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ティーチングレター

「アバ、父よ」 Part-2

BFP編集部 1999年10月

「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父。』と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」(ガラテヤ4:6)

世の中に、絶対的と言えることは余り多くありませんが、全ての人に肉の両親がいるという事実は、そのひとつと言えるでしょう。ふたりの男女が結ばれること無くして、誰ひとり存在することはあり得ません。しかし、父親としての働きは、常に十分とは言えません。良い父親になるとは、健全な家庭のために、神の聖書的モデルになることです。結婚と同様、多くの人々が神無しで父親の役割を果たそうとして、悲惨な状況を招いています。多くの結婚が離婚に終わっています。何という悲劇でしょうか。離婚には、複雑な要因が絡み合っていますが、もし人々が主に委ね、神の御言葉とその光に従って生活するなら、離婚はかなり減少するだろうと思います。

現在、ほとんどの国で、家庭崩壊が深刻な問題になっています。そしてこのような家庭が、父親との関係を正しく持つことのできない、悲しい次世代を造り出しています。これは、父親の責任放棄、婚姻外の出産によるもの、また家庭内で正しく役割を果たせない父親がいるためです。その結果、バランスの悪い家庭で成長した多くの人々に、アイデンティティー(自己存在意識)の危機が起こっています。それはしばしば、精神不安定や異常行動としてあらわれます。またこの問題は、父なる神の解釈や理解にも影響をおよぼします。

また、この問題は、父なる神の解釈や理解にも影響します。(イスラエル・ティーチング・レター「アバ、父よ」パート1を参照ください。パート2には、父なる神が人間とどのように関わり、人間は神とどのように関わるべきかということについて書かれています)。

今回は、「アバ、父よ」のテーマを引き続き取り上げ、父親や家族の聖書的役割について学んでいきたいと思います。神の御国において、父親であることに、どんな意味があるのでしょう。また子どもとして、自分の父親とどう関わるべきでしょうか。私たち全員が父親であるか、あるいは父親を持っています。ですからこの学びには、すべての人に語られるメッセージが含まれていると信じます。

父親が方向性を定め、安全や必要を備えることができる家庭こそ、聖書的、また歴史的に健全な家庭と言うことができます。聖書では、人は常にある特定の人の息子または娘として、その父親と同一化されて来ました。ヘブル語で、「〜の息子」という意味の“ベン”、また「〜の娘」という意味の“バット”は、父親と子どもたちを同一化するために使われます。例えば、“デイビッド・ベン・ヤフダ”や“イェシュア・ベン・ヨセフ”というように、父親の名前の接頭辞として用いられました。

家庭には、父親でなければ埋められない空洞があります。これは母親についても同様です。

「父親」とは、責任を持つこと

父親はどう振る舞うべきか、神は御言葉をとおして指導されています。この訓戒は、神の心から直接注ぎ出され、与えられたものです。

エペソ書6章4節にはこうあります。「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」別の訳では、「父たちよ。あなたがたも、子どもをいら立たせてはいけません。かえって、主の訓練と指導によって育てなさい。」

同様に、パウロはエペソ書5章25節で、「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい」と、妻に対する訓戒を述べています。これは、夫は妻のために自分の命をも喜んで捧げ、必要を備え、何があろうともそこにとどまり、最善を求め、どんな犠牲を払っても妻を支えるということを意味しています。

しかし、どうすればこれを十分に実行することができるのでしょう。それにはまず、主を正しく知らなければなりません。主を知ることにより、初めて正しい理解と知識を持ち、妻を愛し、子どもを育てることができます。言い換えるなら、良い父親、あるいは夫であるためには、親しい温かい主との関係が培われる必要があります。この土台無くして、父親としての役割を成功させることはできません。

出エジプト記15章2節にはこうあります。「主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。この方こそ、わが神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。」今日のキーワードは、“私の父の神”です。聖書時代、子どもたちは父親から神について学びました。

聖書時代における父親の役割

聖書時代、父親は家族の揺ぎない頭(かしら)でした。夫のことをヘブライ語でバアル、またはロードと言いますが、夫は家族の頭として、尊敬を受ける立場にありました。ある者は、権威主義的な暴君でしたが、ある者たちは家族をしっかりとつなぎ留める、哀れみ深い頼みの綱のような存在でした。

父親には、家族の霊的なことがらを監督する責任がありました。誰も聖書を読むことができなかった時代、父親の最も重要な役割のひとつは、神の御言葉に生き、それを伝えていくことでした。イスラエルに住んでいると、聖書的な父親像を見ることができます。シャバット(安息日)が近づく金曜日の午後、父親と息子たちが腕を組んで、祈るためにシナゴーグ(ユダヤ人の会堂)へ行く姿を見る度、大いに恵まれます。これがごく小さい頃から始まり、大人になっても続きます。聖書的なモデルとも言える父親は、単に妻や子どもたちの身の回りのことのみに熱心になるのではありません。家族を霊的な成長へと導きます。

また、父親は子どもたちの基本的な教育に責任を持ちます。そして、息子たちに、商業(生きるすべ)ビジネス経営売買結婚の交渉などについて教えます。

御言葉が明らかにしているように、子どもたちは父と母を敬わなければなりません。それによって私たちには長寿が約束されています。パウロは言いました。「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。『あなたの父と母を敬え。』これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、『そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。』という約束です。」エペソ6:1-3、出エジプト20:12・申命記5:16参考:ティーチング・レター「長寿の秘訣」1999年2月号)。

