ティーチングレター

神の水路 -後編-

TEXT:シャリーダ・スプリンクル(BFP本部編集補佐)

前号では、聖書に書かれた「水」に関する言葉の意味を順に学びました。
今号でも引き続き、「泉」や「滝」など、水について書かれているみことばを取り上げ、その中に込められた主の教えを読み取ってまいりましょう。

涙の谷

「なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙(baca)の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現れます。」(詩84:5-7))。この谷がどこにあったのかは分かっていませんが、bacaというヘブライ語には「泣く」という意味があります。また、bacaは嘆きと涙の一つで薄暗い谷を表し、詩篇23篇で、ダビデが語った「死の影の谷」という言葉と共通点があります。詩篇84篇は、エルサレムの神殿へ礼拝に上る喜びを歌っています。ユダヤ人の男性は、過越の祭、五旬節、仮庵の祭と、年に3度エルサレムへ上りました。そのエルサレムへの途上、彼らはこの谷を通らなければならなかったようです。

「谷」はまた、エルサレムへの長い、厳しい、ほこりっぽい旅を詩的に表現する言葉でもありました。そこには強盗がおり、旅人にとって危険な場所でもありました。「泉のわく所」について、聖書注解者マシュー・ヘンリーは、巡礼者がそこを通るたびに地面に穴を掘っていたのかもしれないと記しています。雨が降るとその穴に水が貯まり、帰る途中に飲むことができました。私たちも神の水を溜めるために、心に穴を掘ることができます。そしてそこに神の水が溜まるとき、自分が潤うだけではなく、その水で他者をも潤すことができるのです。「自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」(2コリ1:4)

バーンズは、エルサレムまでの旅路は常に喜ばしいものであり、多くの人が詩篇を歌ったと言っています。エルサレムへ近付けば近付くほど、人々の思いは旅の不便さや危険から、神殿で神を礼拝する喜びへと向って行きます。これは、砂漠にオアシスをつくり、薄暗い曇り空を、陽ひの光で一杯にすることができる方を礼拝するということです。イザヤ書35章には類似したみことばがあります。「その日、砂漠は花を咲かせる。」すでにこのことはイスラエルで起こっています。

ネゲブ砂漠にわく泉
(c)www.israelimages.com/Raffi Rondel

イスラエル建国に先立ち、ユダヤ人がアラブ人の不在地主から法外な値段でパレスチナの土地を購入したとき、土地は荒れ果てていました。大地には石や岩が露出し、草一本生えない荒野となっていました。また、一部の窪地には水が溜まり、蚊が異常発生する沼となっていました。そのため、聖地の開拓中にはマラリアによって多くのユダヤ人が命を落としました。彼らの働きによって、今日、イスラエルの土地は豊かに穀物を産出しています。

さらにその箇所を読んでいくと、「……荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。焼けた地は沢となり潤いのない地は水のわく所となり……」(イザヤ35:6-7)と書かれており、荒野に逗留する間、私たちの内にある川から水があふれ出し、沸き上がることが分かります。荒野の中に泉をつくられる神は、ご自身の民の苦しみを見過ごさず、前進させ、その困難な道のりを乗り越えさせてくださいます。ですから、私たちは薄暗い谷にくじけず、歩み続けることができるのです。

また、聖書はこのようにも忠告しています。「賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか。……塩水が甘い水を出すこともできないことです。」(ヤコブ3:10-12)

ある夜、私は数人のクリスチャンの友人と食事に出掛けました。食事中、私たちはオバマ政権、児童虐待、妊娠中絶、アメリカにおけるイスラム原理主義者の増加、親に拒絶される児童の悲しい現実について語りました。食事が終わってそこを出るとき、私は頭の中を洗い流す必要を感じ、歩きながら、ピリピ人への手紙4章8節を思い出すよう努力しました。「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。」

私は世界中で起きている恐ろしい問題や、政治について話してはならないと言っているのではありません。ただ、このような日常的な話題を議論するときには、気を付けなければならないということです。なぜなら、それは私たち自身あるいは周囲の人々を、知らず知らずのうちに批判的な態度へと導くからです。これは私たちの内にある純粋な泉を汚し、失望の中にあってもわき上がる励ましと希望を与える言葉を妨げることになります(エペソ4:29)。パウロとシラスのように、牢獄にいても「夜にはほめ歌」(ヨブ35:10)を歌う者になりたいと思います。

私たちは、会話を「良い流れ」に変えるという方法で、泉を「つくる」ことができます。気の重い政治状況に向かって、「神は御座におられ、神がすべてを治めておられる。すべての国々で神は褒め称えられる。恐れるな」と言うことができます。終わりの時に生かされている私たちは、さらに困難な時がやってくることを「知りなさい」と教えられています(マタイ24章)。神のみことばと御旨が成就されるためには、それらのことは起こらなければなりません。しかし私たちは、それらの状況にあっても、内なる聖霊によって口や思いを守り、生ける水が流れ出る岩を知っている喜びを奪われないようにしましょう。

ゴラン高原にある滝(c)Israelimages.com

力強く打ち付け、飛び跳ねる滝の水

「あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こし、あなたの波、あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました。」(詩42:7)。興味深いことに、ここは滝について書かれた唯一の箇所です。乾燥したイスラエルの土地の大半は荒野です。夏の一番暑い時期には干上がってしまう滝も多いのですが、それでもかなりの数の滝があります。大抵の聖書の注釈では、詩篇42篇はコラの子たちが書いたものとしていますが、Artscroll Tehillim(アートスクロール テヒリーム:ヘブライ語と英語によるユダヤ人の詩篇)では、ダビデが幕屋の礼拝で用いるようにコラの子たちのために書いたものかもしれないと言っています。この箇所は苦悩の詩篇です。サウル王から逃げていたダビデの当時の生活にまさに、ぴったり合う言葉です。隠れ場の一つであったエンゲディは、死海近くにある砂漠のオアシスです。この奥まった隠れ場には、水の流れや滝もありました。

滝の近くに行ったことがありますか。水が絶え間なく強打するので、その真下に長時間立っていることはできません。この詩篇を書いた詩人が言いたかったのは、そういうことです。彼の抱える問題は、絶え間なく襲ってきて、次々と彼を強打します。しかし、この苦しむ魂の最終的な言葉は、「神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の顔の救い、私の神を。」(詩42:11)というものでした。この詩篇の著者は、絶望から賛美へとその心を移しています。

水の流れを保ち、きよめる

聖書時代の軍隊の戦術の一つは、町の水源をせき止めることでした(2列王3:25)。1964年から1967年、シリアとレバノンが、ヨルダン川の三つの水源のうち、二つをせき止めると脅迫しました。このとき、イスラエルは水の戦いと呼ばれる戦争を体験しました。イスラエル、シリア、ヨルダンは、河川の98%をダムと運河で他の所へと迂う回かいさせました。そのため、かつては荒れ狂うほどの水量であった川も、今では水がほとんど流れていません。また、場所によっては、新鮮な水が流れないために下水で汚染された所もあります。

これは私たちの魂に敵がもたらそうとする汚染と同じです。敵は私たちの内にある川の流れをせき止めるだけではなく、汚染させたいのです。罪はその両方をもたらします。しかし、ヨハネはその解決方法を教えています。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)

パウロも訓戒しています。「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、」(エペソ5:25-26、ヨハネ15:3、17:17参照)また、「知恵のある者のおしえはいのちの泉、これによって、死のわなをのがれることができる。」(箴 13:14)と。私たちが、ますますみことばを読み、神に従うなら、私たちの内に流れる生ける水は、より純粋になり、より強くされることでしょう。

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