ティーチングレター

アブラハム -後編-

文:シェリル・ハウアー(BFP副会長)

数々の試練を経験したアブラハムですが、いかなる時にもその信仰が揺らぐことはありませんでした。アブラハムの信仰を見つめ直しながら、その模範に従っていく決意を新たにしてまいりましょう。

アブラハムは、快適な生活を捨て、困難な旅へと出発しました
Photo by Hannah Taylor/bridgesforpeace.com

アブラハムの、真の神への立ち返りという美しい物語は、クリスチャンの間でもよく知られ、語られています。オンラインの『バイブル・ハブ』に、次のような物語が掲載されています。

「ある夜、アブラハムが山の上で仰向けになり天を仰いでいると、突然光り輝く美しい星が現れた。アブラハムはその星の栄光に満たされて叫んだ。『これが私の神だ。私はこれを礼拝する』。しかし悲しいことに時が過ぎるとその星は沈み、消えてしまった。アブラハムは悲しんで言った。『闇に消えてなくなる神を礼拝して何になるのか?』その後、丘の上に月が昇り、地上を銀色の光で満たすと、星の光さえも消し去った。アブラハムは再び叫んで言った。『ついに星よりも美しく偉大な物が現れた。あなたは星よりも価値がある私の神だ』。しかし、月も消え去り、闇に沈んでしまった。

アブラハムは絶望して叫んだ。『もし神々が私を見捨てるなら、過ちの中にある他の人々と私は何も変わらない!』しかし、間もなくまばゆく輝く太陽が昇った。太陽は闇とアブラハムの疑いを蹴散らした。『あなたは月よりも星よりも偉大な私の神だ!』とアブラハムは叫んだ。しかし夜が来て太陽は沈み、月や星のように消え失せてしまった。アブラハムは一人悲しげに天を見つめた。その時、星と月と太陽をつくられたお方がおられるという認識に、アブラハムは圧倒された。再びアブラハムは叫んだ。『私の民よ、ついに分かった!疑いや混乱から解放された。私は天と地をつくられたお方に顔を向ける。このお方だけが私の神!』」

使命

賢者たちは、創世記12章1-3節はアブラハムの情熱的な信仰表現に対する神の応答であり、神の友となった人間との最初の交流記録だと言います。唯一真の神、死んでいる者ではなく生きている者の神は、あわれみと恵みに満ちた良い神です。恐怖と脅迫によって支配する神々とは違います。主は究極の権威と力を持っているにもかかわらず、人格的な神として自分の子どもたちと親密に交わることを願っています。主は、そよ風の吹くころにアダムと共に歩かれた神であり、私たちの友となってくださる神です。

ユダヤの伝承によると、アブラハムは神から与えられた自分の使命の重要さを即座に認識しました。アブラハムに与えられた使命は、神が唯一の神であるという真理を世に知らせることだけではありませんでした。また、すべての人を敬い、やもめや孤児の面倒を見、弱い者を守るという、神が求める道徳的な行動規範に従うよう宣べ伝えるだけでもありませんでした。アブラハムは福音と希望を運ぶ最初の伝道者として送り出されたのです。

アブラハムはどんな人でも自分の天幕に迎え入れました
Photo by Hannah Taylor/bridgesforpeace.com

アブラハムは、敬虔(けいけん)という人間の特質を具現化しなくてはなりませんでした。その中には平和をつくることも含まれます。だからこそ、ロトの羊飼いたちがアブラハムの羊飼いたちとの境界線を守らず口論になった時、アブラハムは力や暴力に訴えることなく両者を引き離すことにしたのです。

アブラハムはどんな人でも自分の天幕に迎え入れ、食事と安全な場所を提供しました。彼は人々を親切にもてなし、さらに召使いではなく自ら用意した豪華な食事でもてなしました。アブラハムは揺るぎない信仰の持ち主で、直ちに従いました。何より神の愛とヘセド(恵み)を映し出す人でした。アブラハムの神は、はかり知れない無条件の愛と優しさ、赦し、誠実を具現化したお方です。アブラハムもまた、無私の態度で数々の親切な行為を行ったことがユダヤの伝承に記されています。それは、唯一真の神の品性を表す方法でした。アブラハムは感謝されると、「唯一真の神に感謝してください。万物の創造者である神の愛によってできたことですから」とへりくだって答えています。

アブラハムの10の試練

しかし、アブラハムは敬虔な性質を自然と身に着けたわけではありません。彼は、良い香りのする風呂や、家族や友人の安全、快適で豊かな生活を捨て、遠く離れた見知らぬ国に向かう困難な旅へと出掛けました。

