ティーチングレター

神の水

BFP編集部 1999年6月

「神の火(ティーチングレター'99年3月発行)」では、信じ難い祝福、あるいは焼き尽くす火となる、特異な性格をもつ「神の火」について学びました。私たちの心の状態によって、この火は良い働きも、悪い働きもします。心正しい人にとっては、生活の中の汚れや罪を焼き払う、神の力・聖めの火となります。不正な心を持ち、主に対して反逆的であれば、同じ火によって焼き滅ぼされるでしょう。

同様に、聖書全体に渡って書かれている「神の水」も、似た働きをします。ある場合は、いのちの水である聖霊であり、暑くほこりっぽい荒地における冷たく、沸々と湧きあがる泉のような、心地よい元気を回復させる水になります。また、この水は、神の祝福の中へ踏み込んで行くために「通過しなければならない障害物」、あるいは「テスト」として用いられます。すなわち、紅海やヨルダン川、水のバプテスマを超えることです。神の火がそうであったように、神の水もきよめを成すものです。

聖書の象徴には、多くの霊的適用があります。この適用を十分に理解するためには、聖書から、この大切ないのち(水)を与える資源について学ぶ必要があります。

水の大切さ

生命を維持するために、水は欠かせません。それで人間は水が簡単に手に入るところ、雨が定期的に豊かに降る所で生活しようとします。特に辺境地に生きる人々にとっては、水は命にかかわる重大問題であり、地下から汲み上げるか、他の地域から導水しなければなりません。さもなければ、そこに住む人はいなくなります。水なしにはいのちが存続しないからです。

聖書の地・イスラエルは、こうした辺境の地域にある国のひとつです。ですから、いつも水が争いのひとつとなっていました。出エジプト記2章16節でモーセは、リュウエルの娘を助けました。彼女は他の羊飼いによって、井戸から追い払われるところでした。また創世記26章19-21節では、イサクに与えられた神の祝福を欲したアビメレクによって、井戸から井戸へ追われるイサクを見ます。今日においても、水の需要が中東の大きな争いとなることが予告されています。

聖書におけるイスラエルでは、水はただ水道の蛇口が取られるような単純なことではありませんでした。人々は水どんなに貴重なものであるかを痛感し、感謝していました。ほとんどの場合、出かけて行って近くの水源地から水を運んで来なければなりませんでした。通常水を運ぶのは、家にいる若い未婚の女性でした(創世紀24:11、第1サムエル9:11)。そのため、しばしば水場が妻を見つけ出す場所となりました。すなわち、イサクの妻リベカは井戸で見出され(創24:12)、ヤコブも同じようにラケルに会いました(創世記29:9-11)。モーセはミディアンの井戸で、将来妻となるチッポラに出会いました(出エジプト2:15-21)。昼間用の水は、早朝の涼しい頃に、夕方用の水は午後遅くに汲み上げられました。真昼に水を汲むものは、のけ者とみなされました。井戸端でイエシュア(イエス)に出会ったサマリヤの女がそうです(ヨハネ4)。イスラエルの村村では、今でも婦人たちが水を集めている姿を見かけます。しかし、彼女たちが手にしているのは、絵画的な陶器の壷ではなく、プラスティックの缶です。

都市は必ず水源の近くにありました。人々は水源を隠し、城壁に囲まれた都市の内部に水を引く特別な水道を掘りました(第2列王記20:20)。敵に包囲されても、住民は容易に水を得ることができました。このような水道は、現在もエルサレムやハゾル、メギド、ベルシェバで見られます。聖書における大切な都は、水源地にちなんでその名がつけられました。すなわち、ベルシェバ、ベエトロ、ベエリルム(ベエルは「井戸」の意)や、エンゲディ、エンガンニム、エンロゲル(エンは「泉」の意)があります。また、大きな事件は水源地で起きました。ダビデ家とソウル家の戦争があったギベオンの池(第2サムエル2:13)、ケブロンの池(第2サムエル4:12)、ヤコブの池(第1列王22:38)、盲人がイエシュアによって癒された、エルサレムにあるシロアムの池(ヨハネ9:1-12)等です。

