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諸国を狂わせるもの

BFP編集部 1999年5月

歴史の大部分で、エルサレムは世界の中心でした。多くの古代地図が、エルサレムを世界の中心として描いています。これは、神にとってこの都市が非常に特別であることを示しています。旧約時代、エルサレムに宮がおかれ、神の臨在が宿りました。エルサレムは昔も今も、イスラエルの宗教的・政治的中心地であり、神の民の巡礼地でもあります。新約時代においては、イエシュア(イエス)が死んで復活され、昇天された場所です。さらに、来たるべき日、主は再びここに戻ってこられます。

イエシュア時代の直後(紀元70年)、第二神殿が崩壊し、ほとんどのユダヤ民族がローマによってその都市・地域から追い出されました。

紀元133-135年、ユダヤ人のローマに対する激しい反抗にもかかわらず、その都市はすっかりユダヤ民族の手から離れてしまいました。ローマの征服者は、都の名前をエルサレムからエリア・キャピトリに変え、年に一度「神殿の崩壊を嘆く日」を除いて、ユダヤ人が都に入ることを禁じました。流浪するユダヤ人たちは、何世代にも渡ってこの都市に戻ることを切望しました。捕らわれの中で、過越しを祝うとき、毎年唇にのぼった祈りは「来年こそエルサレムで…」でした。

この120年間、ユダヤ民族は着実にイスラエルの地に、そして彼らの愛するエルサレムへ戻っています。1948年、イスラエル主権国家が樹立され、彼らはこの土地の西半分を首都としました。アラブと回教徒世界は、数々の戦争を引き起こし、この進展を阻もうと戦いを挑みました。エルサレムは、ルカ伝21章24節のイエシュア預言の成就である、六日戦争(1967年)をとおして、完全にユダヤ主権を取り戻しました。「異邦人の時が終わるまで(英文:成就するまで)、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。」

今日、エルサレムをめぐる平和の欠如に、世界は動揺しています。

ヤセル・アラファト氏は、エルサレムを首都とするパレスチナ主権国家を、1999年5月4日に宣言すると再三主張しています。たとえ宣言の期日が遅れても、エルサレムは国際的な綱引きにおける引火点、また「綱」となるでしょう。

毎年、モスレムの聖なる月「ラマダン」の最終日、回教徒世界はエルサレムにおけるユダヤ人の主権に抗議します。彼らはそれを「アル・クッヅの日(アラビア語でエルサレムの意)」と呼びます。今年の1月、抗議は全回教徒社会に広がりました。最大のデモはイランで行われ、都市に300万人が集結しました。何十万人もの人々がテヘランのラリーに参加し、「戦闘的シオニストを撲滅するまで戦いぬく」という決意書が読み上げられ、そして「エルサレムはイスラムの一部だ」と書いた、アヤトラ・コメイニによるスローガンを書いた旗が掲げられました。イラン国会演説者-アリ・アクバル・サテクー・ノウリは、金曜日の祈祷礼拝で言いました。「イスラエルという名の国はない。あるのはパレスチナだ。パレスチナ人の家々を占拠した盗人たちは、その家から追い出されるべきである。」

エルサレムはユダヤ民族の歴史的な首都であり、礼拝の中心地であるという事実を、世界の人々は忘れているかのようです。イスラエルがその歴史的首都を保持しようともがいている現在、国々はもう一度その都市を分割し、可能であるならユダヤ主権を取り除こうと計画しています。

神が再建されたエルサレムが、将来諸国家にとって重い石となる日について、預言者ゼカリアは語りました。この都市を神は諸国家を計るメジャーとして用いられるのです。神のご計画を理解し、エルサレムに対するヴィジョンを支持する人々は祝福されるでしょう。神は力を現し、この都と民を擁護します。神はゼカリアをとおして言われました。「見よ。わたしはエルサレムを、その回りのすべての国々の民をよろめかす杯とする。ユダについてもそうなる。エルサレムの包囲されるときに。その日、わたしはエルサレムを、すべての国々の民にとって重い石とする。すべてそれをかつぐ者は、ひどく傷を受ける。地のすべての国々は、それに向かって集まって来よう。その日、…主の御告げ。…わたしは、すべての馬を打って驚かせ、その乗り手を打って狂わせる。その日、わたしは、エルサレムに攻めて来るすべての国々を捜して滅ぼそう。」(ゼカ12:2-4、9)