アブラハムは模範とされる人物になるまでに、10の試練を通ったと言われています。神が備えられた試練ですが、目的はアブラハムがどんな応答をするかを知るためではなく、アブラハムの限界を示すと共に、いかなる試練の中でも共におられる神の誠実さを証明するためでした。

最初の試練は、ウルの偶像礼拝制度に逆らい、友人や家族を退け、父親が最も大切にしていた多神教に背いて唯一の神を礼拝したことです。二つ目の試練は、自分の生まれ故郷と父の家を出(創12:1)、愛し、慣れ親しんだものから離れ去ることでした。その一方で神は、新しい故郷を約束されています。その地でアブラハムは祝福され、世界の祝福ともなるのです。ところが、到着直後、飢饉 (ききん)に襲われたアブラハムは、唯一真の神の福音を伝える能力を問われ、大いに士気をくじかれました(創12:10)。その次にアブラハムは命の危険を感じ、パロに妻を差し出さざるを得ませんでした。また、平和を好むアブラハムでしたが、おいのロトを救うために戦うことを余儀なくされました(創14:13-16)。この後99歳になってから、痛みを伴う割礼を受け(創17:24)、ゲラルの王アビメレクに再び妻を差し出すことを余儀なくされたのです(創20:2)。

さまざまな試練を経験し、信仰の父となったアブラハム Photo by Aziz1005/wikipedia.org

しかし、アブラハムにとって最大の試練は、自分の最愛の者に関わる試練でした。ハガルと長子イシュマエルの追放という感情的な痛みに立ち向かわなければならなかったのです。相続人である息子と別れることは、確かに苦悩があったでしょう。しかし、従順で神を信頼するアブラハムは、ラビ・サックスが言うところの「高尚な信仰」によって神の導きに従い通しました(創21:9-14)。九つ目の試練はモリヤの山で息子イサクを捧げることでした。この行いに伴う痛みと恐怖は決して誰にも想像することはできません。しかし、これはアブラハムにとってすべての世界観を明け渡すことでした。アブラハムは家族の所有者ではありません。イサクを捧げた時、彼はすべてを明け渡したのです。それが成し遂げられたのは、ただ卓越した信仰によってのみです(創22:1-18)。

イサクを捧げることが最後の試練だったと語る教師もいますが、ある教師はサラの死が最後の試練だったと言います。共に年月を過ごし、困難や悲劇に直面し、共に働いたサラは、アブラハム同様、世界の人々に神について教えることに献身していたと賢者たちは言います。アブラハムはサラがパートナーであって、所有物ではないことを学んだ後、一人きりになりました。神が、アブラハムとその子孫にカナンの地を与えるとたびたび約束してこられた事実は、最も困難な試練を生じさせました。自分の妻を埋葬する時に、その土地がなかったのです。そして、ヘテ人エフロンからマクペラの洞窟を買わなくてはなりませんでした。

あなたがたの切り出された岩を見よ

アブラハムは確かに自分の使命を達成しました。試練は非常に大きなものでしたが、アブラハムの主に対する信仰は決して揺らぎませんでした。ラビ・サックスは次のように語っています。

「これがアブラハムの信仰です。星の数ほどの子孫を約束された男には、契約を継承する子どもが一人しかいませんでした。エジプトの川からユーフラテスの大川に至る土地を約束された男は、ただ一つの畑と墓地しか得ませんでした。しかしそれで十分だったのです。旅は始まりました。アブラハムは、神に与えられた使命を完成させるのは自分ではないことを知っていたのです」

アブラハムは神と共に歩み、唯一真の神のメッセージを広め、仲間を愛し、信仰と信頼という高尚な人生を歩みました。再びラビ・サックスの言葉を借りれば、「生涯の終わりに際し、アブラハムは威厳に満ち、満足し、穏やかでした。ユダヤ教(とキリスト教)にはさまざまな英雄がいますが、神の召命を初めて聞いて旅を始めたこの人ほど威厳のある人はいません。その旅の途上に私たちもあるのです」

アブラハムという模範に倣うことは、はっきり言って大変なことです。しかし、私たちの神は同じヘセド(いつくしみ)の神であられ、親密な関係を願い、どんなに長く困難な旅路の中でもその誠実さは変わりません。私たちがすべきことは、神は私たちを決して失望させないと、アブラハムのように固く信じ、神にすべてを明け渡すことです。アブラハム同様、使命を全うするのは私たちではありません。私たちはただ、誰もが神の愛を見ることができるように、それを映し出していくだけです。

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