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「アバ、父よ」 Part-1

BFP編集部 1999年9月

「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父。』と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」(ガラテヤ4:6)

アメリカには、年に1度「父の日」と呼ばれる祝日があります。特別な敬意があらわされ、父親の役割に感謝する日です。当日、家族はカードや贈り物をとおして愛を表現します。こよなく愛されている父親であれば、ベッドまで朝食を運んでもらうことができます。恐らく、世界各国にこのような祝日があることでしょう。

言うまでもなく、家族にとって父親は重要な存在です。聖書的に健全な家庭は、父親が霊的リーダーシップを取り、方向性・安全・必要などを備えます。父親でなければ埋められない空洞が家庭にはあります。これは母親についても同様です。

現在、ほとんどの国で家庭崩壊が深刻になっています。そしてこのような家庭が、父親との関係を正しく持つことのできない、悲しい世代を造り出しています。これは、父親の責任放棄、婚姻外の出産によるもの、また、家庭内で正しく役割を果たせない父親がいるためです。その結果、バランスの悪い家庭で成長した多くの人々に、アイデンティティー(自己存在意識)の危機が起こっています。それはしばしば、精神不安定や異常行動としてあらわれます。またこの問題は、父なる神の解釈や理解にも影響をおよぼします。

今回は、父なる神が人間とどのように関わり、人間は神とどのように関わるべきかということについて学んでいきたいと思います。次号のティーチング・レター「アバ、父よ。パート2」では、父親や家族の聖書的な役割について学びます。神の御国において、父親であることには、どんな意味があるのでしょう。また子どもとして、自分の父親とどう関わるべきでしょうか。私たち全員が父親であるか、あるいは父親を持っています。ですからこの学びには、すべての人に語られるメッセージがあると信じます。

◆父としての神

ヨハネ14章6節で、イェシュア(イエス)は言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」デレック・プリンスは、「目的地に導く道だけが意味のあるものである」と指摘しています。イェシュアがその道であり、父なる神が目的地なのです。

旧約聖書においては、神は預言者をとおして語られ、仲介者である祭司が仕えていましたが、個人的な父なる神としては知られていませんでした。むしろ、神は一般的な意味で、イスラエルの父でした。祈りの中で、クリスチャンは神を「お父様」と呼ぶことが習慣化されていますが、ユダヤ教では、今でも“父”と呼ぶことはありません。

出エジプト記で、神はモーセに、「パロに言わなければならない。主はこう仰せられる。『イスラエルはわたしの子、わたしの初子である。…』」と言われました(出エジプト4:22)。また、詩篇の記者は神を「みなしごの父、やもめのさばき人は聖なる住まいにおられる神」と呼びました(詩篇68:5)。神はソロモンとダビデにのみ、彼らの父になると仰せられました。ソロモンについては、「わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる」(第2サムエル7:14)。ダビデについては、「彼は、わたしを呼ぼう。『あなたはわが父、わが神、わが救いの岩。』」(詩篇89:26)と言われました。

しかし、新約時代になり、神はイェシュアの血潮による救いを受けたすべての人々の父となられました。

「イスラエルの父なる神」でしかなかった旧約時代とは異なり、イェシュアをとおして、神が私たちひとり一人の個人的な父となられたのです。

イェシュアが地上でミニストリーを始められたとき、洗礼を受けるためにヨルダン川に行かれました。そのとき、「天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:17)という声がありました。また、イェシュアは言われました。「わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10:30)

イェシュアは神ご自身のあらわれでした。神は子どもである私たちを守り、その必要を満し、愛し、世話をし、育てるというご性質を示されました。そして、父と子の関係の中に、ご自身を現わすことを選ばれました。この“父”としてのご性質は、旧約時代にも知られていましたが、それが個々の関係においてあらわされたのは、イェシュアがいらしてからです。

ヘブル1章1-2節にはこうあります。「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」またイェシュアは、ご自身だけが父なる神をあらわすことができることを強調して、こう言われました。「すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。」(マタイ11:27)。ヨハネもこう書いています。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(ヨハネ1:18)

人々は父なる神とどのような関係をもっているのか?

