ヘブライ語で学ぶ詩篇

詩篇103篇19~22節

103:19 主は天にその王座を堅く立て、その王国はすべてを統べ治める。

ダビデは、主が天に揺るがない王座を持っておられ、その権力が全地にまで及ぶと教えます。ここでヘブライ語の「すべて」という言葉の前には冠詞が特別に置かれています。冠詞があることで「すべて」という言葉が「天地万物のすべて」を表現していると分かります。ヘブライ語では究極的な「すべて」を指す時にそのような文法構成が使われました。ダビデは、第I歴代誌 29章12節で「富と誉れは御前から出ます。あなたはすべてのものの支配者であられ、御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてが偉大にされ、力づけられるのです」と祈りました。その時にも同じように「すべて」の前に冠詞を置いて、世に存在するすべてのものということを強調したのです。

そのような素晴らしい、全世界のすべてを治める王が、ちっぽけな私たちに目を留め、 「恵みとあわれみとの冠をかぶらせ(4節)」てくださるとは、一体どういうことでしょうか。王として冠をかぶる権利を持つ主が、王でもなく、冠をかぶる資格もない私たちに冠を与えてくださるとは、なんという恵みでしょう。

103:20 主をほめたたえよ。御使いたちよ。みことばの声に聞き従い、みことばを行なう力ある勇士たちよ。
103:21 主をほめたたえよ。主のすべての軍勢よ。みこころを行ない、主に仕える者たちよ。

この節に至り、ダビデの賛美は自分の中だけに留まらなくなりました。ダビデは、天に王座を据えておられる主の前で、主に直接仕えている天の軍勢に神を賛美するように呼び掛けます。私たちは、どのようにすれば、無限の栄光を持つ神にふさわしい賛美を捧げることができるのでしょうか。私たちには、限られた神の啓示(聖書)しか与えられていません。聖書のすべては真理ですが、神についてのすべての真理が聖書に含まれているわけではありません。また、例えそれらが含まれていたとしても、限りのある人間の脳では神のすべてを完全に理解できないでしょう。

おそらく、ダビデは自分の口で神をほめたたえる限界を認めたのかもしれません。それで、天の御使いたちに、代わりに讃えてほしいと願ったのかもしれません。実はこの20、21節でも同義型パラレリズムが使われています。

御使いたちよ。みことばに聞き従い、御言葉を行う力ある勇士たちよ。
主のすべての軍勢よ。みこころを行ない、主に仕える者たちよ。

つまり、「すべての軍勢」は主に仕えている御使いたちのことを指しています。聖書の中で、主を「万軍の主」と呼ぶことがありますが、それは、これらの御使いの軍勢を引き連れておられる主を指します。また、このパラレルから、聖書の言葉に聞き従うことは、それらを行い、主に仕えることだと分かります。

103:22 主をほめたたえよ。すべて造られたものたちよ。主の治められるすべての所で。わがたましいよ。主をほめたたえよ。

ダビデはさらに、天の御使いのみならず、神によって創られたすべてのものが、あらゆる場所で主をほめたたえるように呼びかけます。パウロは、神の与えてくださった最高の恵みは、十字架ですべての人間の罪のために捧げられたイエス・キリストだと教えます。それは、最終的に「イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです(ピリピ2:10-11)」と教えています。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。(22節)」ダビデは、この詩の最後でもう一度、1節目で自分に命じた言葉を繰り返します。天の御使いがみな主を讃え、全世界のすべてのものが主を賛美する中、ダビデは自分のたましいに主をほめたたえるように言い聞かせます。ダビデは、自分の賛美の声が、すべての被造物の壮絶な賛美の中でも、埋もれないことを知っているのです。そして、たった一人の賛美の声でも耳を傾けてくださる神の素晴らしさに戻って、この詩篇を締めくくるのです。

詩篇103篇を振り返って

ダビデがこの詩篇を書いた時、彼は、神のすばらしさを心の底から体験していました。ダビデは、神のことば、個人の体験、事実に基づいた神の民の歴史を振り返ることによって、人間の存在のはかなさと、神に対していかに不誠実な存在であるかを悟りました。同時に、その人間の不誠実に対してはるかに優れた神の不変さ、そして神の恵みの底知れなさを発見したのです。その結果として、彼の心の内にとどめることができないほどの賛美の心が湧き上がったのです。