神はまた預言者イザヤをとおして、「すべての国民への怒り、その軍隊に対する激怒」について語りました(イザヤ34:2)。8節でその理由が述べられています。「それは復讐の日であり、シオンの訴えのために仇を返す年である。」諸国民に向けたさばきとは、来たるべき預言の日「エルサレム問題」をめぐることたったのです。さらに35章でイザヤは、再集結し回復した未来のイスラエル王国の祝福について語っています。

預言のとおり、いま全世界がエルサレム問題にかかわりを持ち、メシアの来臨が近づくにつれ、世界の注目の的となりつつあります。私たちは聖書の民として、間違いなく神の都・エルサレムに関する展望を知る必要があります。

エルサレムの何が諸国民を狂気に走らせるのか

この質問には、ブリッジス・フォー・ピースのガリラヤ学習センター主事-ジム・ケリッシュによって、大変良い解答が示されいます。彼の解答はまことに明快で、聖書的基礎に立っています。それを皆さんと分かち合うことにより、現代をよりよく理解していただきたいと願います。今は論争的なときかもしれません。しかし、神の御手が確実に働いている興奮すべきときであり、聖書的な時代でもあります。神がご計画を積極的に遂行しておられるのを目撃する特権を、今に生きる私たちはいただきました。

エルサレムが世界に影響を与える四つの重大な理由

1:エルサレムは聖書の神を思い起させるが、世の諸王国はこの神と闘争している。

エルサレムは、この世にいのちをもたらす神の首都であり中心地です。世界に対する祝福はシオンから出ました。

  • 詩篇48篇は、大王の都・エルサレムの栄光について書いています。「見よ、王たちは相つどい、ともどもにそこを通り過ぎた。彼らは、見るとたちまち驚き、おじ惑って急いで逃げた。神は、その宮殿で、ご自信をやぐらとして示された。」(3節)
  • エルサレムは神が住いとして選ばれたところです。「主はシオンを選び、それをご自分の住みかとして望まれた。これはとこしえに、わたしの安息の場所、ここに私は住もう。私がそれを望んだから。」(詩132:13-14)
  • エルサレムは主の足台であり(詩99:5)、神の御座がある場所(エレミヤ3:17)、聖なる地です。

地上における神の支配を記念する神の都です。それゆえ多くの諸国民やグループがエルサレムを征服し、「聖書の神」を抹殺し、自らの力を誇示しようと、この地を用いてきました。

今日、ユダヤ主権によって再統一されたエルサレムは、全世界にメシア支配を公言しています。これは世俗的なヒューマニズム観や、新世界秩序をもたらそうとする世俗的政府にとって脅威となっています。それこそ彼らがこの都市を分割し、征服しようと試みるゆえんです。

異教の多くの諸団体が、エルサレムを征服して神のメッセージを消滅させようと働いています。ローマ皇帝-ハドリアヌスが、紀元135年にエルサレムの名前をアエリヤ・キャピトリヤと変えたのもその理由からです。ローマ皇帝として、彼は神とみなされていました。アエリヤ・キャピトリヤ(彼の名がアエリヤというところから、自分の名にちなんで改名)に改め、またイスラエルをパレスチナと改名することで、彼は神の主張を抹殺しようと企てたのです。それがローマ世界覇権の刺となりました。

