ホーム知る・学ぶティーチングレターバックナンバー > 贈り物をすることと主

ティーチングレター

贈り物をすることと主

BFP編集部 1999年12月

贈り物・贈り物・贈り物!!

この季節は、特別な人々に対して、「ありがとう」「愛しています」「あなたは私の大切な人です」「感謝しています」「あなたは私の親友です」と、言葉で表すだけでなく、目に見える形でそれを表現しようと考える時期です。

贈り物をしたり、受け取ったりするのは楽しいことです。心を込めて贈ったプレゼントを手に取り、愛する人が感動しているのを目にすると、心に温かい輝きを感じます。同じように、贈り物を受けることも、温かい気持ちにさせてくれます。あなたを特別に思いやり、時間をかけてぴったりのものを選んでくれた愛情を感じるからです。皆さまと同じように、私も贈ることに大きな喜びを感じます。ですから、贈り物をするときには、心を込めて人々を祝福したいと願っています。

聖書における贈り物の重要性

その昔、生活における贈り物の授受は、今より大きな意味を持っていました。西洋人は贈り物を特別な日、例えば-休日・記念日・誕生日・卒業などに限定します。

しかし、今日でもイスラエルでは、その大きさにかかわらず、贈り物はどんな機会にもなされます。誰かの家に招かれたとき、何も持たずに行くことは決してありません。いつでも花やケーキ、石鹸といった小さな贈り物を持って行きます。私たちの家でもこの習慣を取り入れています。そして、そういった習慣のない友人たちを驚かせます。

聖書における贈り物の贈与は、非常に重要です。へブル語では、「贈り物」と訳される言葉が、少なくとも15はあります。へブル語の単語は、全部で約5万語しかありません。英語が9万語もあることを考えると、これは大変な数といえるでしょう。

「贈り物」というへブル語には、特別の意味があります。

  • 贈物を与える者と、受ける者の関係を示します。たとえば、「ミンハー」は目上の人に捧げる貢物(贈り物)のことです。士師記3章15節では、イスラエルの解放者エフデが、貢物(ミンハー)を圧制者モアブ王エグロンに持って行きました。
  • 贈呈の心を示します。「マタン」は、贈り物によって、好意を得ようとするときに用いられる言葉です。創世記34章11-12節にこうあります。「シェケムも彼女の父や兄弟たちに言った。『私はあなたがたのご好意にあずかりたいのです。あなたがたが私におっしゃる物を何でも差し上げます。どんなに高い花嫁料と贈り物を私に求められても、あなたがたがおっしゃるとおりに差し上げますから、どうか、あの人を私の妻に下さい。』」このときの目的は、妻を得ることでした。

詩篇68篇28-29節の贈り物は、権力者への服従を顕示することでした。「神よ。御力を奮い起こしてください。私たちのために、事を行なわれた神よ。御力を示してください。エルサレムにあるあなたの宮のために、王たちは、あなたに贈り物を持って来ましょう。」

  • 「ショバド」は、罰を逃れるために差し出される贈り物です。すなわち賄賂です。申命記16章19節に、イスラエルを治める士師たちへの神の訓示があります。「あなたはさばきを曲げてはならない。人をかたよって見てはならない。わいろを取ってはならない。わいろは知恵のある者の目をくらませ、正しい人の言い分をゆがめるからである。」
  • 現代、通常用いられる言葉は「マタナー」です。聖書では、捧げ物に用いられる言葉です。言いかえれば、“贈り物”という単語として今日用いられている言葉は、貢物や賄賂ではなく、栄誉・尊敬・感謝を示しています。

聖書では、贈り物が届けられて当然の状況にもかかわらず、相手がそれを持って来ないことは侮辱でした(第1サムエル10:27)。同様に、贈り物の拒否は大変な侮辱とみなされました。そして、贈り物はできる限り盛大な品を用意し、尊敬を込めて贈られました。

この背景にあった考え方は、栄誉を示す高貴な行動でした。しかし、贈与という行為は、人間的な競争心によって腐敗してしまいました。それはしばしば、人が自慢するための機会に堕落してしまったのです。

それゆえに、イエシュア(イエス)は、贈り物は主に対するようにこっそりするようにと、度々告げられました。それは、ただ人々の賞賛を求めるのではなく、神の祝福を受けるための教えでした。マタイ伝6章で主は言われました。「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」(マタイ6:1-2)

ここまで見てきたように、この世における贈り物の形はさまざまです。同様に、霊的な世界においても、贈り物は、与えられるものも、捧げられるものも、主ご自身によって定められています。それらは、特別な祝福や罪の赦しを受けるためなど、それぞれの機会や必要に応じて千差万別でした。

