ホーム知る・学ぶティーチングレターバックナンバー > 神を“おそれる”それは恐れる(恐怖)ことではない

ティーチングレター

神を“おそれる”それは恐れる(恐怖)ことではない

1999年4月

聖書全体をとおして、「主をおそれ/恐れなさい(fear)」と命令されています。しかし、第一ヨハネ4章では、「神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます」(16節)、「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します」と言っています。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものになっていません(18節)。

大きな疑問はここにあります。どうすれば主を恐れ(fear)、同時に恐れない(notfear)ことができるのでしょう。ペテロは「神を恐れなさい」(口語:おそれ/新改:恐れ/新共同・フランシスコ・文語:畏れ)(第1ペテロ2:17)と言ます。また、ヨハネは恐れは、愛である神との関係が、不完全であることを現していると語ります。

聖書は矛盾をはらんでいるのでしょうか。

一見そのように見えます。しかし詳細に検討してみると、問題は翻訳であることに気がつきます。聖書にある「畏れ/恐れ(fear)」という言葉は、ヘブル語では異なった8つの言葉、ギリシャ語では異なった6つの言葉の訳語です。新約聖書における「愛(love)」という単語が、微妙に異なった4つのギリシャ語から訳されたことは、大抵の人が知っています。「畏れ/恐れ」もまた、多くの微妙に異なった意味を持った言葉なのです。

英語は非常に単語数の豊富な言語ですが、それでも翻訳によって、間違った意味を伝えてしまうことがあります。大変優れた翻訳である、欽定訳(KingJamesVersion)を好んで読む人々にとっては、特にそうです。400年前の英単語は、今日とは異なった強調がなされ、異なった意味を持っています。ですから、聖書のヘブル語が訳も、同様の意味を持って維持されているとは限りません。幸い、多くの新翻訳聖書では、尊敬してうやうやしく恐れる(fear-revere)と、怖くて恐れる(fear-dread)の相違を表現しているので、より明確に聖書を読めるようになりました。

聖書にある「畏れ・恐れ」の意味

聖句の意味を理解しようとするとき、ヘブル語とギリシャ語の原典に戻るのは大変良いことです。「主を恐れる」(ヘブル語では、YiratHaShem)という概念は、聖書に何百回となく出てきます。「恐れる」と翻訳されているヘブル語の動詞、yareは、正確には「尊敬する」あるいは「尊敬」の意味が込められています。ウェブスター辞書では、尊敬を「深遠な憧憬的、畏怖を伴った尊敬・敬意・崇敬・献身」と定義しています。これこそyareというヘブル語の意味に遙かに近いものです。興味深いのは、

ウェブスター辞書は、「畏れる・恐れる(tofear)」という動詞の古典的な意味は、「(神に対して抱くような)うやうやしい畏怖を持つこと」と教えています。なぜか現代日常語として使われている畏れ・恐れからは、古典的な意味が失われてしまい、聖書の意図する概念を誤解するにいたりました。

「恐れ」という言葉のより現代的定義は、次にあげるヘブル語単語に近いもので、聖書でも同様に、恐れと訳されています。「ai-mah」-怖い・恐れ・戦慄・嫌悪・恐るべき恐怖。「goor」-見知らない土地で感じる畏縮、または恐れ。「charada」-極度の心配・恐れ・戦慄・震え・怯え・恐れ・恐怖。「mora」-恐るべきこと・恐怖・身震いする恐れ・震え。これらの次に、「恐れ」としてよく使われているヘブル語単語は、「pachad」-仰天する・突然の警戒心・不安で怖がる・震えさせる・警戒させる・怖がる・恐怖などです。

これで明らかになったように、聖書における「畏れ・恐れ」の概念には、「尊敬してうやうやしく畏れる」と「怖くて恐れる」という異なった二つの意味があります。神を「恐れよ」という命令は、神を尊敬してうやうやしく恐れよと言っているのであって、不安で怖がったり恐怖を覚えたりせよと言っているのではありません。

レビ記19章3節に見られる「yare」の使われ方の例に目を留めてみましょう。「おのおの、自分の母と父とを恐れなければならない」(口語:おそれ/新改:恐れ/新共同:敬い・文語・畏れ)。ここで使われているヘブル語の命令も、両親を尊敬し敬意を払いなさいということであり、不安で怖がったり、恐怖に駆られなさいということではありません。聖書において、尊敬してうやうやしく恐れよという使い方は、神と両親について述べるときにのみ使われています。これは、「主の教育と訓戒によって」(エペソ6:4)子どもを育てる両親の行動は、神との共同作業である事実を示しています。