回教徒世界もまた、紀元7世紀にエルサレムを征服し、ただちに古代の神殿跡にモスクを建てました。それは今なお、同じ場所に建っています。エルサレムは「三つの唯一神教」、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の首都です。しかし、イスラムのアラーは聖書の神ではありません。それがおのずとエルサレムにおける神礼拝の問題を混乱させています。この都における神礼拝は、神のご計画の成就にとって非常に大切です。そこで私たちはたずねなければなりません。神とは誰か-聖書の神か、アラーの神か。現在、両者ともこの都を自分のものだと主張しています。また、エルサレムはだれの都なのか-ユダヤ民族が聖書の神との契約における所有者なのか、それともイスラムの神に従うパレスチナ人のものなのか。回教徒世界は、エルサレムからイスラエル人を追い出すために、イエハド(聖戦)を求めており、世界は彼らを鎮めようと、「和平」の名を使ってエルサレム再分割を求めています。聖書において神は、「イスラエルの神」と200回以上書かれています。イスラエルの神を受け入れない人々は、神の地・神の都-エルサレムにおけるご計画を決して受け入れません。神の大切な場所や民に対抗し、神を否定し、暴力を振うこの世の霊について、聖書が語っています。これはエルサレムに、歴史的に起こってきましたし、将来もそうでしょう。歴史全体にわたって、地上における神の計画と聖書を否定し、それに対抗してきた多くの世界機構が存在ました。そして、彼らの声をシオンから上げるべく、イスラエルとエルサレムに対抗し、最終的には神が確立された聖書のメッセージに対抗するにいたりました。

神に反発する将来の社会を啓示された、ネブカデネザルの夢(ダニエル2章)を、預言者ダニエルがときあかしました。王は夢の中で像を見ました。「王さま。あなたは一つの大きな像をご覧になりました。見よ。その像は巨大で、その輝きは常ならず、それがあなたの前に立っていました。その姿は恐ろしいものでした。その像は、頭は純金、胸と両腕とは銀、腹とももとは青銅、すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土でした。あなたが見ておられるうちに、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを打ち砕きました。そのとき、鉄も粘土も青銅も銀も金もみな共に砕けて、夏の麦打ち場のもみがらのようになり、風がそれを吹き払って、あとかたもなくなりました。そして、その像を打った石は大きな山となって全土に満ちました。」(ダニ2:31-35)

ダニエルは王に、「その像の各部分は、やがて消滅する世界の権力をあらわすものである」と告げました。神は決して破壊されることのないひとつの「石」(神のメシヤ王国)を起こされます。それがこの世の諸王国を粉砕し、彼らを終わらせます(44節)。

この世の諸国王とは何か

  • 金の頭はバビロンです。これは神なき宗教をあらわします。バビロンは宗教に満ちていました。彼らの巧みに発展した異教機構は、今日多くの形態がそのまま降盛を保っています。
  • 銀の腕はペルシャ帝国です。これは神なき政治をあらわします。「変え得ない」法律体系を持っていましたが、彼らの法律は神の法律にではなく、彼らの肉にもとづくものでした。
  • 青銅の腹はギリシャです。これは神なき知識をあらわします。教育がギリシャを支配しました。彼らの知識は神に関するものではなく、知識のための知識でした。
  • 鉄の足はローマです。これは足のように東と西の二つの帝国に分裂しました。ローマは神なき権力をあらわします。ローマは力で帝国を拡張し、多くの民、国土を征服しつつ地上を行進しました。彼らには筋肉があり、もし戦線を離れるなら、その人はその権力の鉄挙を覚悟せねばなりません。彼らにとって力が正義でしたが、それは神なき権力でした。
  • 粘土と鉄の足は、強そうに見えましたが、実のところ弱くもろいものでした。究極的には、彼らはこの像を支えるほど強くありませんでした。その像を打つ石がシオンから出て、それを粉々にしました。

