著者が神の代弁者として、それまでの視点を変える手法は詩篇の中に複数登場します(参照: 60:6-8、81:6-1、95:8-12)。

91:14 彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。(新改訳聖書)

この箇所は日本語で読むと、ABA’B’平行法で書かれているかのように訳されています。しかし、これは日本語の文章の美しさを優先した判断によるもので、原本となるヘブライ語では交錯配列法で書かれています。

כִּי בִי חָשַׁק, וַאֲפַלְּטֵהוּ אֲשַׂגְּבֵהוּ, כִּי-יָדַע שְׁמִי

כִּי בִי חָשַׁק A (なぜなら、彼がわたしを愛しているから)
וַאֲפַלְּטֵהוּ B (わたしは彼を救い出そう)
אֲשַׂגְּבֵהוּ B’ (わたしは彼を高く上げよう) *安全な高台に移動させる、という意味
כִּי-יָדַע שְׁמִי A’ (なぜなら、彼はわたしの名を知っているからだ)

ヘブライ語が読めなくても、AとA‘の始まりが「כִּי」(「なぜなら」)によって始まっているのが分かり、BとB’の語尾が「הוּ」で終わっているのが分かります(ヘブライ語は右から左に読みます)。こう書くことによって、詩篇を合唱する時に、ある一定のリズムと韻が生まれ、歌っている人たちが内容を覚えやすくなるという効果もありました。

この詩的表現をあえて選んでいる意図は、構成の中心になる言葉に焦点を置きたいからです。この節では、BとB’がその内容です。つまり、「主を愛し、神と契約関係にある人を神は必ず救われる」という真理が一番大切だと強調しているのです。

救いの理由

A. ここで「愛している」と訳されている言葉は、申命記6:5などで命じられている「あなたの神、主を愛しなさい」と訳されている言葉と語源が異なります。ここで使われている言葉「カシャック」は、親密につながっているという意味があります。鎖の輪が互いにつながって離れないように、互いが結びついた愛情を表します。聖書には、神が、このカシャックの愛でイスラエルを愛していると書かれています(申命記7:7、10:15)。しかし、聖書の中で私たちが神をカシャックすることによって、神が救ってくださると書かれている箇所はここだけです。

A’. また、もう一つの救いの理由は、私たちが主の名前を知っているということです。名前を知っているということは、その主を呼び求めることができる特別な関係があることを意味します。神を、契約の主の名「ヤハウェ」によって知っているということは、その人は神にとってあかの他人ではなく、契りによって切っても切り離せない親密な関係があるということです。

主に対する誠実な愛、そして契約によって生まれた親密な関係があるから、主はその人を救われるのです。

契約を土台とした祝福の約束

91:15 彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。
91:16 わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。

そのような人が主を呼び求めると(イスラエルの民との契約関係があることを前提に)主はすべての約束を果たしてくださる、と最後の二節が教えます。ここには、特に6つの祝福がハイライトされています。

1. 主が(祈りに)答えてくださる
2. 主が苦しみの時に共にいてくださる
3. 主が救い出してくださる
4. 主が誉れを与えてくださる
5. 主が長い人生を与えてくださる
6. 主が救いを見せてくださる

これらの祝福は、主を避け所にした人を神が救われる過程を示しているとも言われています。どのような逆境に立たされていたとしても、主を愛し、鎖のように離れないのであれば、主が共にいてくださるという約束は心強いことです。

ここで学ぶことがいくつかあります。

一つ目は、神と契約関係を持っているか、持っていないかということが人生の中で大きな差を生み出すということです。

この詩篇を執筆した著者は、モーセの契約の下にいたので、モーセ契約に含まれていた約束を信仰の対象としてこのような美しい詩を書くことができました。

言い換えれば、もし、この詩篇の著者が神と契約関係を持っていなければこの詩篇に書かれている祝福は、何も期待することができませんでした。神の民とされていない人は、その主の名前を知ることもなく、主を避け所として求めることもできません。

現代のクリスチャンは、モーセの律法の下にはいません。しかし、キリストのからだである教会に足された人は、キリストを通してモーセの契約を遥かに上回る素晴らしい契約を神と結ぶことができるのです。

旧約時代、イスラエルの民が祝福を体験するためには、契約の律法を守る義務がありました。しかし、キリストに属する人は、行いではなく、信仰によって神の基準を満たした者とされ、神と和解することができます。神と和解したものは、イスラエルの民が神と親密な関係を持ったのと同じように、神と新しい契約関係を持つことができるようになるのです。

責任と祝福

キリストを通して神と契約関係を結んだ人たちには、イスラエルの民と同じように責任と祝福が与えられています。

責任は、「(神の民が)この世の中で神の似姿として生きることによって、神の聖さが明確に伝わり、この世が神を信じるようなる」ということです。旧約時代のイスラエルの民も同様の責任が求められました。当時は、イスラエルの民が、モーセの律法を守ることで、一般とは異なる文化、道徳、生活仕様を通して神の特別さを伝えました。そして、彼らの従順、不従順によってユダヤ人たちが祝福されたり、罰せられたりする姿を見て、契約の神の誠実さ、また全能さを目撃することができたのです。

しかし現在は、神の似姿としての生き方がモーセの時代と対照的に異なります。今の時代は律法ではなく、キリストが私たちに示してくださった愛を把握し、それを模範として神の家族が愛し合う、という手段を用いてこの世で神の似姿として輝く責任が与えられているのです。

祝福の面でも旧約の時代と現在では相違点と共通点があります。

● 相違点

現代のクリスチャンである私たちの祝福は、この地上生活中心の祝福ではなく、キリストを通してキリストが天で所有しているすべての祝福を受け継ぐ相続者とされたということです(参照: エペソ1章)。

クリスチャンは、キリストに信仰を持つことによって、モーセとユダヤ人が神と持っていた関係よりもさらに親密で素晴らしい関係を持つことが約束されているのです。

そのようにキリストを通して神との契約関係ができた人は、どのような状況に置かれても、「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。(ローマ8:32)」と書かれていることばに確信を持って、主をたましいの隠れ場、避け所、そして大盾にすることができるのです。

● 共通点

当時も現代も神から与えられた責任を果たすことが、神の守りを体験する前提であるということです。

神は偶像礼拝をしている人たちを霊的に祝福することができません。同じように、神は偶像を避け所としている人たちを守ることはできません。それは、神に救う力がないのではなく、その人たちが間違った救いの対象に信頼し、身を委ねているからです。まことの神ではない存在に仕えている限り、その人は神に与えられている責任を果たしているとはいえません。

そのような状況にいたイスラエル人たちに主は、「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ(イザヤ書59:1-2)」と言われました。

神を愛し、神との契約の約束を守ることが私たちの安心と安全につながります。そのため、現代の教会は、私たちがキリストによってどのように愛されたのかを把握し、その愛を模範にキリストの体に属する神の家族を愛することに徹すれば、自然と神の神性をこの世に示す神の似姿へと変えられていきます。神を愛し、その愛を実践する人は、どのような環境に置かれていたとしても、神を避け所し、必ず神の救いを体験できるのです。

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