水源地

イスラエルには、数多くの水源地がありましたが、それらがみな利用できたわけではありません。一年をとおして雨が期待できるわけではなく、年に4ヶ月しか雨が降りません。冬季に雨が降らない場合、人々は必死になって主の助けを呼び求めました。あわれみのうちに、神は彼らの祈りに「雨の祝福」をもってお応えになりました。では、水源となっていたものは何でしょうか。

貯水槽:最も当てにならないのが、貯水槽を水源とすることです。石灰岩の地では、地下に貯水槽を掘り、内部にしっくいを塗って、雨水を導入するのは比較的容易です。貯水槽は共同の資源として用いられましたが、後に人々はそれぞれの家の下に槽を掘り、屋上からの雨水を貯えだしました。それは水を新鮮に保存するために、日光が入って藻類が繁殖することがないよう、完全に密封した地下「タンク」でした。この水源は、新しい冬の雨の前に完全に干上がってしまうので、かえって不快なものになることは容易に想像がつきます。それでも、自分自身の貯水槽を持っていることは祝福のしるしでした。ヒゼキヤ王を打破するため、「ヒゼキヤの言うことを聞くな…..私と和を結び、私に降参せよ。そうすれば、お前たちは皆、自分のぶどうと自分のいちじくを食べ、また自分の井戸の水を飲めるのだ」(第2列王18:31)という祝福を約束して、エルサレムの人々を得ようとしたアッシリヤの王セナケリブの空しい約束を考慮してみてください。

井戸:どうせ持つなら、井戸の方が勝っていました。一年中豊富に、比較的きれいな水を地下から汲み上げることができたからです。しかし、それでも水はよどみ、干期の終わりには古くなりました。そして干ばつがやってくると地下水面が落ち、井戸が枯れることもあります。この暑い荒地の気候のもとでは、井戸を持つことは、生死を分けることさえ意味します。それで、井戸は必死に保護されました。聖書では、井戸の所有権をめぐって、多くの小競り合いを見ることができます(例:創世記26:19-21)。

共同で使う井戸を掘る羊飼いたちは、必ずその上に重い石を置き、少なくとも3人いなければフタが開かないようにしました。これは通りかかりの盗人が、井戸の水を盗んだり、あるいは利用者が自分の分け前以上に取ることがないようにするためです。羊飼いと井戸は、ヤコブがその将来の花嫁・ラケルに出会った中心場面です。創世記29章にはこうあります。「ヤコブは旅を続けて、東の人々の国へ行った。ふと彼が見ると、野に一つの井戸があった。そしてその井戸のかたわらに、三つの羊の群れが伏していた。その井戸から群れに水を飲ませることになっていたからである。その井戸の口の上にある石は大きかった。群れが全部そこに集められたとき、その石を井戸の口からころがして、羊に水を飲ませ、そうしてまた、その石を井戸の口のもとの所に戻すことになっていた」(1-3節)

ラケルが来るのを知り、ひとりになりたいと思ったヤコブは、彼らを促して、群れに水を与えるように言いました。しかし彼らはこう言いました。「全部の群れが集められるまでは、そうできないのです。集まったら、井戸の口から石をころがし、羊に水を飲ませるのです」(8節)。力持ちであることを示し、ラケルに良い格好を見せたいという心も働いたであろうヤコブは、たったひとりでその石を転がしました。「ヤコブが、自分の母の兄ラバンの娘ラケルと、母の兄ラバンの羊の群れを見ると、すぐ近寄って行って、井戸の口の上の石をころがし、母の兄ラバンの羊の群れに水を飲ませた」(10節)。彼の武勇伝は、ラケルによってラバンに伝わりました。

泉:最も満足度の高い水源は、湧水(泉)です。聖書では、「源泉」とも呼ばれています。それは地下から地表へ湧き上がってくるもので、冷たく、新鮮で、生きている水源地です。泉水を飲むことは、誰にとっても心地よいことです。貯水槽や井戸と比べ、泉の水は「生ける水」とも呼ばれ、その特質が示されています。神の霊は、この回復させる水源になぞらえられています。エレミヤは「わたしから離れ去る者は、地にその名がしるされる。いのちの水の泉、主を捨てたからだ」と言っています(エレミヤ17:13b)