私たちは、クリスチャンとして「わたしたちの内にもダビデと同じような礼拝の心があるか」今一度、自問自答する必要があるのではないでしょうか。

「礼拝」という時、クリスチャンが陥りやすい両極端があります。

一方は、習慣的に礼拝という集会に参加し、会衆賛美をしながら、心の中には主に対する喜びがないクリスチャンの礼拝です。聖書の言葉を知ってはいるが、神の御声には耳を傾けない。教会という組織の中で奉仕はしているが、私生活の中で神のみこころを行うことには関心がない状態です。もし、そのような状態に陥ってしまっているなら、ダビデのように自分に神の恵みを言い聞かせる必要があるのです。私たちが聖書のことば、個人の体験、そして神の民の歴史を通して知る、神の恵みの知識によって、もう一度心を激しく揺さぶらされる必要があるのです。心が揺さぶられるためには、聖書を読む習慣を身につけなければいけません。そして、そこに書かれていることを共に分かち合い、消化して、お互いを励まし合う環境に自分を置く事が求められます。

もう一方では、集会場で情熱的な礼拝を捧げても、その感情が日常生活や事実に基づいていない人たちがいます。礼拝のとき、スイッチを入れるように心を切り替えることができるのです。それは本当は良くないことです。なぜなら、本当の礼拝はスイッチを入れなくても常に持ち続けていなければいけない姿勢であって、聖書のことばに対する信仰と、みことばを実践した時に体験する恵みが土台になったものだからです。

それらの土台が無いまま、言葉と感情だけで主を礼拝できると考えている人は、心と知性がつながっていないということです。パウロは、「私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう(Iコリント14:15)」と言いました。

ダビデの賛美は、口先だけの礼拝ではなく、心から溢れる礼拝でした。その心は、神の真理に深く根付いた信仰と体験の結果でした。聖書のことばが無ければダビデのそのような確信は生まれなかったでしょう。また、ダビデの礼拝は知性をも十分に働かせたものでした。ダビデは突然「主の創られたすべてのものよ、主を誉め称えよ」と呼び掛けたのではありません。ダビデは、じっくりと、さまざまな角度から主に属する祝福と主の誠実さと恵みの大きさを知的に理解しました。その結果、ダビデは感情だけではない、身のある賛美を捧げることができたのです。

聖書の真理が土台となっていない礼拝、または口では賛美していても、心に喜びのない礼拝は、神に喜ばれないと聖書は繰り返し教えます。イザヤ29章13節で主は「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令(伝統)を教え込まれてのことにすぎない」と言われました。

新約聖書では、イエスがその言葉を引用し、形式や感情だけで礼拝している民に対して、「『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」と言われました。心がこもっていない口先だけの礼拝、感情的であるが理性の働いていない礼拝は、いずれも偽の教師が教える世的な礼拝です。

この詩篇を通してダビデが一番望んだことは主を讃えることです。私たちも忙しい生活の中で主を讃える理由を聖書の中から見出す必要があります。そして、それについて深く考えることによって、心が動かされる必要があります。

なぜ、この習慣・生活が大切かと言うと、私たちの心は、価値があると信じたものを礼拝する性質があるからです。そして、私たちの心は礼拝する対象に魅入られ、徐々にその礼拝の対象に似てくる性質を持っているからです。

ある人が神を礼拝する価値を見出せなければ、彼は徐々に神以外のものを礼拝し、それに仕え始めるようになります。そして、神の似姿になるように創られたにもかかわらず、他の偶像の似姿に変わってしまいます。

礼拝は人間の根本的な欲求です。私たちもダビデに見習いましょう。聖書から、神の真理と約束を深く理解しましょう。そこから生まれる揺らぐことのない喜びと感謝の心を持ちましょう。それらの過程を通して、霊においても、知性においても、ダビデのように、神をほめたたえられるようになるのです。

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