これらの各勢力には優勢な時期があり、今日の世界機構に彼らの印を残しました。現代の社会において、私たちは確かに神なき宗教・神なき政府・神なき教育・神なき権力を見ます。これらの機構は、すべて神と聖書をあざ笑います。かつてのバビロン・ペルシャ・ギリシャ・ローマ帝国は、おのおのこの属性のひとつを代表しましたが、今日の社会はそれをみな体現しています。世界は「新世界秩序」へと移行しつつあります。それがなし遂げられると、神に関する「聖書信仰」「教会」「イスラエル」「ユダヤ民族」を含め、いかなるものをも押さえ込むことでしょう。

やがてメシアがエルサレムに登場します。メシヤがシオンから支配、統治されます。主はその像の足元を完全に打ち、粉々に砕かれます。その像はずっと粘土の足の上に保たれてきました。この基礎的な不安定さが、ついには全能の神とその石によって破壊されます。

エルサレムは神の民を思い出させるので、全歴史を貫いて世界機構はユダヤ人のもつ主権に挑戦してきました。ネヘミヤをあざけり、彼の労働者にシオンの壁は決して建たないと語ったゲシェル、トビヤ、サンバラテがいました。これがネヘミヤの日です。彼らはネヘミヤにオノの平野に出て、平和条約に署名するよう求めましたが、彼は拒否しました。時は変わり、役者や名前は変わりましたが、イスラエルやエルサレムに対抗する世界のプログラムは依然同じです。時間を稼いでエルサレムの回復を妨げるなら、「避けることのできないメシヤの到来と、彼らの廃位を遅らせることができる」-この世の機構はそう考えています。

ここしばらく、エルサレムをめぐる霊的戦闘は激化するでしょう。詩篇2篇では、「なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか」という疑問を投げかけ、究極的結論を提示しています。「天の御座に着いておられる方は笑う。主はその者どもをあざけられて言う…わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに」(4-6節)。これが神の応答です。

2:エルサレムは人々に神の律法を思い起させる。

第二次世界大戦後、社会のしきたりは崩壊を始め、すべての人が「自分自身」のことだけを考えるようになりました。今や反逆が社会を支配し、型破りや異常が「解放されている形」としてたたえられています。もし「いいと感じるならすればよい」と、何でも自分の目に正しいことをしています。かつての社会で讃えられていた聖書のしきたりは、今や時代遅れ、流行遅れとしてあざけられています。

今日、盲人となった人々は、感情によって行動しています。まことに盲人が盲人を導いているのです。これに反して、神の民は目を開き、みことばと律法にもとづく信仰によって歩まねばなりません。横行する不法は、律法やみことばの説かれる場所に生き残ることはできません。それこそ世界のメディアが、聖書的な価値感や律法に反対する理由です。世俗的なヒューマニストは、勝手気ままな生活様式を疑問視する聖書的価値観など聞きたがりません。彼らは悪いものを、善いものと呼びながら、神のことばに立つ人々をあざけり、彼らを悪者と呼びます。そしてみことばの外側に生き、みことばに反抗しています。興味深いことに、彼らはシオンに再び神の統治が樹立されるのを望まないグループでもあります。

教会でさえ、不法に対して弱腰になり妥協しています。多くの者が「感情」に道をゆずり、神のことばにはっきり反する世的な実践の多くのことさえ、とり入れはじめています。ある者は教会を背教の中へと捨て去りました。第二テサロニケ2章3節では、これを、メシヤが来られるしるしとして述べています。「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教のことが起こるまでは、主の日は来ないからです。」

「食べ・飲み・楽しめ」の精神と生活様式が、教会の中にも横行しています。第二テサロニケ5章3節は、この愚者の楽園に盲るなと警告しています。それは長続きしません。「人々が平和だ。安全だ。と言っているそのようなとき、突如として滅びが襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨ようなもので、それをのがれることは決してできません。」

エゼキエル13章には、自分たちのいつわりの教えをよいものと呼び、実際には平和がないにもかかわらず、「平和だ、平和だ」と言って、神の民をあらぬ方向へ導く偽預言者があらわれると書かれています。そして、これらの指導者たちに対する神のことばも記録されています。石の上に家を建てる代わりに、彼らは砂の土台の上に家を建てています。彼らは石膏で家を固めつつありますが、神はこれらの構築物を雨と風をもって溶かし去るでしょう。それらは、嵐がやってくると耐えられません。