スカルの井戸におけるイエシュアとサマリヤの女の会話において(ヨハネ4:1-26)、イエシュアは、井戸の水を泉あるいは生ける水と比較して、神の御霊に関する霊的真理を説明しています。彼女は、「汲むものをもたず、その井戸は深い」と言って笑いました。しかしイエシュアは、「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(14節)と言われました。

池:これは、普通小さな水源の窪みに掘られ、泉の近くにあり水を集めやすくしていました。池は人々が水源地から水を汲みやすくするものです。すでに述べたように、エルサレムのシロアムの池・ヘブロンの池・ギベオンの池のように、大抵の人は泉の近くにいました。エルサレムは大きくなるにつれ、ますます多くの水を必要としました。考古学者たちは、ソロモンからヘロデに起源する、ベツレヘムとヘブロンの間にある泉から、エルサレムに導水する導水管を発見しました。地中海沿岸のカイザリアには、自然の水源がなかったので、記念建造物となっている高い導水管をとおして、カルメル山から水を運び込みました。この導水管の遺跡は今も見ることができます。

川:最も頼りになる水源は、変わることなく流れる川です。エジプト人には、偉大なナイル川がありました。それは異教的な神々のひとつとして、あがめられるほどでした。イスラエルでは、ヨルダン川が一年中流れ続ける唯一の川です。乾期ともなれば、他はほとんど枯れてしまいます。ガリラヤ湖は、ヨルダン川を構成する一部分です。上ヨルダンはゴラン高原からフラー渓谷をとおり、ガリラヤ湖に水を注ぎます。下ヨルダンはガリラヤ湖から水を死海に運んでいます。古代の数々の共同体が、この水路沿いに住んでいました。現代の共同体のいくつかも、やはり同じ場所で暮らしています。イエシュアの働きの多くはこの地域でなされました。私たちは「いのちの川があり、私から流れて行く」というコーラスを歌いますが、これは決して乾くことのない水源をであるヨハネ伝7章38節にあるイエシュアのことばを反映しています。

水と聖書的描写

水の豊富な国に住む人々には、見失われがちのこうした深い意味を知り、水や水源の重要性を示す背景を知るとき、初めて聖句を正しく知ることができます。聖書の民に、「渇き」は切実な問題として起こりました。ですから、冷たい泉で乾きを満たすことは、蜜よりも甘いとみなされました。ここで、聖書おける水の属性について見てみましょう。

貴重な水:箴言5章で、著者は姦淫を避けるように警告しています。妻は夫にとって水のように価値のある大切な宝として扱われるべき存在であると記されています。「あなたの水ためから、水を飲め。豊かな水をあなたの井戸から。あなたの泉を外に散らし、通りを水路にしてよいものか。それを自分だけのものにせよ。あなたのところにいる他国人のものにするな。あなたの泉を祝福されたものとし、あなたの若い時の妻と喜び楽しめ」(箴言5:15-18)。雅歌の恋人は、愛するものをこう言及しています。「庭の泉、湧き水の井戸、レバノンからの流れ」(雅歌4:15)。乾いている人、あるいは乾いている国の尊い水のように、私たちは自分の配偶者を評価しているでしょうか。

元気を回復させる水:聖書は元気を回復させるものの象徴として、水を用いています。私たちの魂を回復させる神を示して、箴言25章25節「遠い国からの良い消息は、疲れた人への冷たい水のようだ」(1-3節)と言っています。よい羊飼い(主)のしるしは、羊たち(私)に緑の牧草と静かな水を供給することです。この光景をスイスの青々とした丘りゅうに写すことは簡単です。しかし、条件の悪いイスラエルの荒地で、緑の牧草や冷たい静かな水溜りを、羊飼いがその群れに供給するということは、豊かな祝福の証です。それは神の祝福と私たちへの心遣いの象徴です。神によってどんなに祝福されているかを考え、また水道の蛇口に向かうごとに、いつでも神に感謝するために立ち止まりましょう。