昔は、母親が子どもたちの世話をしました。成長すると、今度は父親の指導の下に置かれ、職業的技術や神のことを学びます。ラビは、「自分の息子に商業を教えない父親は、息子を呪うことになる」と教えています。また、娘は母親に留まり、家事について学びました。家族が成り立つために、父親と母親の両方に課せられた日々の働きは、広範囲に渡っていました。子どもたちを奴隷のように働かせるということはありませんでしたが、子どもたちにも役割分担がされました。そして、その役割分担を達成するための、良いお手本にはこと欠きませんでした。同時に、生活は退屈な仕事の繰り返しではありませんでした。今日と同じように、遊んだり笑ったり踊ったり歌ったりまたスポーツに参加したりペットも飼いました。

しつけは、子どもたちに善悪を教える子育ての一部でした(箴言22:6、15)。毎週のシャバットを含む宗教的なお祭りや祝いの日には、家族全員の祈りが捧げられます。過越の祝いでは、出エジプトの物語を代々継承するために、過越の食事が持たれますが、これも子どもたちのために他なりません。

人生や宗教、職業に必要な教育が、両親によって子どもたちに受け継がれました。ラビがシナゴーグで教師の役割を果たすようになった紀元前3〜2世紀頃まで、学校はありませんでした。勿論、彼らの教えは、トラーや言い伝えの律法に基づいた宗教的・倫理的なものだったでしょう。男子の教育は、6歳頃から始められましたが、女子は公の教育を受けませんでした。子どもたちは教師の足もとに座り、主に復唱することによって様々なことを学びました。

新約聖書では、イェシュア(イエス)は、単なる大工の息子であったにもかかわらず(ルカ4:16-17)、律法の知識を現わし(ルカ2:41-51)、ヘブル語を読む能力があったことがわかります。

子どもたちは、20世紀の現代より、もっと強く家庭や家族と繋がっていました。聖書時代の家族にとって、働き遊び教育家族、そして友人でさえ、すべてが家庭を中心に回っていました。

一貫して、聖書は麗しい父と子の姿をあらわしています。例えば、アブラハムとイサクの関係(創世記22:1-19)、また放蕩息子が家に帰ってくるのを待つ父親のように(ルカ15:11-32)、父親は家族に非常に大きな愛と心遣いをあらわしています。新約聖書では、イェシュアは神をアバと言っていますが(マルコ14:36)、これは、私たちが言うところの“おとうちゃん”や“パパ”と同じ意味で、明らかに親しい愛の関係を現わす言葉です。詩篇の記者は言います。「父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。」(詩篇103:13)

夫、父親は必要を備える者です。テモテは怠惰な父親は、異教徒(不信者)よりも悪いと教えました(第1テモテ5:8)。

確かに、すべての家庭が調和して成り立っていたわけではありません。しかし、御言葉の教訓、何代にも渡る強い家族の関係、また家族を重視した社会は、家庭が養育の場となる、あらゆる機会を提供してきました。そして、それは神が私たちのために意図されたご計画でした。

父親のいない人は?

詩篇68篇5節では、神は「みなしごの父、やもめのさばき人」と呼ばれています。御言葉は、何度も「みなしごとやもめを慰め助け導き保護し養い家に入れ支えること」を教えています。ヤコブ書1章27節にはこうあります。「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。」なぜでしょうか?

聖書時代、孤児とは、“父親を亡くし、残された者”であり、両親を亡くした子どもとは限りませんでした。ですから、同じ御言葉の箇所で、やもめとみなしごについて語られているのをしばしば見ます。父親が亡くなると、母親と子どもたちは生活の手段を失いました。息子は一族に留まりますが、妻は夫とその一族のものとなるので、自分の一族の元へ帰ることはできません。しかし、夫が死んだとき、彼のすべての財産と所有地は、兄弟や一族のものとなり、妻のものにはなりませんでした。もし一族が彼女を留めないなら、彼女は衣食に事欠くことになります。妻は働いたり、管理したり、交渉したりといった男性の役割を果たすことができないので、夫の兄弟が彼女と結婚する習慣がありました(例:ルツとボアズ)。

母親を亡くした者について、聖書は言及していません。なぜなら、母親が死んだ場合、その一族が子どもを育てたからです。

どうして神がみなしごとやもめの保護者なのか、そして教会にも同じようにすることが期待されているのかおわかりいただけたでしょうか。

これは今日の私たちに何を教えているのか?

まず、父親の皆様は『父親のための十戒』と『父親のためのA-B-C』を読んでください。それを最終ページに添付しました。聖書や机、冷蔵庫など、日々の生活の中で、すぐ目に付く場所に貼ってください。そして、これらの原則を学び、確認してください。それは主を敬うことになり、強い絆の家族を建て上げるでしょう。

次に、もしあなたの教会にやもめや子どもと共に離婚された方がいるなら、会衆は彼女やその子どもたちをなおざりにしてはいけません。家族である皆様は、彼らを慰め助け支え導き守り養い家に入れ援助すべきです。

最後に、もしあなたが自分の成育環境をとおして、父なる神に対する間違った概念を持っているなら、今日、主に祈ってください。愛なる神であり(第1ヨハネ4:8)、あなたを愛しておられる神に求めてください。神をアバ・お父ちゃんと呼ぶことを学び(ローマ8:15)、優しく哀れみを持って応えてくださる方であることを知ってください。どうか神を恐れないでください。神はあなたを傷つけられることはなく、ただ、あなたを愛し祝福することを願っておられるのです。

エルサレムからシャローム

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