神に抗し、反逆的な人々に神は言われます。「ああ。反逆と汚れに満ちた暴力の町。呼びかけを聞こうともせず、懲らしめを受け入れようともせず、主に信頼せず、神に近づこうともしない」(ゼパニヤ3:1ー2)。この箇所には反逆的な行動が記されています。それから神は彼らをみなさばくと言っています。「…わたしは、あなたのうちに、へりくだった、寄るべのない民を残す。彼らはただ主の御名に身を避ける」(ゼパニヤ3:21)

私たちは神の警告を心に留め、この世の道、偽預言者、また「もし善いと感じるなら、それをしなさい」という、現代の嘘に導かれないようにしましょう。神の側に生きることは訓練を要します。世はしばしば神から私たちを引き離しそうとします。多くの世的なもののために、それに抵抗するのは容易なことではありません。困難ではありますが、弱いときこそ神は私たちを強くしてくださるのです。聖書は神の手引書です。この書を無視することは破綻のもとです。聖書を基準としなければ、何事も判断することの許されない時代にあって、真理の側につく必要があります。

聖書信仰者として、強制的に見えることも、耳に響くことも、この世と調子を合わせるわけにはいきません。これは偽りの人間的「平和」をもたらそうとする、イスラエル人のエルサレムに主権に抗するこの世の主張も含みます。

イスラエルもまた、平和が来ないのに平和を約束する、この世の計画に追従し、説得されないよう、ことばの信仰に立つ必要があります。イスラエルは、パレスチナ当局に対して、既に聖書の約束・イスラエルの入り口で、エリコやアコルの谷(希望の谷)、ヨシュアがイスラエル部族に分割したシェケム(ナブルス)、イエシュアの降誕の地ベツレヘム、イスラエルの族長であった父や母を葬り、ダビデによるイスラエルの最初の首都であったヘブロンを手渡しています。

詩篇83篇4-7節に、諸国民がイスラエルの地を奪いにやってくるとあります。「彼らは言っています。『さあ、彼らの国を消し去って、イスラエルの名がもはや覚えられないようにしよう。』彼らは心を一つにして悪だくみをし、あなたに逆らって、契約を結んでいます。それは、エドムの天幕の者たちとイシュマエル人、モアブとハガル人、ゲバルとアモン、それにアマレク、ツロの住民といっしょにペリシテもです。」しかし、イスラエルがどのような圧力に直面しても、ただ強く立ちさえするなら、それに応じて神はイスラエルを擁護してくださいます。

多くの諸国が、エルサレムの神の御座をさん奪し、自らのメッセージをシオンから発したい願っています。しかし、イザヤは言います。「それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。」(イザヤ2:3)

3:エルサレムは神の活動の根拠地である。

エルサレムは、神のご臨在が宿る、宮がある場所でした。みことば、「聖書」はシオンから出ました。聖書66巻のうち、64巻がユダヤ人によって書かれました。私たちの救いは、イエシュアが死んでよみがえられた、エルサレムでなし遂げられました。そして、エルサレムに主は戻って来られます。エルサレムは、地上で唯一、最も大切な神の都です。神はすべての人々、すべての国々を愛し、その救いを願われますが、イスラエルとエルサレムは、最初の愛が注がれた場所です。

主は戻って来られます。「主はこう仰せられる。『わたしはシオンに帰り、エルサレムのただ中に住もう。エルサレムは真実の町と呼ばれ、万軍の主の山は聖なる山と呼ばれよう』」(ゼカ8:3)。ときが満ちて、イエシュアがいらっしゃることによってのみ、真の平和が広がります。