また、私たちのことばは、他の人の魂を回復させる甘い水のようになるべきです。ヤコブは舌についてこう教えました。「私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか」(ヤコブ3:9-11)。甘い水はいのちをもたらします。神を賛美し、他の人々に神のことばをもって語ることは、いのちをもたらします。呪うことはにがい水であり、いのちをしぼませ、殺します。私たちの口は、祝福ものろいも生み出すことができますが、甘い湧水となる必要があります。他の人々へ、いのちを語り出すのです。

友好のしるしである水:聖書の文明では、友好と歓待を示すために、訪問者の足を洗い・聖なる接吻をもって挨拶し・飲み水を与え・頭に油を塗り・そして香をたきます。

聖書全体をとおして、人の足を洗うという行為は、時代を経た習慣であることがわかります。この習慣は、創世記18章において、3人の人がマムレでアブラハムを訪れたときにまず書かれています。アブラハムは彼らに言いました。「ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。少しばかりの水を持って来させますから、あなたの足を洗い、この木の下でおやすみください」(3-4節)。イエシュアは、ルカ伝でパリサイ人から非難を受けました。罪ある女に涙で足を洗わせ、香油を塗らせたからです。

イエシュアは、彼女の必要が大きかったこと、また、彼女が赦しを求めて、その行動で自分の愛を示したことを指摘しました。それから自己義認のそのパリサイ人に言われました。「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません』」(ルカ7:44-47)

イエシュアが弟子たちと共に過ごした過ぎ越し・最後の晩餐のとき(ヨハネ13)、主はたらいに水を汲み、弟子たちの足を洗いはじめました。これこそ、主が彼らに示された真の僕たる模範です。足は聖書や中東文明では、身体の最も低い部分とみなされています。今日あなたがベドウィン族を訪れるなら、彼らのテントに座り、客人用のお茶かコーヒーを飲むことになります。ここでは、必ずあぐらをかいて座らなければんりません。足をまっすぐ伸ばし、その裏を見せるようなことがあってはいけません。それは極端な無作法とみなされています。ですから、誰かの足を洗うということは、まことに謙遜な行為なのです。

イエシュアは私たちのみんなのしもべとなることを欲し、弟子たちの足を洗ったあとでこう言われました。「あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです」(13-17節)

一杯の水を与えることは、友好の誓いでした。アブラハムのしもべ・エリエゼルは、一杯の水によって、歓迎されているかどうかを知ろうとしました(創世記24:17-18)。イエシュアの名によって与えられた一杯の水は、祝福とみなされます。こうあるとおりです。「あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです」(マルコ9:41)

マタイ伝25章でイエシュアは「わたしが乾いていたとき、あなたがたはわたしに飲ませてくれた」と言って、この友好の象徴を示しました。そんなことをいつ自分たちがしたのかと、弟子たちがたずねると、ユダヤ人に言及しつつ、「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです(40節)」と言われました。必要があるものを助けることは神の祝福を受けることであり、助けないことは神ののろいをもたらすことです。エリパズはヨブに対して、不安を語りました。「あなたはつかわした者に水を与えなかった」(ヨブ22:7)。暖かな微笑みと励ましのことばをもって、必要のある人に冷たい一杯の水を与えるといった単純なことが、大きな助けとなり得るのです。

神の霊的供給は、いのちを与える水:詩篇1篇では、御霊に導かれて神の道に従って歩く人を、豊かな水のほとりに植えられた実りのある木になぞらえられています。「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」(詩1:1-3)。神の群として生きることは、よく潤されている果実園のようにいのちを与え、実を実らせるものです。この「水」がなければ、私たちは乾いて実をつけることができなくなってしまいます。

乾燥した、乾いた池に水を注ぎ込むように、私たちの必要を満たす供給者は神です。ヨブのカウンセラーのひとり・エリファズは、こう示唆しました。「人は生まれると苦しみに会う。火花が上に飛ぶように。私なら、神に尋ね、私のことを神に訴えよう。神は大いなる事をなして測り知れず、その奇しいみわざは数えきれない。神は地の上に雨を降らし、野の面に水を送る」(ヨブ5:7-10)。ヨブを助けることができる、奇跡を示すエリファズの証明とは何だったのでしょうか。それはイスラエルにおける確かな奇跡「雨」の送り主、神です。