ある神学校の教授が、驚くべき事実に直面しました。それは、生徒たちが父なる神の概念を正しく持つことができないということです。教授は神のご性質について教えました。しかし、彼らの説教やレポートから、多くの者がその教えを十分に理解していないのは明白でした。

どこに問題があったのでしょう。なぜ、生徒たちはその教えを理解することができなかったのでしょう。

そこで教授は生徒たちに父なる神の絵を描くように言いました。

  • ある者は、厳格で哀れみのない裁判官を描きした。無関心で冷たく、断固とした態度でその御座に座っている姿です。裁きのまなざしをもって、睨みつけていました。
  • ある者は、暴君がその家臣に怒りをぶつけ、こん棒を振り回しながら御座に座っている姿を描きました。
  • ある者は、混乱し当惑した顔で決断することができない弱々しい姿を描きました。
  • ある者は、誰もいない御座を描きました。
  • そしてわずかな者だけが、哀れみ深く慈悲深い目をした父なる神が、子どもたちを祝福しようと両手を広げ、御座に座っておられる姿を描きました。

生徒全員が、教授の教えを受けたにもかかわらず、これは一体どういうことでしょうか。

教授は生徒たちひとり一人と面接しました。そこで彼らの絵は、感じ易い幼少の頃、肉の父親がどのような接触をもったかを描いたものであるということを発見しました。

教授が何を教えようと、生徒たちは自分が育った不健全な家庭のイメージを乗り越えることができなかったのです。地上の父親のイメージが、神の理解を曲げ、偏見を与えていました。結果的に、それが神の祝福を十分に受け取ることを制限していました。

確かに、ほとんどの父親が「神を理解しその祝福を受け取る」という家族における役割の重要性を知らないと思います。

出エジプト記20章5節では、父親の咎や罪が3代4代の子孫にさえ及ぶと教えています。父親である私たちの行動は、良くても悪くても曾孫の次の次の代にまで、影響を及ぼすのです。これは見過ごすことのできない重大な事実です。

父親が神との正しい関係を持たず、家庭において神を恐れることを教えないなら、子どもたちに不健全な教育を施し、神学校の例に見たように間違った神の概念を植え付けることになります。

しかし、感謝すべきことに、たとえ貧しい父親像の犠牲者であったとしても、神は私たちを贖うことがおできになります。イェシュアをとおして、神のご性質について知るべきことを教えてくださいます。神学生たちのように、多くの人々が天の父を正しく捉えていません。そのため、神が私たちに対して望んでおられるものを見逃してしまうのです。

父なる神をどう思うか?

私自身について言えば、神は無関心で、基本的に私にあまり関心を持っておられない方だと思っていました。私は神を喜ばそうと努力し、正しい行いをしました。しかし、神と親しく話すことはできました。神が私に気付いておられるか。私を喜んでおられるか。また本当に私の声に耳を傾けておられるか。全てが定かではありませんでした。残念ながら、これは私が子どものときに、地上の父親から受けたイメージどおりの姿です。

あなたは父なる神を思うとき、そこに何を見ますか。厳格な裁判官・暴君・弱々しい姿・誰もいない椅子でしょうか。それとも、愛と哀れみ深いお父さんでしょうか。

面白いことに、ほとんどの人がイェシュアは心温かく、友好的で、哀れみ深く、出会うすべての人を愛し、哀れみと癒しと愛に満ちた目をして両手を広げておられる方としてイメージすることができます。しかし、イェシュアを正しく知っている人が、父なる神は、刑罰と稲光りを下そうと待っている厳格な裁判官だと思っているのです。

しかし待ってください。イェシュアは、「わたしと父とは一つです」と言われました。くりかえしイェシュアは「彼を知ることは父なる神を知ることである」と教えておられます。神とイェシュアは異なった性質を持っておられるのでしょうか。

ヨハネ8章19節「あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう」と言われました。また、ヨハネ8章28-29節では、「わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行なうからです。」と言われました。

ヨハネ5章16-23節には、イェシュアが安息日に癒しを行い、サドカイ人とパリサイ人に非難された興味深い話しがあります。イェシュアは彼らに言われました。「『わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。』このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。そこで、イエスは彼らに答えて言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。』」(ヨハネ5:17-20)

イェシュアは、神だけが持っておられる安息日の権威を持っていることを示されただけでなく、父なる神の御心を反映する神の御子であることを宣言されました。そして、ご自身を神と等しい者とされました。サドカイ人やパリサイ人は、イェシュアと神の同等性を否定しました。

しかし、新約聖書では父なる神とイェシュアはひとつであり、親しい関係を持っておられることが明白です。その関係をとおして、父なる神が私たちに啓示されています。さらに、父なる神はイェシュアにとって厳しく近づき難い父ではありませんでした。ゲッセマネの園で苦悩する中、イェシュアは父に叫び求め、“アバ”と呼びました。それは、深い親しみと親密さをあらわす、“おとうちゃん”という言葉に訳すことができます。イェシュアは、父に叫び求めました。「おとうちゃん、あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」(マルコ14:36)