詩篇102篇21-22節は、諸国民がエルサレムに来て主を礼拝すると宣言しています。「人々が、主の名をシオンで語り、エルサレムで主を賛美するために。また、国々の民や、王国が共に集められるとき、主に仕えるために。」ゼカリヤ14章16節は言います。「エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。」すっかり回復したエルサレムは、サタンにとって脅威です。それゆえ、エルサレムにある神のご計画を破壊するべく、霊的領域ですべての栓が引き抜かれ、物理的領域でにあらわれています。

4:エルサレムはきたるべきさばきを思い出させる。

エルサレムに関する、世の諸国における論争について、すでに述べました(イザヤ34)。預言者ヨエルもそのテーマを取り上げ言っています。「わたしはすべての国民を集め、彼らをヨシャパテの谷に連れ下り、その所で、彼らがわたしの民、わたしのゆずりの地イスラエルにしたことで彼らをさばく。彼らはわたしの民を諸国の民の間に散らし、わたしの地を自分たちの間で分け取ったからだ。彼らはわたしの民をくじ引きにし、子どもを遊女のために与え、酒のために少女を売って飲んだ。」(ヨエル3:2-3)

神は諸国民がこの地と民を軽んじ、蔑してきたそのやり方に怒っておられます。神はその地を分割し、「目のひとみ」と呼ばれるユダヤ民族を虐待したことを怒っておられます。

マタイ25章には、主が戻られたときの諸国民に対する神のさばきが記述されています。「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。」(マタイ25:31-33)

それからマタイは更に筆を進め、右手の羊の国々が「神の永遠の御国」において祝福され、左手のやぎの国々が「悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火」に送られる情景を描いています。この相違は何でしょうか。基準は、彼らがいかに主の兄弟たちである、小さい者たちイスラエルとユダヤ民族を取り扱ったかにもとづきます。

彼らが飢えていたとき食べさせ、彼らが渇いていたとき飲ませ、彼らが裸だったときに着物を着せ、牢獄にいるとき彼らを訪ねたでしょうか。私たちはどうでしょう。私たちも神の側に立ち、祝福されることができます。(ブッリッジス・フォー・ピースの救出作戦やエズラプロジェクトは、イエシュアの「兄弟たちの小さい者」を助けるひとつのすぐれた道です)。

私たちにとって、これは何を意味するか

この記事の中で引照した聖句のほとんどは、イスラエルに関する神のプログラムに沿わず、失敗した諸国民の上にくだされるさばきを示しています。神のプログラムは真の平和に抵触するものでもなければ、パレスチナ人やこの世のその他の誰をも傷つけるものではありません。神の計画が十分に実現するとき、それは世界全体の平和を意味します。それこそ、私たちが神の平和計画にかかわりをもつ重要性です。

エルサレムは、昔も今も世に対する祝福とさばきが物理的な形であらわされる、まことに大切な都市です。どんなときにも、エルサレムを神が定められた都と考え、祝福を求め、平和のために祈り、神を重んじ、その民を重んじる人々に対する祝福が必ずあります。国連やアメリカ、EEC、Oslo、Wyeなど、人間が考え出した計画ではなく、神の計画を理解し、支持するよう他の人々を励ます必要があります。神は神殿の地帯、オリーブ山を含む旧エルサレムに、いかなる計画にも組みして、それを回教世界に与えることをされません。メシヤはアルグスと呼ばれるモスラムの都に戻って来られるのではなく、回復されたエルサレムというユダヤ人の都に戻って来られるのです。

人々が主の計画に反抗する限り、エルサレムは諸国民を狂わせ続けることでしょう。さばきがくだされるのは、それは主の計画を汚し、それらのものに反抗する人々の上だけです。最善の解決は、シオンに対する神の計画を理解し、それに同意し祈ることです。今日、快楽と平和がないのに「平和、平和」を提供する、この世の神々に調子を合わせるのはいともたやすいことです。

私たちは主の立場をとる必要があります。今日も不動の価値をもつ、ヨシュアのことばの中にこうあります。

「今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」(ヨシュア24:14-15)

エルサレムからシャローム

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