メシヤ成就の約束としての水:イザヤは、イスラエルの民とその地に対する将来の祝福の約束について、興奮を押さえきれませんでした。この祝福は、いのちを与える水に比較されて表現されています。

  • 「彼らはみな、風を避ける避け所、あらしを避ける隠れ場のようになり、砂漠にある水の流れ、かわききった地にある大きな岩の陰のようになる」(イザ32:2)
  • 「ジャッカルの伏したねぐらは、葦やパピルスの茂みとなる」(イザ35:7)
  • 「主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる」(イザ58:11)
  • イザヤ書41章18-21節におけるイザヤの最大の関心事は、イスラエルの民と地に対する神の祝福です。「わたしは、裸の丘に川を開き、平地に泉をわかせる。荒野を水のある沢とし、砂漠の地を水の源とする。わたしは荒野の中に杉や、アカシヤ、ミルトス、オリーブの木を植え、荒地にもみの木、すずかけ、桧も共に植える。主の手がこのことをし、イスラエルの聖なる者がこれを創造したことを、彼らが見て知り、心に留めて、共に悟るためである。」

これらの預言の多くは、今日のイスラエルに起こりはじめています。神は契約の民を帰郷させ、この地に以前の栄光を回復しておられています。荒地はまことにバラのように花を咲かせています(イザ35:1)。

水・神の霊・救い:メシヤ成就に合わせて、イエシュアは、水-いのち(救い)-神の御霊という比較を用いて、深い告知をされました。

その機会は、仮いおの祭りの最後の日、エルサレムの宮でおとずれました(ヨハネ7:37)。儀式的な手順のすべてと共に、日々祭司が金の壷にシロアムの池から水を運んできては音楽を奏で、ラッパを吹き鳴らし、様々な儀式をしながら、宮の山に運び戻すということをしていました。それから、それが祭壇の西側に運ばれて、底に穴の開いた銀の鉢に注ぎ出されました。これは3つの事柄を表していました。

  1. 荒野で先祖たちに供給された水の記念。
  2. 降り注がれる雨の象徴であり、それは長い乾期の終わりに、「はじめの雨」をくださるよう、待望した一種の「ポンプの水」を示す。
  3. メシヤ来臨の聖霊の傾注の提示。

民がこれを一週間ずっと見守った後、その週の終わりにイエシュアは立ち上がって言いました。「『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。このことばを聞いて、群衆のうちのある者は、『あの方は、確かにあの預言者なのだ。』と言い、またある者は、『この方はキリストだ。』と言った。またある者は言った。『まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。』(ヨハネ7:37-41)。そこにはメシヤ待望の空気が漂っていました。この水が象徴するところは、イエシュアがご自分を主張するために用いたメシヤのしるしそのものでした。井戸の女同様に(ヨハネ4)、イエシュアは水を、救いの一部として、私たちめいめいのうちに宿る、御霊になぞられました。

イザヤはそれを、こう表現しました「あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む」(イザヤ12:3)黙示録22章1-3節では、いのちの川が神の御座から流れて、都に実り豊かないのちを与え、ついには諸国民へのいやしをもたらします。「もはやのろわれるべきものは一切ない…」

救いの確認としての水:聖書において、水はいつも肉体的にも霊的にもきよめの象徴でした。旧約聖書では、祭司や民が着物を洗い・手を洗い・ミクヴァ(清めの水槽)の中に身を浸し、洗礼のようにきよめをするよう命じられています。これは、日々の生活でも、幕屋や宮で主につかえることでも同じように真実でした。水で洗うことは、神が罪を取り除いてくださることを象徴しています。詩篇の作者は言います。「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう」(詩篇51:7)。イザヤは言います。「どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。『さあ、来たれ。論じ合おう。』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。』」(イザ1:15-16、18)

