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信仰と行い -前編-

TEXT:シェリル・ハウアー(BFP国際開発部長)

多くのクリスチャンが、ユダヤ教を「行いによる救い」の宗教だと考えています。今月と来月は、その誤解を解きながら、聖書の語る「信仰と行い」の関係を今一度考えます。

イスラエルに住んでいると、自分とは違う考え方があることをしばしば体験します。その一つは信仰と行い(もしくは恵みと行い)についてです。このことについてユダヤ人とクリスチャンは違う考え方をしているようです。モシェ・ケンピンスキーという正統派のユダヤ人の友達は、クリスチャンとの会話の中で何度も不愉快な思いをしたそうです。クリスチャンはユダヤ教を律法や行いを重視する劣った宗教だと言って過小評価し、キリスト教こそ勝ったものだと説得しようとしたというのです。モシェは、クリスチャンは、ユダヤ教徒が律法を重視する動機を誤解していると言っていました。モシェが聖書の律法を守っているのは自分の救いを勝ち取るためでもなければ、律法を守らなければ神から罰せられることを恐れているからでもありません。むしろそれは律法を与えてくださった神を愛しているからなのです。

キリスト教のユダヤルーツについて多くの本を著したクリスチャン作家のブラッド・ヤングは二人のしもべに領土を任せて旅に出た王の例え話をしています。しもべのうちの一人は主人を恐れると同時に主人を愛していました。それに対してもう一人のしもべはただ主人を恐れていただけでした。主人を恐れながら愛していたしもべは自分に割り当てられた領土を立派に管理したので、帰ってきた王は大変満足しました。しかし、ただ主人を恐れていただけのしもべは領土の管理をおろそかにしたのです。ヤングは次のように締めくくっています。「畏敬(いけい)と愛に基づく神への信仰を持っていたしもべは、神からの承認を得るために献身的に仕えて熱心に働きました。恐れだけで愛がなくては不十分なのです。王を愛する人は王の命令に従い、毎日の生活の中で王を喜ばせようとするのです。」

恵みによる救いか、行いによる救いか

クリスチャンは誰でも、自分のした行いによって救いを勝ち得ることはできないと信じています。パウロは次のように言っています。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:8-9)これはキリスト教にとって重要な聖句です。私と同じように幼少期にこの聖句を暗唱した人もいるかもしれません。

しかし、続く10節には、こう書かれています。「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」(エペソ2:10)この良い行いとは何のことでしょうか。パウロはたった今、行いによるのではありません、と言ったばかりではありませんか。私はこの節を暗唱したことはありません。どうして暗唱しなかったのでしょうか。私たちは何か、見逃しているのでしょうか。

パウロはユダヤ人でしたが、異邦人の使徒と呼ばれていました。パウロはユダヤ人として、正しい行動の重要性を信じて育てられました。今も、ユダヤ人は良い行いを重視しています。私たちはユダヤ人からパウロの教えの基礎となったことについて学ぶことがあるのではないでしょうか。

ユダヤ人は行いによって救いを獲得すると信じているのか

冒頭に書いたように、ユダヤ人は律法を守ることによって救いを得ようとしていると、考えるクリスチャンがいます。しかし、本当にそうなのでしょうか。マービン・ウィルソン博士は著書、『私たちの父アブラハム』の中で「今日の教会は一般的に、ユダヤ教は律法の行いによる救いを教えているが、キリスト教は恵みの宗教であると信じている」と語った後、カール・D・エバンツの「説教や教えを通してこの見解を広めてきたと言う点で、私たち(教会)は、誤った情報を流すという罪を犯している」という言葉を引用しています。またウィルソンはユダヤ人の新約聖書学者ピンカス・ラピドの「ラビはトーラー(創世記-申命記)を救いの道と考えたことはなかった。救いは神のみが持っている権限なので、私たちユダヤ人は純粋な恵みを支持している」という言葉を引用しています。ラピドはまた、タルムード(ユダヤ教の伝統とヘブライ語聖書のラビによる注解書)に熟達した人は誰でも、「救いは『神の豊かな愛によってのみ』与えられる」と教えていることも強調しています。多くのユダヤ人と話しをする中で分かったことは、ユダヤ人は律法を救われるために守るものというよりは、神と契約を結んでいる者の行動基準と考えているということでした。言葉を変えて言うとユダヤ人は神と契約を結んでいるので、神がトーラーで指示しているように行動するのが当然だというのです。

ユダヤ人は救われるために律法を守るのではない
©Knelsen Kollection.com/ Rick & Grace

簡単に言えば、クリスチャンもユダヤ人も救いや神との契約関係を、行いによって勝ち取ることができるとは信じていないのです。両者とも救いは神からの賜物だと信じているのです。これは両者が完全に一致していると言う意味ではありません。メシヤが誰であるかについて両者には大きな意見の相違があります。

正しい行いの意味すること

では行いをどう捉えればよいのでしょうか。神は私たちに何を期待しておられるのでしょうか。行いは重要なのでしょうか。ユダヤ人著述家ウィリアム・シルバーマンは次のように書いています。「聖書的価値観と行いを分けることはできない。行いを通して信念を表さなくては不十分である。」シルバーマンよりずいぶん昔のユダヤ人著述家も同じようなことを書いています。「信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。さらに、こう言う人もあるでしょう。『あなたは信仰を持っているが、私は行いを持っています。行いのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行いによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。』…たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。」(ヤコブ2:17-18、26参)

私の父、デイビッド・アレン・ルイスは、たびたびこのヤコブの言葉を言い換えて「行いのない信仰はいんちきだ」と言ったものでした。このようなことばを要約して言い換えるなら、もし何かを本当に信じていたなら、行いにその人の信仰が表れるはずだ、ということになるのでしょう。

ここ数十年間で神を敬い、恐れ愛する人々が減っているように見えます。多くのクリスチャンが、自分の行いがどのようなものであっても救ってくださる神の好意と恵みを当てにしているように見えます。パウロはこのような事態に対して次のように語っています。「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」(ローマ6:1-2)私たちは主への恐れを無くしてしまったのでしょうか。

恵みの例え話

信者の生活における恵みについて考える時、サーカスの綱渡りを思い出します。この例えの中で曲芸人は一座(神の家族)に加わるよう招かれている(無償で救いを差し出されている)信者を象徴しています。一座に加わった後、その人は体を鍛えるために、毎日正しい食生活と訓練を繰り返すようになります。サーカスを観に来た観客は、曲芸人がテントの頂上に届くはしごを上って行くのを見て、頭上で行われる曲芸に目を見張ります。曲芸人が綱の上を歩くことができるのは恵みのおかげではありません。むしろ何時間もかけて練習し、訓練したおかげなのです。恵みは綱の下に張られているネットです。もし曲芸人が落ちることがあったとしてもネットのおかげで死なずに済むのです。同時に、「ネットがあるから落ちても大丈夫」と恵みにだけより頼み、練習をせず、何度も何度も綱から落ちるなら、綱渡りを見に来た人々の期待に応えることができません。言うまでもなく曲芸人の目標は綱を渡って演技を成功させることです。忠実に芸を成功させることによって最高のものを勝ち得ることができます。恵みと行いの関係性がこの例話によく表現されていると思いませんか?

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