聖句には、“与えること”と“受けること”は、自然界の“蒔くこと”と“刈り入れること”のように、手に手をとって進む原則であることを示す例が多くあります。

イエシュアはこう言っています。「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」(ルカ6:38)。パウロはこう告げています。「私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」(第2コリント9:6-7)

聖書は誰にもまして、神が最大の贈り手であることを示しています。神こそ全能の親であり、私たちが必要とするもの、欠いているものを正確に知っておらます。ですから、私たちはいつもぴったりと正確な贈り物いただくのです。神の贈り物は、永遠に尽きることがありません。

神の賜物

私たちひとり一人に、神が賜物を与えてくださったことを知っていましたか。

パウロはこう教えています。「…ひとりひとり神から与えられたそれぞれの賜物を持っているので…」(第1コリント7:7)

ペテロはこう告げています。「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」(第1ペテロ4:10)

ヤコブはこう観察しています。「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。」(ヤコブ1:17)

神が持っておられる賜物は、神のご栄光のために、また人々の幸福のために用いたいと求めるときにのみ経験することができます。

神からの賜物とは何でしょう?

救いと永遠のいのち:神から贈られた最上の賜物は、御国の富を開く、救いの賜物です。「…神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:23)。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:8-9)。これは素晴らしいニュースです。私たちは天秤量りの上で生きる必要はありません。つまり、異教徒のように、自分の善行が、悪行よりも大きいと神に知らせる必要はないのです。同時に、神のためにより多くを成し遂げたことを、誇ることはできません。主によって支払われた救いの代価は、誰に対しても無償で与えられました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)。これほど大きな救いが及ぼされたのは、ただ神の恵みです。しかし、これは神からの賜物ですから、もし私たちがこれを受け入れないなら、その賜物の力は失われてしまいます。

この救いは、永遠の命を与えるだけでなく、地上にいる間にも、多くの利益をもたらします。その利益とは何でしょう。

私たちの心の願い:「あなたは彼の心の願いをかなえ、彼のくちびるの願いを、退けられません。」(詩篇21:2)

勝利と豊かな祝福:「主よ。王はあなたの御力を、喜びましょう。あなたの御救いをどんなに楽しむことでしょう。」「あなたは彼を迎えてすばらしい祝福を与え、彼のかしらに純金の冠を置かれます。」(詩篇21:1、3)

力と平和:「主は、ご自身の民に力をお与えになる。主は、平安をもって、ご自身の民を祝福される。」(詩篇29:11)

恩寵・栄誉とすべての良い物:「まことに、神なる主は太陽です。盾です。主は恵みと栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。」(詩篇84:11)

恵み:「しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。」(エペソ4:7)

知恵・知識・幸福:「なぜなら、神は、みこころにかなう人には、知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神のみこころにかなう者に渡すために、集め、たくわえる仕事を与えられる。」(伝道者の書2:26)。「神は……知者には知恵を、理性のある者には知識を授けられる。」(ダニエル2:21)。「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。」(ヤコブ1:5-6)

休息:「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

神の栄光:イエシュアは彼の弟子たちに言いました。「またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。」(ヨハネ17:22)

いのちの供給:「わたしは知った。人は生きている間に喜び楽しむほか何も良いことがないのを。また、人がみな、食べたり飲んだりし、すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた神の賜物であることを。」(伝道者3:12-13)

御霊の賜物:「私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。」これらのものは、預言・奉仕・務め・教え・管理・励まし・知恵・知識・信仰・いやし・奇跡・識別力・異言とその解釈・使徒・預言者・伝道者・牧師と教師を含みます(ローマ12:6-8、第1コリント12章、エペソ4:11-13参照)

聖書を学ぶとき、あなたは毎日必要とするものとともに、いのちを変える奇跡の賜物を見ることでしょう。神は、人間が必要としているものすべての源です。テモテへの手紙にこうあります。「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」(第1テモテ6:17)

神は、惜しみない豊かな贈り主です。イエシュアはこう告げておられます。「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」(ヨハネ16:23-24)。パウロは一層強く確信してこう言います。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」(ローマ8:32)。さらにパウロはピリピの人々に言いました。「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4:19)。ペテロはこう結んでいます。「というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。」(第2ペテロ1:3)