ミクヴァの儀式、あるいは儀式的なもく浴から、新約聖書のバプテスマを見ます。バプテスマは、ミクヴァのように、内側に起きている霊的なみわざの外側のしるしです。これは信仰の重要な一歩であり、主から受けた救いへの託身を宣言するものです。バプテスマは聖別される信仰の一歩です。水は聖霊のようです。神の御霊の水によって、私たちはすべての不義からきよめられます。

サウロがダマスコ途上で盲いたとき、アナニヤという人が訪れました。彼は見えるようになるようサウロのために祈り、そうなりました。そしてアナニヤは、神がサウロに与えられた召しを告げました。「私たちの先祖の神は、あなたにみこころを知らせ、義なる方を見させ、その方の口から御声を聞かせようとお定めになったのです。あなたはその方のために、すべての人に対して、あなたの見たこと、聞いたことの証人とされるのですから。さあ、なぜためらっているのですか。立ちなさい。その御名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい」(使徒22:14-16)。再び明確にバプテスマが救いの一部となっており、サウロすら新しく見出した主-救い主-メシヤであるイエシュアへの信仰の確認を必要とされました。

水のバプテスマを受けることは、象徴的にキリストと共に葬られ、新創造されて再び生まれ出ることです。レイ・ヴァンダ-ラ-ンが述べているとおり、私たちの新しいいのちは、憎しみではなく愛を、利己心ではなく柔和を、偽善ではなく正直さを、のろいではなく祝福を示すべきです。私たちはキリストを、そしてより良い生活の道を尊びます。霊的な死から解放され、新しいいのちを得て、以前の破れた混沌とした生活に敬虔な秩序を見出すのです。

召命に対するテスト、また信仰を建てあげる水:イスラエルの生活において、水は障害物、あるいはテストの予型です。神の十分なる祝福に到着し、その召しを成就するために、渡らなければならないものでした。神は彼らに約束を与えましたが、信仰のテストとして、彼らの前に障害物を置かれました。彼らは約束を成就するために、主に信頼をおいたでしょうか。

エジプトの束縛から解放され、紅海の岸辺まで来たへブル人を、神の臨在が火と雲の柱をもって導いたことを、出エジプト記に見ます(出13:17-14:29)。神は背後にパロの軍隊の馬のひずめの音が聞こえるまで、彼らそこに留め置かれました。神は彼らを殺すために、荒野に連れ出したのでしょうか。神は一体何を考えておられたのでしょう。その時、モーセが海に向かって手を振り上げると、海は分かれました。イスラエルの子らは、エジプト軍が閉じた海に溺れていくのを尻目に、乾いた地の上を渡って行きました。これによって、神はパロとエジプトに最終的な裁きをくだし、イスラエルの子らには、偉大なるおそるべき力を示されました。

紅海を渡ったことは、イスラエルにとって、ミクヴァ(バプテスマ)の予型だったと、ラビは示唆しています。

彼らは一民族として入り、一国民として出てきました。これは信仰のテストであり、彼らの召命を成就するための聖別でした。彼らは約束の地に入る準備がありました。しかし、民は神を信じず、かえって10人のスパイを信じ、40年間荒野をさまよいました。それから新しい指導者・ヨシュアと共に、再び約束の地の境・ヨルダン川のエリコ対岸までやってきました(ヨシュア3)。このとき、神は彼らに土地・祝福・大勝利を約束されました。しかし、約束を獲得するためには、川を超えねばならず、そのとき川は溢れていました(15節)。岸辺は険しく深みへ直下降しており、溢れる水は急流となっていました。祭司たちが箱を担い、民の前を進むように命じられました。あなたがその祭司のひとりだったと想像してみてください。荒野を40年放浪し、いつ泳ぎを覚えたでしょう。もし、彼らが転んで溺れたらどうなりますか。神は彼らに何を要求しておられたのでしょう。確かに、誰ひとりとして最前列にいたくはなかったと思います。少しずつ水の中に入って行くわけではなかったからです。それは“オールオアナッシング(100か0か)”の全き託身でした。信仰によって、その仕事が成されねばなりませんでした。神は真実であるご自身を、民に供給しました。「箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、…ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが・・上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。主の契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の真中のかわいた地にしっかりと立つうちに、イスラエル全体は、かわいた地を通り、ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わった」(ヨシュア3:15-17)