ギリシャ語で書かれた新約聖書にも、主への恐れのヘブル的概念がとらえられています。ペテロがしなさいと言っている宗教的尊敬と畏敬、そしてヨハネが避けなさいといっている、警戒や怯え、極度の恐れ、恐怖などを伝えています。神を尊敬せずむしろ憎む者たちの心に、恐れや恐怖を浸透させることが、神にはおできになります。ヘブル聖書(旧約聖書)、新約聖書とも、この点を非常に明確に表現しています。しかし、神を尊敬する子どもたちまで、そのような感情を持つことを望んでおられません。

正確には、神は何をせよと命令しておられるのか

神を恐れ敬うことと、神を愛することにはつながりがあります。これは硬貨の裏と表です。「尊敬してうやうやしく恐れる」という動詞は、心で思う以上のことです。それは神の御旨に積極的に従うことによる、忠誠心によって外側に現れてきます。

モーセは語りました。「イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることである。」(申命記10:12、13)

イェシュア(イエス)もこう言われました。「もしわたしを愛するなら、わたしの戒めを守りなさい」(ヨハネ14:15/英語直訳)。神の御言葉を守り、正義の道を歩むことは、神との関係を証明するものであり、単なる言葉や「口先だけのお世辞」などではありません。実際行動によって示すことです。

現代のキリスト信仰では、しばしば「信仰と教義」が強調されますが、ユダヤ教では「実践」が強調されています。あなたの行動が、あなたの信仰を現すのです。新約聖書にも「その実によって知るであろう」と書かれています。ヤコブは遙かに簡潔に書いています。「信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです」(ヤコブ2:17)。確かにクリスチャンは「信仰によって救われたのです。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです」(エペソ2:8-9)。しかし、ヤコブは注意を促しています。「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう」(ヤコブ2:14)。行動が信仰の真価を証明します。非常にヘブル的概念ですが、今日の教会にはこれがしばしば失われてしまっているのです。

救いの完成を信仰によって達成する動機は、「神を畏れ・恐れる」ことです。すなわち、尊敬すること・深遠な憧憬的畏れを伴った尊敬・敬意・崇敬・献身的愛を与えることです。もし本当に主を「尊敬してうやうやしく恐れる」なら、人生において、尊敬と愛を神に示したいと思うことでしょう。

この概念を心深くきざみ込み、神との関係をバランス取れたものにしてと願います。あまりにも多くのクリスチャンが、自分はあがなわれているので、主を恐れる必要はないという考えを持っています。もちろん主を怖がったり、恐怖に思うことはありません。しかし、崇拝の畏敬の念で神と接する必要があるのです。現代の礼拝では、時にそれが失われています。これは元通りに正される必要があります。詩篇19篇9節にこうあります。「主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない…」(口語・新改:恐れ/新共同:畏れ/文語:かしこみおそるる)。終わり無く永遠に、主への恐れはきよいのです。新約聖書において、この概念が無視されたのではありません。確認されたのであって、今日の私たちも従うべきことです。

主のご臨在の前に出たとき、モーセは靴を脱ぎました。天皇陛下の前で、私たちはどう振る舞うでしょうか。天皇陛下より遙かに、遙かに高い尊敬と畏敬の念で、王の王、主の主に接しなければなりません。神は私たちにたくさんのことを成してくださったのですから、これは当然のことです。長老派教会で育った日々を思い出します。私は子どもでしたが、祭壇の前の通路立ち止まり、主に尊敬の念を込めて礼をせずにとおり過ぎることはありませんでした。これは単なる「宗教的」なことだと思う人もいるでしょうが、若い命に神への畏敬の念を刻み込むために、この行為は深い影響を与えました。

モーセのように、日常生活において大きな尊敬を払うべきです。そうするなら、神のご臨在に対して、自然に靴を脱ぐようになるでしょう。裸足では生活できませんが、このような精神を持ち、時には実際に行動することによって、もっとうやうやしくなれるのではないでしょうか。

ペテロは言います。「あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなメシアの、尊い血によったのです」(第1ペテロ1:17-19)(口語:おそれ/新改:恐れかしこんで/新共同:畏れ/フランシスコ:畏れ敬い/文語:畏)。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、メシアが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:8)。これが、畏敬の念を起こさせます。

神は人間を祝福したいと願っておられます。しかし、祝福を受けるために、神を自分の「気軽な相棒」のように取り扱うのは、関係が安易なものになり、傲慢になりますから良くありません。主からあまりにも多くのものを受け取ったのですから、なおさらその関係を大切し、己の規約に従うのではなく、主の規約に従って生きるべきです。

さて、主を尊敬してうやうやしく恐れるには、どうすればよいのでしょうか?