これらの聖句を読んで、あなたはこう質問するかもしれません。「もし神が欲しいものを全て与えるというなら、どうして私たちの要求が実現しないか。」神は、“必要としているもの”はすべてお与えになりますが、それが必ずしも私たちが“欲がっているもの”ではありません。時として、自分にとって良いものであっても、神から見れば、最善ではないものを主に求めることがあります。私たちが必要とするものと、自分自身が欲しているものとの間には相違があります。求める前に、これを識別しなければなりません。確かに神は私たちの注文すべてに応えようと準備しておられますが、魔法使いではありません。しかし、その祈りが、贖いを前進させることなら、神の恵みと力は、この祈りに十分応えてくださいます。祈りをとおして、神の奇跡的な力は、多くの人々に御国をもたらしています。

神は必要なものを、決して差し控えるようなことはされません。イエシュアは言われました。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」(マタイ7:7-12)

「神の賜物と召命とは変わることがありません。」(ローマ11:29)。この聖句は、神は文字になった約束を実現されるという意味です。

神への応答

一時的興奮のために、賜物が与えられるわけではありません。神は結果を期待してお与えになります。私たちが主に喜びをもたらす方法のひとつは、子どもと同じように、わくわくと興奮しながら、神の贈り物を受けることです。そして、謙遜に、主に栄誉と栄光を帰するよう心掛けながら、賜物を用います。

賜物の価値を高めるためには、自分が祝福を受けるのと同時に、他の人々を祝福するために用いなければなりません。さもなければ、それは役に立ちません。あなたが鳴らすまで、ベルはその役割を十分に発揮できません。同様に、棚の上に置かれ、使われない賜物には、価値がないのです。あなたが誰かに贈り物をしたとします。その時は丁寧な感謝を表してくれたとしても、その後二度とそれを見ることも、それについて話すこともないとしたら、どんなにつらいか良くおわかりだと思います。神の思いもそれと同様です。神は、ご自分が与えた賜物を、私たちが感謝して生活の中で用いることを期待しておられます。

私たちがどんなに祝福されているかを考えてみてください。宇宙の神は、ひとり一人をご存知であり、それぞれのために賜物をお選びになられます。それを心から受け取り、奉仕の生活し、犠牲を捧げて主をあがめるべきです。古代の人々が、罪過あるいは感謝の贈物として、主にさまざまな犠牲(捧げもの)を持って行ったのに対して、現代のクリスチャンは、自分自身の存在を「神に受け入れられる、聖い、生きた供え物として」(ローマ12:1)として捧げるように召されています。

神の賜物は、その栄光のために用いられるべきです。申命記16章17節ではこう言っています。「あなたの神、主が賜わった祝福に応じて、それぞれ自分のささげ物を持って出なければならない。」

マタイ伝25章14-30節にある、タラントの話を思い出してください。3人の人が、主人からそれぞれ5タラント、2タラント、1タラントを受け取りました。5タラントと2タラントを受け取ったふたりは、それを用いて主人のために利益を得ました。彼らは、「私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」(マタイ25:21、23)と言われ、主人から報いを受けました。しかし、1タラントをもらった者は、何もせず、使わないまま主人に返しました。主人の答えは厳しいものでした。「だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。」……「役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」(マタイ25:28、30)

神は個々に賜物とタラントを与えておられます。他の人を見て、自分より多い、少ないなどと考えてしまいがちですが、私たちは皆、少なくとも“救い”というひとつの賜物が与えられています。「タラントを用いて、より多くの祝福を受けよ」というのが、この物語の要点です。むしろ、用いられなければなりません。もし用いないなら、それらを失い、それに伴う祝福もみな失うでしょう。イエシュアは告げられました。「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:14-16)。「山の上の町」とは、現在のサヘドのことだと信じられています。サヘドは、ガリラヤ湖を眺める山の上にあります。イエシュアの時代、おそらくその光が、遠く離れたところからも見えたのでしょう。今日でも、ガリラヤ湖から何キロも離れた丘の上にある村々の光を見ることができます。その光を隠す方法はありません。これは、主がくださった賜物と祝福を用いて、周りの世界を祝福するときのあり方です。人々は、この光を見ます。あなたの光をしまいこんで、忘れてしまってはなりません。それを用いましょう。さもなければ、それはなくなってしまいます。そして、多くの賜物を持っている人々や、それらをより多く用いている人々に分け与えられてしまうでしょう。信仰をもって踏み出し、あなたに与えられている賜物を神のご栄光のために用いるとき、それは天の栄光となります。自分にではなく、神に焦点を合わせてください。神は内なる賜物を増やし、あなたは“主人の喜び”を共に楽しむことができるでしょう。

神の賜物とイスラエル

イスラエルとユダヤの民のために、神は特別な賜物を用意しておられることが、聖書をとおしてわかります。それと同時に、彼らを祝福する人々のためにも、特別な賜物が用意されています。これは心踊ることです。