同様に、私たちも父なる神と“おとうちゃん”の関係を持つことができます。ローマ書8章15節にはこうあります。「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます。」私たちは、父なる神を義なる裁判官として見ているため、メシヤによってあらわされた愛なる父のご性質を見ることに失敗しています。

“おとうちゃん”と親しく呼びかけて神の胸に飛び込むことができ、私たちの願いは聞かれるのです。創造者なる神との親しい交わりは、旧約時代にはほんの少数の人以外には知らされていませんでした。しかし、イェシュアの犠牲とその血で買い取られた救いが、神と直接話すことができる至聖所へと私たちを導き入れました。旧約聖書では、至聖所に入るのは「贖いの日」だけであり、年に一度大祭司のみにゆるされた領域でした。そしてもし間違いがあれば、大祭司は神の臨在の中で命を落としたのです。

私たちはもはや恐れおののいて父なる神の臨在に近づく必要はありません。救いの恩恵を与えてくださったイェシュアがおられます。私たちが簡単に受け取っているこの神の臨在を、旧約の聖徒たちはどんなに慕い求めたことでしょう。これが大変な祝福であることを理解しているでしょうか。また、この好機を活用しているでしょうか。神を愛し敬うために祈り(会話)、父なる神の臨在に近づき、神の愛と守り、備えと導きを受けているでしょうか。

イェシュアのように、私たちも神を“お父ちゃん”と呼ぶことができ、親しい関係を持つことができます。父なる神は、天と地を動かすほどに私たちを愛し、心配してくださるのす。私たちもまたイェシュアのように、「いつも、そのみこころにかなうことを行なう(ヨハネ8:29)こと」を願わなければなりません。

アバ、父はどのような方か?

第1ヨハネ4章7-10節にはこうあります。「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

また、ヨハネ3章16節では、神の愛を確認しています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

この言葉は、神に対して無関心だったときでさえ、極限まで私たちを愛し、神との交わりを持つことができるように、罪の贖いを備えてくださった神を描写しています。

マタイ7章7-11節は、神が愛によって必要を満たす用意をしておられることを告げています。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」

第2コリント1章3-4節では、神についてこう言っています。「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」

ガラテヤ5章22-23節でパウロは、御霊の実は「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません」と言っています。もし、これが、私たちに現わされる御霊の実であるなら、それは次のことを意味します。

  • 父なる神は愛です。
  • 父なる神は喜びです。
  • 父なる神は平和です。
  • 父なる神は寛容です。
  • 父なる神は親切です。
  • 父なる神は善意です。
  • 父なる神は誠実です。
  • 父なる神は柔和です。
  • 父なる神は自制です。

これにはどんな意味があるのか?

イメージがつかめたでしょうか?

  • 神は厳格な裁判官ではなく、愛に裏づけされた義なる裁判官です。
  • 神はこん棒を持って打ち叩こうとする暴君ではなく、私たちを優しく戒める哀れみ深い教師です。なぜなら神は人間を愛し、義の道を歩むことを願っておられるからです。
  • 神は無関心で冷たい方ではありません。温かく、愛のある慰め主です。
  • 神はけちな方ではありません。私たちの必要を、またあるときは願わないものさえ喜んで与えてくださいます。
  • 神は決断できない、優柔不断な方ではありまん。即座に方向性と導きを与えることができます。
  • 神はいつもそこにおられる、全知全能のお方です。そして人類を愛しておられます。

ヨハネが「神は愛です」と教えたように、神と愛は永遠に切り離せないものです。そうです。御座におられる父なる神は、両手を広げ、哀れみと慈愛の目を持って、神を知る子どもたちを祝福しようとしておられます。

あなたはそれを見ることができますか。あなたはそれを信じることができますか。これは真実です。あなたは神との親しい個人的な関係を持つことができます。ある人々は、過去の貧しい地上の父親のイメージを乗り越えるために長い時間がかかるかもしれません。しかし、天の父の御許へ行き、そのご性質を正しく理解することができるように願ってください。そして、あなたのためにそこにおられる“おとうちゃん”の正しいイメージを受け取ってください。そこから、神が望んでおられる親しい個人的な関係における豊かな人生がスタートするのです。

地上の父親についてはどうでしょうか。私たちは神に託されたその働きをしているでしょうか。家族の中に、変化をもたらすことに遅過ぎるということは決してありません。これが次号のティーチング・レターの主題です。次号をご期待ください。

エルサレムからシャローム

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