1:神の道を歩くべきであり、私たちのやり方や、他の神々のやり方に従うべきではありません。今日、世界中に多くの神々がいて、私たちの注意を引こうと張り合っています。

  • 申命記6章13-15節「あなたの神、主を恐れなければならない。主に仕えなければならない。…ほかの神々、あなたがたの回りにいる国々の民の神に従ってはならない。あなたのうちにおられるあなたの神、主は、ねたむ神であるから、…。」(口語・新改:恐れ/新共同・文語:畏れ)
  • ヨシュア記24章14節「今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。」(口語・新改:恐れ/新共同・文語:畏れ)
  • 詩篇128篇1節「幸いなことよ。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は。」(口語・新改:恐れ/新共同:畏れ/文語:おそれ)
  • 伝道者の書12章13節「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(口語・新改訳:恐れ/新共同・文語:畏れ)

主の臨在に対するイザヤの反応はどうだったでしょうか。へりくだりと自分自身及びイスラエルの民の悔い改めでした。

2:悪に対して、私たちは中立ではありえません。「私も良い、あなたも良い」という理念をかき立てるこの世において、判断の声明はいかなるものでも、今日「政治的には不正である」。しかし、聖書は生活様式を明確にするようにと要求しています。

  • 詩篇34篇13-14節「あなたの舌に悪口を言わせず、くちびるに欺きを語らせるな。悪を離れ、善を行なえ。平和を求め、それを追い求めよ。」
  • 箴言3章7節「主を恐れて、悪から離れよ。」(口語・新改:恐れ/新共同・文語:畏れ)
  • 箴言8章13節「主を畏れることは、悪を憎むこと。傲慢、驕り…(新共同訳)」(日本語訳は上に同じ)
  • 箴言16章6節「主を恐れることによって、人は悪を離れる。」(日本語訳は上に同じ)
  • 出エジプト記18章21節「…神を恐れ、誠実で不義の利を憎む…」(口語訳)(日本語訳は上に同じ)
  • ローマ書11章20節「高ぶらないで、かえって恐れなさい。」私たちは聖い、清い生活を送らなければならなりません。(口語・新改・新共同・フランシスコ:恐れ/文語:懼れ)
  • 詩篇19篇9節「主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。」(口語・新改:恐れ/新共同:畏れ/文語:かしこみおそるる)
  • 第二コリント7章1節「いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。」(口語:おそれ/新改:恐れかしこんで/新共同:畏れ/フランシスコ:畏れ敬い/文語:畏れ)

3:主を礼拝しなければなりません。ヘブル語では、礼拝(avodah)という言葉は、「働く」という意味と同じです。つまり、主を礼拝することは、「何かをすること」を包含しており、単に礼拝に行くことを示しているのではありません。日々の生活において、主の栄誉と栄光にどう仕え、どう生きるかを意味しています。

  • 詩篇2:11―「恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ喜べ。」喜びや歓喜でさえ、神の厳かな畏れを認識することと釣り合いが取れていることとバランスが取れていなければなりません。(口語・新改:恐れ/新共同:畏れ敬って/フランシスコ:おそれ/文語:畏)
  • ヘブル書12章28-29節「…恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である。」(口語・新改:恐れ/新共同・フランシスコ:畏れ/文語:畏懼)
  • 黙示録14章7節「神を恐れ、神をあがめよ。…」(口語:おそれ/新改:恐れ/新共同・フランシスコ・文語:畏れ)
  • 黙示録19章5節「すべての、神のしもべたち。小さい者も大きい者も、神を恐れかしこむ者たちよ。われらの神を賛美せよ。」(口語:おそれる/新改:恐れかしこむ/新共同:畏れ/フランシスコ:畏れ敬う/文語:畏れ)

主を畏れ・恐れる者への恩恵と約束

私たちが命じられている、神への尊敬を込めた恐れには、大きな祝福と約束が伴っています。

この命令を守る者に対して、神が報いてくださることの一覧表を見るなら、神を礼拝して生きることを追い求めないほうが不思議です。

神は私たちを祝福したいのです。ありとあらゆる命の祝福を与え、豊な交わりのために人をお造りになりましたが、罪が私たちを主から離してしまったのです(創世記3)。それでも、神は憐れみによって親しい関係を持ち、様々な方法で愛を示したいと望んでおられます。神の人生に対するご計画を受け入れ、主を尊崇することにより、双方を祝福する「与えそして受ける」関係を確立するのです。

尊敬してうやうやしい恐れを表すとき、どのような結果がもたらされるのか?