創世記12章3節で、アブラハムが召されたとき、神はこう言われました。「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。」イスラエルとアブラハムの子孫を祝福するとき、そこには恵みがあります。しかし、もしそれを行わないなら、そこにはのろいがあります。

ローマ人への手紙を書いたとき、パウロは異邦人に強くこう言いました。「異邦人は霊的なことでは、その人々からもらいものをしたのですから、物質的な物をもって彼らに奉仕すべきです。」(ローマ15:27)

ローマ書11章13-32節で、パウロは異邦人に、「自分たちはその契約や約束をあらわすオリーブの木に、つぎ木された野生のオリーブの枝である」と教えました。つぎ木された異邦人(野生のオリーブ)が、台木の枝に対して高慢になり誇ってはならないこと、また、思い上がって自分たち異邦人が木を支えているのだと考えないようにと告げました。もと木が、私たちを生かし続ける、いのちの樹液を与てくれるのです。イスラエルの一部は、いっとき盲目にさせられましたが、神は御民とその契約をお忘れになっていません。「イスラエルはみな救われる」日が来ることを、パウロが告げています。また、イスラエルとユダヤ民族に対して、愛と尊敬の態度を持つようにと言っています。彼らは「父たちのゆえに愛された者たち」です。

彼らなしには、聖書もメシヤも救いもありませんでした。ですから、私たちは彼らに神の愛とあわれみを示すべきです。

タラントと同じ章にあるマタイ伝25章31-36節で、イエシュアは、「私の兄弟たちに、食物・水・着物・慰めを与えることは、私にしているのと同じことだ」と語っておられます。事実、これはさばきの日に、諸国家の上に下る神の祝福、あるいはさばきの基準となります。

ユダヤ人は、神の救いを人類に与える管です。しかし、歴史をとおして、人類は彼らに愛もあわれみも示しませんでした。また、祝福する賜物をも、彼らに与えませんでした。私は、聖句の示すところは非常にはっきりしていると思います。神からの賜物を用いてイスラエルを祝福するなら、聖書が教えているとおり、神ご自身がイスラエルの祝福を私たちに与えてくださるのです。これはエルサレムの平安のために祈ることも含んでいます。同時に、これは神が私たちを繁栄させてくださるという約束でもあります(詩篇122:6)。どうしてそれを失うことができましょうか。主にお捧げしましょう

贈り物をするこの季節に、私たちは神から何をいただいたのか、また、何を御国のご計画のために捧げることができるかを考えましょう。

クリスマスの物語は、贈り物や捧げ物について、素晴らしい教訓を与えてくれます。賢者が遠い東からやって来て、黄金・乳香・没薬という貴重な贈り物を新生児のメシヤに差し出しました。彼らは、ヘロデ王の宮殿に赤子がいることを期待して、初めにそこへ行きましたが、見つけることができませんでした。彼らはその幼な子を、羊飼いの村ベツレヘムに見い出しました。賢者たちは、その方がどなたであるかを知っていたので、赤子を礼拝しました。赤子がどこにいたかには、目も留めませんでした。もしイエシュアが宮殿でお生まれになったなら、彼らの贈り物と賞賛は、宮殿の富裕さとその地位に対するものだったと思われるでしょう。しかし、素朴なベツレヘムでは、ただ神からの超自然的な啓示だけが、最高の贈り物を捧げてメシヤを礼拝しようとする賢者たちを動かしたのです。

私たちがいつもこのような態度を持っていますように。神が私たちに何をしてくださるのかを期待するのではなく、神であられるお方のために、心の内側から主を礼拝し、仕えようとする願いを呼び起こすべきです。賢者には、「神が私たちと共におられる」と呼ばれた方の存在により、家畜小屋が礼拝所になりました。この1年が毎日主の臨在で満たされ、あなたの家が神への礼拝所となりますように。そして、あなたの生活が、主への奉仕に捧げられ、主の御名においてあなたの周りにいる人々の祝福となりますように…。

エルサレムからシャローム

記事の先頭に戻る

ページトップへ戻る

特定非営利活動法人
B.F.P.Japan (ブリッジス・フォー・ピース)

Tel 03-5969-9656(平日10時~17時)
Fax 03-5969-9657

B.F.P. Global
イスラエル
アメリカ合衆国
カナダ
イギリス&ヨーロッパ
南アフリカ共和国
日本
韓国
ニュージーランド
オーストラリア

Copyright 1996- © Bridges For Peace Japan. All Rights Reserved.