主の祝福に入る前に、民は障害に直面しながら、その信仰を証明し・道を造り・備えを成してくださる主を信頼しました。同じことを私たち自身の生活の中にも見ます。神がくださった幻を成就するためには、しばしば洪水の中をとおり抜ける信仰が必要になります。これを実行する者は、忠実に道を造ってくださる主が、決して失敗させません。しかし、頭で理解することでは、それが起こることにつながりません。土手の端を離れて、溢れる大水の中に入って行かねばなりません。しかし、それをするなら、次のテストのために、信仰を建てあげる栄光をもたらすことでしょう。

水と神の主権:聖書における水のイメージは、聖句の中で最も効果的に神の主権を明らかにするもののひとつです。

創世記1章にはこうあります。「…神の霊は水の上を動いていた」(2節)。それから、神は、地を形つくるために(6節)、水と空を分け(10節)、すべての植物・被造物・最後に人間を…と、驚くべき創造のみわざを開始されました。

神は御手をもって海を汲み出されました(詩95:5)。神はイスラエルの子らのために、紅海やヨルダン川を分けられました。荒野の岩から水を溢れ出し、雨を控えたり、あるいは注ぐことによって、裁きや祝福をあらわされました。嵐を荒れ狂わせ、また海を静められました。イエシュアは創造物の上に御力をしめし、水の上さえも歩かれました。

水のように慕い求められるべき神:荒野にいる鹿を思い描いてください。多くのカモ鹿がユダヤの樹木のない丘を放浪しています。暑い日、水のない岩の多いユダヤの丘を横切り、エンゲディの冷たい泉にたどり着くことを想像してみてください。このような絵画を心に描くとき、“主の御前にいたい”と願う詩人の激しい願いをより深く理解することができます。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか」(詩42:1-2)。私たちにも主に会うための、そのような激しい願いがあるでしょうか。もし飲み水がなければ死んでしまうように、神を渇望しているでしょうか。

エレミヤは、彼の預言を好まなかった不忠実な国民によって、空の貯水槽に閉じ込められました。しかし、彼は大抵の人が見逃している神の祝福のイメージとして、水を用いました。「私の民は二つの悪を行った。湧水の泉である私を捨て、多くの水貯めを水を貯めることのできない、壊れた水貯めを自分たちの為に掘ったのだ」(エレミヤ2:13)。考えてみてください。神はご自身をいつも枯れることのない、いのちを与える湧水と言っておられます。しかし、神の民は湧水であられる神を無視しました。そして貯水槽を掘り、日々神に寄り頼む代わりに、自分の力でいのちを保持しようと努力しました。しかし、彼らの貯水槽は壊れて無用なものとなってしまいました。私たちは土の器であり、日毎に生きた水が必要です。神を十分に「貯えておく」ことはできません。絶えず神の水(聖霊)の補充を必要とする「こわれた容器」です。自分のまわりにいる他の人々を潤すためには、特に補充が必要です。「私の杯は溢れています」とは、大いなる喜びを示すヘブル的表現です。私たちがいつも満たされていなければ、「あふれ」て他の人々を祝福することはできません。神こそ源です。ですから、成すべきことは、ただ自分自身が「湧水の泉」から飲むことだけです。

これは私たちにとって何を意味するか

聖書を文明・土地・霊的用法の中で理解するなら、著者のイメージに対する、より大きな洞察を得ることでしょう。それらは神が彼らに与えて記録させたことばです。神は最大限そのことばを理解するよう願っておられます。「水」の場合、ただバプテスマという意味だけではありません。日々にわたる神の祝福の水に出会います。飲んだり・入浴したり・泳いだり・あるいはただ雨を眺めたり…といったように、一日たりとも水があなたの生活の一部とならずに過ぎることはありません。このメッセージを一読し、再読して、水に出会うたびに、神が日々豊かに注ぎ出したいと願っておられる、いのちと祝福を考慮してください。それを受け取るのは、私たちの側のことです。それは神の新しいいのちを約束し、私たちの中にいのちをもたらすことでしょう。

エルサレムからシャローム

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