救い:

  • 詩篇85篇9節「まことに御救いは主を恐れる者たちに近い。…」(口語・新改:恐れる/新共同:畏れる/文語:おそるる)
  • 使徒行伝13章26節「神を恐れかしこむ方々。この救いのことばは、私たちに送られているのです。」(口語:敬う/新改:恐れかしこむ/新共同:畏れ/フランシスコ:畏れ敬う/文語:畏れ)

神の愛、情け深さ、そして赦し:

  • 詩篇103篇8-13節「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる(yare)者の上に大きい。東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。」(口語・新改:恐れる/新共同:畏れる/文語:おそるる)

この節において、鍵となる概念に気がつかれましたか。神の最高の愛、情け深さ、赦しへの門は、神を「尊敬してうやうやしく恐れること」から始まります。神とどのような関係を持つかが重要です。

知恵、悟り、及び知識:

  • 箴言9章10節「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。」(口語・新改:恐れ/新共同・文語:畏れ)
  • ヨブ記28章28節「見よ。主を恐れること、これが知恵である。悪から離れることは悟りである。」(口語・新改:恐れ/新共同:畏れ敬う/文語:畏れ)
  • 箴言1章7節「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」(口語・新改:恐れ/新共同・文語:畏れ)

真の知恵、悟りそして知識は、必ずしも知的なことではなく、道徳的であることに注目してください。デレク・プリンス(DerekPrince)が指摘しているように、頭の良い愚か者はあちこちに大勢います。

あなたとあなたの子どもたちの守り:

  • 第二列王記17章39節「あなたがたの神、主だけを恐れなければならない。主はすべての敵の手からあなたがたを救い出される。」(口語:敬う/新改:恐れ/新共同・文語:敬ふ)
  • 箴言19章23節「主を恐れるなら、いのちに至る。」(口語・新改:恐れ/新共同・文語:畏れ)
  • 箴言14章26節「力強い信頼は主を恐れることにあり、子たちの避け所となる。」(口語・新改:恐れ/新共同・文語:畏れ)

前途に困難がやってこないとは言いませんが、神が困難から私たちを守り、救出されることに注目してください。更に、子どもたちが神の守りと保護の恩恵を刈り入れ、この時代に歓迎されるという約束です。

必要なものの備え:

  • 詩篇111篇5節「主を恐れる者に食べ物を与え、…」(口語・新改:恐れ/新共同:畏れ・フランシスコ:おそれ/文語:おそるる)
  • 詩篇34篇9節「彼を恐れる者には乏しいことはない。」(口語・新改:恐れ/新共同:畏れ敬う/フランシスコ:おそれ/文語:畏れ)

祝福と報い:

  • 詩篇128篇1節「幸いなことよ。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は。…」(口語:おそれ/新改:恐れ/新共同:畏れ/フランシスコ:おそれ/文語:おそれ)
  • 箴言13章13節「命令を敬う者は報いを受ける。」(口語:重んじる/新改・新共同:敬う/文語:おそるる)
  • 黙示録11章18節「また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時、」(口語:おそれる/新改:恐れかしこむ/新共同:畏れ/フランシスコ:畏れかしこむ/文語:畏れ)

主の臨在の中で、正しい関係を持って住むことにより、祝福の命を持ち、主の御手から驚くべき奇跡を受け取るのです。

幸せ、そしてすばらしい長寿の人生:

  • 箴言28章14節「幸いなことよ。いつも主を恐れている人は。…」(口語・新改・新共同:恐れ/文語:畏れ)
  • 伝道者の書8章12節「しかし私は、神を恐れる者も、神を敬って、しあわせであることを知っている。」(口語:かしこみ・恐れ/新改:恐れ・・敬って/新共同:畏れ・畏れ/文語:畏みて・畏怖)
  • 箴言19章23節「主を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいに会わない。」(口語・新改:恐れ/新共同・文語:畏れ)
  • 箴言22章4節「謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。」(口語・新改:恐れ;新共同・文語:畏れ)
  • 箴言10章27節「主を恐れることは日をふやし、」(口語・新改:恐れ/新共同・文語:畏れ)
  • 箴言14章27節「主を恐れることはいのちの泉、死のわなからのがれさせる。」(口語・新改:恐れ/新共同・文語:畏れ)

何と素晴らしいことでしょう。ここで長寿を約束されていることに注目してください。いくら長寿でも、惨めな人生なら祝福ではありません。この世で遭遇するサタンによって仕掛けられた罠、また人生における罠からの守りを神は約束しておられるのです。さらに、「災いに合わない」と言われます。もし主の御前に正しく生きるなら、神は人生から悪を遠ざけ、夜ぐっすり眠ることができるようにしてくださるのです。今日、あまりにも多くの人々が恐怖の中に生きています。私たちはこの約束を掴まえて、主の保護を感謝すべきです。人間が恐怖の中で生きることを、主は望んでおられません。「恐怖」は神の民の生きる場所ではないのです。

神の栄誉と憐れみ:

  • 詩篇15篇4節「主を恐れる者を主は尊ぶ。」(口語・新改:恐れ/新共同:畏れ/フランシスコ:恐れ/文語:おそるる)
  • 詩篇147章11節「主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。」(口語・新改:恐れ/新共同・文語:畏れ)
  • ルカ伝1章50節「そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。」(口語:かしこみ恐れ/新改:恐れかしこむ/新共同:畏れ/フランシスコ:畏れ敬う/文語:畏れ)同・文語:畏れ)

何か良い行いをして認められ名誉を受けることが、どんなに気分の良いことか誰でも知っています。もし神を尊敬するなら、神ご自身が名誉を与え・それを喜び・憐れみを示されると、これらの聖句は語っています。主ご自身から注目されるとは、何という恩恵でしょう。

癒し:

  • マラキ書4章2節「しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。」(口語・新改:恐れ/新共同:畏れ敬う/文語:おそるる)

人生における肉体の癒し、感情の癒し、あるいは破れた関係の癒しを必要としない人がいるでしょうか。尊敬を持って神の御前に行くとき、神は命の回復を約束してくださいます。

それが私たちの選択

主を尊敬して祝福を受け、力強い実践をした聖書の人物を、全部を書くことはできませんが、次の人々の生活を思い起こしてみましょう。

  • ノアは嘲笑する者がいたにも関わらず、神を信じ箱船を建造した(創世7:1-5
  • アブラハムは、イサクを犠牲にするほんの一歩手前まで試された(創世22
  • ヤコブは、神の契約を確かなものにするために、イスラエルの地に戻った(創世31:3-17
  • エジプトの助産婦たちは、自分の命をかけてヘブル人の赤ん坊たちを救った(出エジプト1:17、21
  • オバデヤは、イゼベルの激しい怒りに反抗して、神の預言者100人をかくまった(第一列王18:3、4
  • ヨシャパテは、アモン人とモアブ人の軍隊によってイスラエルが侵略されようとしたとき、断食を宣言した(歴代誌20:3
  • ネヘミヤは神を信じ、エルサレムに神の神殿を再建するために戻った(ネヘミヤ2:4-12
  • ヒゼキアはエルサレムの人々を助けるために、神を信頼し、神の油注ぎの中で命が延ばされた(第2列王19-20
  • コルネリアスは、一家全員で神を畏敬した(使徒10:2
  • パウロは教会を迫害するのを止め、人にではなく神に栄光を帰したので、教会のもっとも偉大な指導者となった(使徒9)。

神の御心を追い求め、主を尊敬したゆえに、完全な人格ではなかったにもかかわらず、栄誉が与えられた人物の実例を、ダビデの中に見ます。逆に、ソロモンは地上で最も賢明な人でしたが、大勢の異教徒の妻によって主を尊敬することから離れていきました。結果、神は王国を取り上げると仰せになり、それが実現しました(第1列王記11:9-13)。ソロモンの生存中それをなさらなかった唯一の理由は、「あなたの父、ダビデに免じて」(12節)でした。

「どのような関係を持っているか」ということに、神は注意を払われますから、人格が不充分でもある意味で安心していて良のです。神は私たちとの関係を軽々しくは扱うことをなさいません。

申命記28章には、一連の恐ろしい恐怖のできごとが書かれています。民が主を尊敬しないなら、これらが実現することになっていました。そして、この多くがイスラエルに起こってしまいました。

旧約の神だけが正義の怒りを示されると考えないでください。ヘブル書10章26-31節には、同様に恐怖を感じる一節があります。そこには神を嘲笑し、背を向ける人々が、どう裁かれるかが書かれており、このように締めくくられています。「生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。」(口語・新改・新共同:恐ろしい/文語:畏る)

だからこそ、パウロはピリピ人にこのように語りました。「恐れおののいて自分の救いを達成してください」(ピリピ2:12)(口語・新改・新共同:恐れおののき/フランシスコ:畏れおののき/文語:畏れ戦き)。ここで使われているギリシャ語は、「怖がって恐れる」という意味です。ここでパウロは、主との関係に言及するのではなく、「神のプログラム」に到達し、のらりくらりするのを止めるように動機づけようと、自発的感情について述べています。

神の憐れみは永遠に絶えることがない

激しい怒りの下におかれることは、神のご計画ではありません。憐れみと情けとご臨在を感じて、み翼の下、神の愛の中に安らぐことがご計画です。

誰も最初から正しく行動することはできません。もし悔い改めの心を持って主の元に行くなら、主は私たちを引き上げ、磨きをかけ、軌道に戻してくださることをダビデは証明した。

神は私たちとの関係において、祝福を与えたいと強く願っておられます。もしどのように主を畏れ・恐れるかがわからないなら、それを教えるとおっしゃいました。「来なさい。子たちよ。私に聞きなさい。主を恐れることを教えよう。」(詩篇34:11)(口語・新改:恐れ/新共同:畏れ/フランシスコ:おそるべき/文語:畏れ)。

もし主に向かう姿勢が本当に真剣なものであるなら、それを失うことはありません。私たちは主のうちに、誠実な親を持っているのです。主は人間を正しくするために、喜んで助けてくださるお方です。

預言者イザヤは言います。「主を畏れることは宝である」(イザヤ33:6)。(口語・新改:恐れ/新共同:畏れ/文語:おそるる)。この概念には、豊かな内容が織り込まれているので、霊的な宝石の詰まった底無し坑が与えられたかのようです。そして、絶えることのない祝福と豊かさの中に生きることができるのです。主の約束から豊かに受け取るために、常にそこへ戻りましょう。そこには更に備えがあるからです。

この教えの中で述べられた多くの約束は、馴染み深いものです。しかしなぜか「王の子どもたち」の一人であるというただそれだけの理由で、これらの祝福を受けることができると想像してしまったかもしれない。

主とどのような関係を持ち、いかに尊敬していくかということに、これらの祝福は全て関連しています。確かに、主を受け入れたときから、主の食卓で食事をすることができ、王の子どもになるのは事実です。しかし、王の子には責任もあります。私たちは気ままな、無規律な子どもにはなれません。さもなければ、「霊的な悪ガキ」になってしまいます。詩篇36篇1節は、「悪辣な」ものを描写してこのように言っています。「彼の前に、神への恐れはない。」(口語・新改・新共同・フランシスコ:恐れ/文語:おそるる)

神からの豊かさと祝福は、神との正しい関係と御言葉に従順に従って生きた結果です。主のために生きることが負担であったり、苦しい仕事である必要はありません。神の御言葉はその反対を約束しています。それは命そのものであり、豊かな命なのです。

ですから、主に恐怖を覚える関係を持って萎縮するのは止めましょう。王の王・主の主の御座の前に、誠実に尊敬を捧げるしもべとして大胆に出て行きましょう。そこにあらゆる方法で子どもたちを栄えさせたいと願っておられる愛する御父の恵み、憐れみ、そして祝福を見つけ出すでしょう。

罪や神に対する不従順のゆえに、神に対する恐怖が沸き起こるなら、このことを知っておいてください。神は私たちを愛しておられ、神に恐怖を抱くのではなく、尊敬のうやうやしい恐れを期待しておられるということを。実に、「神の憐れみは永遠に絶えることはない。」

神は私たちを待っておられます。
エルサレムからシャローム

記事の先頭に戻る

ページトップへ戻る

特定非営利活動法人
B.F.P.Japan (ブリッジス・フォー・ピース)

Tel 03-5969-9656(平日10時~17時)
Fax 03-5969-9657

B.F.P. Global
イスラエル
アメリカ合衆国
カナダ
イギリス&ヨーロッパ
南アフリカ共和国
日本
韓国
ニュージーランド
オーストラリア

Copyright 1996- © Bridges For Peace Japan. All Rights Reserved.